【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月15日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回の続きである。

が、まずは最初にお断り。時間がないので地図等の資料掲示だけにとどめ、議論等は後刻(あるいは後日)とさせていただくことをご容赦願いたい。

 

©国土地理院

 

これは、1万分の1地図「田園調布」(昭和4年測図)の一部。

 

©国土地理院

 

これは、1万分の1地図「田園調布」(昭和12年修正測図)の一部。

 

©国土地理院

 

これは、昭和22年に米軍が撮影した空中(航空)写真の一部で、上地図と同じ場所となるよう加工・編集したもの。

 

これらと前回掲げた二つの地図をあわせ比較してみると、雪ヶ谷駅、調布大塚駅、そして雪ヶ谷大塚駅がどのように変遷していったかが、はっきり読み取ることができるだろう。ということで、内容は近いうちに加筆します。

 

とりあえず、以上。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、当Blogで慶大グラウンド前という駅名についてあれこれ考察してみたが、今回も同じ東急池上線の雪が谷大塚駅に対して考察してみたい。この駅をターゲットとした理由は、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行所 JTBパブリッシング。2008年9月1日 初版発行)という書籍を眺めているときに、以下のような紹介文があったからである。

「引用開始」(同書121ページ)

 雪ヶ谷駅が移転のため次の調布大塚と至近となっていたので、昭和8年(1933)6月にこの二つを統合して雪ヶ谷大塚とした。

「引用終了」

そして、「昭和8年(1933)6月1日雪ヶ谷大塚として開業」と紹介されている。これは明らかに誤りである。東急電鉄の正式史料においてはもちろんのこと、各種文献(たとえば「回想の東京急行」等)や当時の地図をはじめとして、ほとんどすべてが雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅への改称を昭和18年(1943年。ただし年月日は不詳)としており、上記は著者の宮田道一氏の勘違いであるだろう。だが、確かに勘違いを犯しても不思議のない話なのである。

 

なぜ勘違いを犯しても不思議のない話かと言えば、上記引用部に示したように、昭和8年(1933年)に雪ヶ谷駅と調布大塚駅は合併したとすれば、この時点で雪ヶ谷大塚となるのは自明の流れであるのに、なぜか統合時点では雪ヶ谷のままであり、忘れた頃とも言える10年後の昭和18年(1943年)に突如として、雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅に改称したのだから、「なぜ?」と思えるのである。この「なぜ?」を解明すべく、雪が谷大塚駅の変遷について検討していこう。

  • 大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。
  • 昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。
  • 昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を蒲田寄りに150メートル移設。
  • 昭和7年10月1日 雪ヶ谷及び調布大塚一帯は東京市に編入され、東京市大森区となる。
  • 昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。
  • 昭和8年7月10日 池上電気鉄道臨時株主総会において、役員全員の辞任が承認。新たに五島慶太以下、目黒蒲田電鉄役員が就任。事実上、目黒蒲田電鉄の支配下に入る。
  • 昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。
  • 昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。

宮田道一氏の勘違いは別にして、ここまでの流れは各種文献にほとんど違いはない。だが、ここから昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称されるまでの流れは、この手の本のバイブルといわれている(らしい)「回想の東京急行 I」及び「回想の東京急行 II」(いずれも、著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)のうち、東急池上線を取り上げている「回想の東京急行 I」には、次のように記されている。

「回想の東京急行 I」134~135ページ

「引用開始」

 昭和8年6月には、雪ヶ谷と調布大塚の両駅を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。

 昭和9(1934)年10月1日、池上電鉄は目蒲電鉄に吸収合併され、翌年11月1日には未完の新奥沢支線も廃止となってしまった。

 昭和18(1943)年には、駅も少し蒲田寄りの現在地に移転のうえ、雪ヶ谷大塚駅と改称して現在にいたっている。相対式のホームは合理化のため島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。

「引用終了」

大きく分けて3つの事象を確認できる。整理すると、

  • 昭和8年6月…雪ヶ谷と調布大塚を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。
  • 昭和10年11月…新奥沢支線廃止。
  • 昭和18年…雪ヶ谷大塚駅と改称し、相対式のホームは島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。

と、時系列に並べることができる。これが正しいかどうかは、別の資料で補強する必要があるが、やはり公式資料を当たるのが最初に行うべきことだろう。最も都合のいい資料は、昭和18年3月15日発行の「東京横浜電鉄沿革史」である。

 

「東京横浜電鉄沿革史」の467ページには、曲線変更工事として雪ヶ谷構内が記載されている。ポイントを列挙すると、

建設当時半径 200メートル → 改良後半径 400メートル工事延長 356メートル

工事費 15,663円

竣工年月 昭和12年10月

とある。また、同書484ページには「雪ヶ谷電車庫及び修繕工場は、昭和13年の新築」との記載があり、着工年月は明らかにされていないが、曲線変更工事を含めたこれらの工事の完了は昭和12~13年中ということがわかる。この記載内容と、先の「回想の東京急行 I」の記載内容と矛盾はしないが、ここで重要なポイントを忘れてはならない。それは、いわゆる新奥沢線の存在である。

 

いわゆる新奥沢線は、昭和10年11月1日に廃止となったが、少なくとも前日の10月31日までは雪ヶ谷~新奥沢間の電車を運行していたはずである。つまり、電車運行を行っている間は、線路や駅はそのままであったはずで、昭和8年6月1日に調布大塚駅を廃止したからといって、すぐさま曲線変更工事ができるものではない。工事延長356メートルという距離がそれを立証している。調布大塚駅の改札口付近から、雪ヶ谷方向に356メートル進むとそこはもう雪ヶ谷駅構内になり、まさに「東京横浜電鉄沿革史」に記載されている「雪ヶ谷構内」となるからである。

 

つまり、曲線変更工事は調布大塚駅廃止以降から行われていたかもしれないが、本格的に工事を始めるには新奥沢線の廃止を待たねばならず、すなわち、昭和10年11月1日以降になるわけである。また、この間には目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の吸収合併もあったわけで、このことも考慮に入れるならば、やはり新奥沢線の廃止以降に曲線変更工事及び雪ヶ谷電車庫及び修繕工場建設工事が本格化したと見るべきだろう。

 

以上を裏付ける別の資料として、昭和13年作成(測図)の3,000分の1縮尺の都市図を示そう。地図の正確性という問題は、また別にあるのだが、さすがにできてもいないものを図面化することはほとんどない(完成予想図は別)。では、その点を留意しながら確認してみよう。

 

 

この地図から明らかなように、昭和13年の時点でほぼ現在と同様の構造になっていることが確認できる(検車区等は、上図中の東調布警察署及び南側の空白部分に後につくられる)。これは、「回想の東京急行 I」に記述のあった昭和18年における事象のうち、雪ヶ谷大塚駅に改称した以外のすべてが、この時点で既に地図上に明記されていることを意味する。つまり、同書では昭和18年にあったとされるもののほとんどが、昭和13年までには完成していたのである。

 

では、池上電気鉄道時代の、曲線変更工事や雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築工事、新奥沢線廃止前はどうなっていたのだろう。同じ地域の昭和4年作成(測図)の同図と比較すると、上記の議論を補足することができるだろう。

 

 

両図を比較すると、雪ヶ谷~調布大塚~御嶽山前がどのように変遷してきたかが明らかだろう。両図を比較すれば、いくつもの重要なポイントに気付くはずだ。

 

と、ここまででいったん続くとさせてください。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年4月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

地域歴史研究に必要なもの、というより必須のものは「典拠」となる資料の収集だが、狙っている資料であったとしても、そこには思いがけない「発見」もある。もちろん、「発見」というのはあくまで自分視点でしかないのだが、今回面白い「発見」と思ったのは、『東京府北豊島郡王子町全図』(昭和5年2月発行)を眺めていた時であった。

 

 

これがその部分図だが、赤線を引いたところがポイントである。「女体」、「腰巻」という何やら意味ありげな地名が並んでいるが、ここは現在の住居表示上では、

  • 東京府北豊島郡王子町大字堀ノ内字女体 = 東京都北区堀船三丁目1~5番辺り
  • 東京府北豊島郡王子町大字堀ノ内字腰巻 = 東京都北区堀船二丁目26~29番辺り

となっている。残念ながら小字地名なので、当然のごとく現在まで継承されていないし、それどころか大字の堀ノ内も消滅(堀船という町名は「堀ノ内」と「船方」の合成地名)してしまっている。場所は地図中に石神井川が見えるように、隅田川(旧荒川)への合流点(現在は石神井川改修によって流路が直線化したが、旧川道に沿って堀船と豊島の町境として残っている)なので、どのあたりかは見当が付けやすい。

 

それにしても、なぜこのような「女体」、「腰巻」といった地名が付けられたのだろう。現時点ではまったく調査していないので不明であるが、きっと何か理由があって付けられたものに違いない。とはいえ、こんなものまで調べ始めたら一生掛かってもやり尽くせないのは自明なので、単に今回は示すだけにとどめておこう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」第5弾をお贈りする。まずは写真をご覧いただこう。

 

 

多数の人物が並ぶ記念写真。主要人物にはA~Gまでアルファベットを付した。これこそ田園都市計画の主要登場人物勢揃いの写真なのである。「東京横浜電鉄沿革史」に掲載されるこの写真解説には、「田園都市建設につき大正四年三月土地有志が飛鳥山渋沢子爵邸を訪問せる時の記念撮影」(字は一部修正)とあるように、時は大正4年(1915年)3月、渋沢子爵が満64歳(数えで65歳)の誕生日を迎えた頃のものである。

 

主要登場人物は、

 

A:渋沢栄一 子爵

B:海老沢正忠 氏(池上村)

C:小杉信太郎 氏(碑衾村)

D:畑弥右衛門 氏(ブローカー)

E:安藤武 氏(碑衾村)

F:岸田鈴太郎 氏(馬込村千束)

G:豊田正治 氏(玉川村)

 

であり、カッコ内に村名を記しておいたが、わかる人にはわかるであろう蒼々たる地主、有力者が集っていることが確認できる。注意深く見れば、これら村の地主・有力者は紋付き袴で、それ以外は洋装である点も面白い。

 

碑衾村(洗足地区、大岡山地区)、馬込村千束(洗足地区)、池上村(大岡山地区)、玉川村(奥沢地区、玉川等々力地区)の有力者を集めており、のちの田園都市株式会社の分譲する地区と合致するのだが、気になる点もある。それは、調布村(多摩川台地区、現在の田園調布の一部)の有力者が見当たらないことである。単に調査漏れの可能性もあるが(紋付き袴の方のうち3人が不明)、現時点ではそういうことで。

 

この集合記念写真を撮影した時は、田園都市建設を実現するということで具体的なプランはともかく、ある程度の方向性は示されたであろう。その後、この地域がどういう方向で発展していったのかを知る際、きっかけの一つは間違いなくこれにあったことをおさえつつ、今後の地域歴史研究を進めていきたい。と来年以降の抱負を述べて今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」シリーズも4回目。今回も池上電気鉄道旗ヶ岡駅関連の一環として、至近にあった洗足幼稚園の話題。まずは、園舎の写真からご覧いただこう。

 

 

生け垣のある民家っぽい建物だが、手前の小さな立て札には見にくいが「洗足幼稚園入口」と書かれているように、これが洗足幼稚園。現在の東京都品川区旗の台六丁目22番(ゼンリンの電子地図で示すとここ)で、香蘭女学校に隣接していた。残念ながら洗足幼稚園のその後は調査し切れていないが、現在地には既にない。写真は「還暦記念 洗足幼稚園(大正15年10月19日発行。著者 棟居喜九馬)」という本からの引用だが、これには洗足幼稚園の成立までの歴史などが書かれているが、なかなかに地域歴史研究の視点からも興味深い内容が多い。その中から、この場所に幼稚園を作った理由、そして命名理由を述べた部分を示そう。

斯くて其設立の場所を府下荏原郡平塚町字中延さいかち坂上に定む、此地は洗足田園都市に近く高台にして見晴らし佳く、特に其隣地財団法人四皕荘(筆者注:四と荘の間の字が表示されない場合は「百百」が一文字)所有の二千坪にも余る一面芝生の庭園を時々園児の遊園に使用し得る承認を得たるにより、之れ以上理想的の場所はなく、且つ此辺は近来頓に人家増加して幼き子供の世話をする適当な機関を要求せらるる事頗る切なるものありと聞き、遂に該場所を選みたる次第である、又其名称を「洗足」となしたるは、此辺一体に共通する地名を用いたるに過ぎざるも、元来其字が昔時日蓮上人が池にて足を洗ひたる故事に因みてゆかしく、又基督が弟子の足を洗ひ給ひたる謙遜の徳も偲ばれ、又一面には余が過去の生活の足塵を洗ひ去って、心機一転無邪気な初童に更生し、更に新天新地の舞台に復活する気持にも協ひ、旁此名を冠したる訳である、

往事は、洗足田園都市がその姿を現し、これに刺激を受けた周辺地主もこぞって耕地整理した土地を優良住宅地として展開していた頃、つまり「洗足」ブランドが光り輝いていたことから命名されたのが伺える。位置関係を示すために、以前も示した昭和初期の地図を掲げておく。洗足幼稚園の北方向に位置する(地図にはほとんど入らない)のが洗足田園都市となる。

 

 

さて、洗足幼稚園の創立時の簡単な歴史もふれておこう(「還暦記念 洗足幼稚園」より)。

  • 大正15年3月26日趣意書を配布して園児募集。意外にも直ちに30数名の応募を得る。
  • 財団法人四皕荘所有の耕読寮を借り受け、大正15年4月12日午前10時開始。
  • 大正15年5月22日東京府の正式認可を受ける。
  • その後、敷地を定め校舎を新築し、65名収容可能な設備を完成。
  • 寄付金は1,000円の藤田政輔氏を筆頭に毛利元秀子爵(100円)、田園都市株式会社(200)円など、現金は17人(個人、法人)。
  • 入園料は2円、月謝は4円。

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回及び前々回に引き続き、今回も「一枚の写真」。最近の地域歴史研究は池上電気鉄道にこだわり続けているが、今回はライバルの目黒蒲田電鉄(現、東京急行電鉄)。現在の多摩川線(多摩川~蒲田間)にかつてあった駅、本門寺道駅である。

 

 

この駅(写真は昭和7年(1932年)刊行の「矢口町誌」より)。その名のごとく、池上本門寺に因んではいるが、「道」とついているのがくせ者で、本門寺に通ずる古道に接しているから「本門寺道」駅。今の東急池上線蓮沼駅付近を南北に走る道路がそれで、蓮沼駅から南下することおよそ400メートル。本門寺門前までは、実に2km弱になる。駅の場所は、今の東京都大田区西蒲田八丁目12番西側あたりがそこにあたる。

 

この駅。既に廃駅だが、わずか15年程の短い歴史でもそれなりに記すことは多い。まず、駅ができた理由がすごい。池上電気鉄道に対抗して作られたという点は、理由としては問題ないが、それをこの場所に作ってしまうのがすごい。「道」と付けているので詐欺ではないが、洗足池の最寄り駅として今でも勘違いされることの多い、洗足池駅、洗足駅、北千束駅の混同と同様の事態を招いたことだろう。

 

そして駅名変更。本門寺道という駅名の由来は池上電気鉄道対抗であったわけだが、これを合併したことで名実一致させるように「道塚」駅に改名した。本門寺「道」と関わりは若干あるが(この道に面した塚が由来)、古来よりの道塚という地名(かつては村名、のちに矢口村の大字名、蒲田区の町名)がありそれを採用。

 

そしてもう一つは線路変更。地図をご確認いただいていれば、本門寺道駅がかつてあったところは既に線路はない。今では蒲田駅から西にほぼ直線化している多摩川線だが、当時はここを通るような形で南側に弛んだような線形となっていた。これを太平洋戦争末期、一面は焼け野原となった際、帝国陸軍の力も借りて一気に新線を作ってしまった結果で、今では考えられない手法で行われたのであった。結果、線路がなくなってしまった本門寺道駅(道塚駅)は存在基盤を失い、廃駅となるしかなかった。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回に引き続き、今回も「一枚の写真」。そしてこれも前回に引き続き、「大崎町郷土教育資料」(昭和7年刊)より。能書きはともかく、まずは写真をご覧いただこう。

 

 

目黒川を渡る池上電気鉄道線と大崎橋。左側に五反田駅が見える。当時は、地表面から東洋一の高さを誇る五反田駅というが、この写真を見ると「なるほどなぁ」と唸らされる。そして、今でも強風時には大崎広小路止まりとなってしまうのも、この高さのせい。一両編成の電車でも、横からの強風にあおられると簡単に下に落ちそうに見えるのがこわい。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」のコーナーです(苦笑)。

 

どこかで聞いたことのある、というかまんまのコーナータイトルですが、今回から不定期で(忘れてしまったら今回限りの可能性大)連載予定の「一枚の写真」。第一回の今回は、タイトルにも掲げたように「池上電気鉄道時代の五反田駅遠望」です。掲載元は、昭和7年(1932年)に刊行された「大崎町郷土教育資料」という本から。この書籍は、東京府荏原郡大崎町が東京市に合併されることを記念して発刊されたものだが、なかなか興味深い写真がいくつか掲載されている。その一つがこれである。

 

 

空が広かったので部分掲載。遠くに見える松の木は、池田山(現 品川区東五反田五丁目)にあるもので、江戸期より人々の目標ともなったことだろう。さて、写真中央を貫いているのは、高架部分の池上電気鉄道線(現 東急池上線)で、左側には大崎広小路駅があり、特徴的なS字カーブを経た先に五反田駅の構造物(屋根等)が確認できる。大崎広小路駅そばに小さい一両編成の電車も確認できるが、ビルが建ち並ぶ現在と比較しても、建物が建て込んでいるような印象を強く受ける。とはいえ、高架線よりも高い建物は見えず、高架線がいかに目立つ存在だったかもわかるというものだろう。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回「調布大塚駅は、本当に昭和8年(1933年)に廃止となったのか?」の事実上の続き。「続~」としてもよかったが、あえて変えてみた次第。

 

さて、調布大塚駅の廃止についての疑義を前回提示したわけだが、国立公文書館アーカイブによる情報によれば、以下のような公文書があることが確実なようである(文書を見れば確実である、と書くところだがあえて)。

 

 

もし、調布大塚駅が昭和8年(1933年)に廃止されたとするなら、そして雪ヶ谷駅と統合(合併)して雪ヶ谷大塚駅になったとするなら、この「雪ヶ谷停車場位置変更及び調布大塚停車場廃止の件並びに線路変更届供覧」なる鉄道局の文書をどう説明するだろうか。もちろん、これは出された文書に対する局内での供覧に関してとあるように、ここに記述される「昭和10年(1935年)9月19日」にこれらが実施されたわけではない。ただ、通常この手の文書が出された後(当日以降)に実施されることがほとんどなので(例外の一例として開業直後の池上電気鉄道がこれにあたるが)、少なくとも昭和10年(1935年)頃までは調布大塚駅は生き残っており、また雪ヶ谷駅も雪ヶ谷大塚駅に改称されることはなかったと読める。

 

これについては、以前に当Blogにおいても取り上げた「東急の駅 今昔・昭和の面影」という書籍に大変参考になる資料が掲載されているので、一部分引用してご紹介する。

 

 

これは本書の見開き(表紙側)に掲載される沿線案内図で、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を合併後、奥沢線廃止前の期間に発行されたものと思われる(前回掲載した沿線案内より前)が、ここにも調布大塚駅は掲載されている。つまり、昭和8年(1933年)に調布大塚駅は廃止になったようには書かれていないのである。

 

 

そして本書の見開き(裏表紙側)には、過去の切符コレクションが掲載されており、ここには「雪ヶ谷→大崎広小路 五反田」と記され、昭和16年(1941年)8月31日の日付が刻印された切符が掲載されている。さらに同ページには、

 

 

昭和16年(1941年)頃の車内販売用乗車券も掲載されており、ここでも「雪ヶ谷」表記のままである(さすがに調布大塚駅は未掲載)。

 

以上、これらから考えれば、昭和8年(1933年)6月1日に調布大塚駅が廃止され雪ヶ谷駅と統合(合併)し、雪ヶ谷大塚駅と改称したとする東京急行電鉄50年史の記述は、いったい何を根拠としたのか。こういう疑義を呈しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまで当Blogにおいて、東急池上線の前身である池上電気鉄道に関連した様々なものを論じてきたが、今回もまたそれである。今回のターゲットは調布大塚駅。今はなき、現在でいえば、雪が谷大塚駅~御嶽山駅間にあった駅である。この駅は、これまで当Blogでももちろんだが、通説としては

 

昭和8年(1933年)6月1日、雪ヶ谷駅と統合により廃止

 

とされている。根拠はもちろん、東京急行電鉄50年史である。が、しかし、雪ヶ谷駅に関しては駅の位置異動に関してや、雪ヶ谷大塚駅への改名時期など通説が定まっていなかったり、あるいは誤った説が流布されていることは「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」や「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」などで検討したとおりである。

 

これらを検討する中で浮かんだ疑義は、雪ヶ谷駅と調布大塚駅を統合したという割には、駅の場所は昭和12年(1937年)前後に行われた線形(曲線)改良工事の結果、ほぼ現在地に移設したことが同時代資料と言うべき「東京横浜電鉄沿革史」で確認できたことで、統合したという表現が正しいのか? ということだった。さらには、雪ヶ谷大塚駅への改名時期が統合したとされる昭和8年(1933年)より、ずっと後であるという事実もこの疑義を深めるものとなった。

 

さらに、昭和8年(1933年)6月1日という時期は、まだ目黒蒲田電鉄の統制を受ける前であり、調布大塚駅を積極的に廃止する理由も見えない。統合により、駅の位置がこのタイミングで変わったというのならまだわかる。しかし、そうでないのだから、なぜこの時期なのか? となるわけである。

 

そして、この疑義を確証に変えるキッカケを得たのは、以前ご紹介した「図説 鉄道パノラマ地図」という書籍である。本書の36~37ページに「昭和12年3月現在」と書かれた「沿線案内 東横・目蒲・玉川電車」が掲載されており、何と本図には調布大塚駅が掲載されているのである。

 

 

これを単なる記載ミスとするか、それとも事実とするか。これだけでは何とも言えないので、関連資料を探してみたら、池上電気鉄道合併後それほど経過していないと思われる沿線案内図を見つけることができた。

 

 

全体を載せると字が小さすぎるので、一部を拡大すると、

 

 

ご覧のとおり。しっかり調布大塚駅が掲載されており、しかも田園調布駅と連絡バスが運行されているように書かれているのである(これは先の「沿線案内 東横・目蒲・玉川電車」にも掲載されているが)。ここまで書いておいて、記載ミスはさすがにないだろう。池上電気鉄道を合併して、おそらく最初期に作られた沿線案内図であることは、各路線の記載されている駅名を列挙すればわかるだろう。

 

目蒲線

目黒、不動前、武蔵小山、西小山、洗足、大岡山、奥沢、田園調布多摩川園前、沼部、鵜ノ木、下丸子、武蔵新田、矢口渡、本門寺道、蒲田

 

東横線

渋谷、並木橋、代官山、中目黒、祐天寺、碑文谷、府立高等、自由ヶ丘田園調布多摩川園前新丸子、元住吉、日吉、綱島温泉、大倉山、菊名、妙蓮寺、白楽、東白楽、新太田町、反町、神奈川、横浜、高島町、桜木町

 

大井町線

大井町、戸越、蛇窪、中延、荏原町、東洗足、洗足公園、大岡山、緑ヶ丘、自由ヶ丘、九品仏、尾山台、等々力、上野毛、二子玉川

 

池上線

五反田、大崎広小路、桐ヶ谷、戸越銀座、荏原中延、旗ヶ岡、長原、洗足池、石川台、雪ヶ谷調布大塚、御嶽山、東調布、慶大グラウンド、池上、蓮沼、蒲田

 

さらに、本図には奥沢線が記載されていない。もしかしたら意図的に掲載していないだけ(どうせ廃止するつもり)かもしれないが、時系列として、

  • 昭和9年(1934年)10月1日、池上電気鉄道を合併。
  • 昭和10年(1935年)11月1日、奥沢線廃止。
  • 昭和11年(1936年)1月1日、戸越→下神明、蛇窪→戸越公園、洗足公園→北千束、本門寺道→道塚、東調布→久ヶ原、慶大グラウンド前→千鳥町、と6駅の駅名を変更。

となっているので、ほぼ昭和10年(1935年)中に作成されたことは間違いないだろう。もし、奥沢線廃止後に作成されたのであれば、さらに範囲を狭めて特定可能になるが、どちらにしても昭和10年(1935年)頃までは調布大塚駅が存在していたように書かれている。

 

この事実をどう受け止めるか。いずれも単なる記載ミスと片付けるのは簡単だが、本図上では池上線の主要駅として五反田、洗足池、雪ヶ谷、池上、蒲田と並んで調布大塚が表記されているのだ。昭和8年(1933年)に廃止となった駅に対し、いくら合併した他社線の駅だからといってこのようないい加減な記載をするだろうか。

 

現時点における私の推論は、調布大塚駅は昭和12年(1937年)前後の雪ヶ谷駅~御嶽山駅間曲線改良工事頃、おそらく雪ヶ谷駅が調布大塚駅寄りに(ほぼ現在地に)移動した時点をもって廃止になったと思われる。昭和13年(1938年)の3,000分の1地形図には、線形(曲線)改良後の路線等が掲載されているが、ここに調布大塚駅はない。そして、これ以降の民間企業等が出版した地図においても調布大塚駅は見えなくなっているものが多い。さらに、先にふれたように池上電気鉄道が昭和8年(1933年)6月に調布大塚駅を積極的に廃止する理由が見えないことも併せ、調布大塚駅昭和8年廃止説を否定する、となるわけである。

 

といったところで、今回はここまで。