【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月17日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、「自由が丘」(または「自由ヶ丘」)という地名が全国的に多く見られ、それは地名そのものがブランドとなっているからというところまで話を進めた。今回は、「自由が丘」の由来について話を進めていこう。

 

まずは、公式?と言っていいのか、目黒区のホームページ内にある「目黒の地名 西部地区 自由が丘」をご紹介しよう。由来話は、概要であればほぼここで事足りてしまう。これをなぞるように説明すれば、由来は昭和2年(1927年)11月14日設立の自由ヶ丘学園(中学校、小学校、幼稚園を併設)から、となる。この出来事がなければ、この地が自由が丘(当初は自由ヶ丘)と呼ばれることはなく、地名としての自由が丘もどこか別の場所となっていた可能性どころか、地名として成立していたかも微妙である。まず、自由ヶ丘学園ありき!なのだ。

 

 

上記は、現在の自由ヶ丘学園高等学校の表札?だが、学校部分も含め、ここ10年程度の間に新築されたようで、70年以上の伝統を外見から感ずることはできない。

 

だが、何もないようなところに学校を設立しようとは思わない。自由ヶ丘学園の誘致に決定的な役割を果たしたのが、1927年(昭和2年)8月28日の目黒蒲田電鉄傘下の東京横浜電鉄による渋谷駅~丸子多摩川駅間(現、東急東横線)の開通である。この際、途中駅として九品仏駅(現、自由が丘駅)が設置され、この最寄の地に自由ヶ丘学園が誕生したのである。東横線開通以前のこの当時の古地図を見ると、近郊農村の一つに過ぎないことがわかる。

 

©国土地理院

 

どこが自由が丘?といった感じの地図だが、これは大正末期のものである。東横線開通のほんの数年前のもので、「西谷畑」(当時の地図なので右から読む)と見えるように、このあたり一帯は「谷畑」(やばた)と呼ばれる農村地帯だった。主な施設としては、「37.0」とある数字の横に鳥居マークがあるが、ここが今もこの地にある「熊野神社」である。現在の地図と照らし合わせる場合、この神社と地図下方に波線状に見える九品仏川(現在、目黒区と世田谷区の区界になっている九品仏川緑道)、地図左上から右斜め上に通る道路(現在の目黒通り)が目安となるだろう。

 

以上のことからわかるように、東横線の敷設と九品仏駅の開設がなければ、ここが自由が丘となることはなかったというわけである。

 

次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

久々?の地域歴史シリーズで、今回取り上げるのは東京都目黒区にある「自由が丘」についてである。いちいち、東京都目黒区にある、と断りを入れなければならないのは、全国各地に「自由が丘」(または「自由ヶ丘」)を名乗るところが多いからだ(苦笑)。列挙すると、

  • 北海道帯広市自由が丘
  • 北海道千歳市自由ヶ丘
  • 青森県青森市自由ヶ丘
  • 青森県弘前市自由ヶ丘
  • 仙台市宮城野区自由ヶ丘
  • 福島県いわき市自由ヶ丘
  • 茨城県水戸市自由が丘
  • 茨城県つくば市自由ヶ丘(元 稲敷郡茎崎町自由ヶ丘)
  • 福井県あわら市自由ヶ丘(元 坂井郡金津町自由ヶ丘)
  • 愛知県名古屋市千種区自由ヶ丘
  • 大阪府河内長野市自由ヶ丘
  • 兵庫県三木市志染町自由が丘本町など
  • 高知県宿毛市自由ヶ丘
  • 山口県防府市自由ヶ丘
  • 福岡県北九州市八幡西区自由ヶ丘
  • 福岡県宗像市自由ヶ丘など
  • 鹿児島県鹿児島市自由ヶ丘

この他にも、地域名や団地名、分譲地名として勝手に名乗っているところを加えれば、とんでもない数に上るだろう。それだけ、「自由が丘」という名前はブランドとしての価値がある地名というわけだが、それは本家本元の目黒区自由が丘周辺でもはっきりとわかる。

 

 

例えば、目黒区自由が丘のすぐ南は、世田谷区奥沢にあたるが、当然のごとく「自由が丘○○」と名乗るものが多い。最寄り駅が自由が丘駅といえるうちはまだいいとして、遠く離れ、むしろ奥沢駅や九品仏駅の方が近いと思われるものまで、自由が丘(自由ヶ丘)を冠するものが多い。

 

また、西に目を転ずれば、世田谷区等々力にある自由が丘産能短期大学がある。昨年、この名称に改称した(以前は産能短期大学)ということだが、最寄り駅が自由が丘駅というには少々苦しいような気がする。と、それはともかく、自由が丘という地名はブランドであり、それが目黒区自由が丘はもとより、日本全国に広がりを見せている地名なのである。

 

次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2006年11月19日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

さて、大鳥居の秘密その3の今回は、なぜこの地が大鳥居なのか?という原点を追求してみる。その1でも「穴守稲荷神社がまだ羽田空港内(現在は空港跡地というべきか)にあった頃、穴守稲荷神社まで続く道にいくつか鳥居があり、一の鳥居(大鳥居)がこの地にあったことによるものらしい」とふれたが、これは大鳥居駅内にあるこのレリーフ?からわかったことである。

 

 

これは往時、大鳥居が存在していた頃のイメージだということだが、いったいいつから、そしていつまでこれがあったのだろう。古地図をいくつかあたってはみたが、はっきりわかるものではなかった。

 

 

これは、明治14年に作成された大鳥居交差点近辺の地図だが、大鳥居があるかどうかの記載はなく、さっぱりわからない。それどころか、穴守稲荷神社方面に向かう道(赤い丸をつけた所から東(右)側へ向かう点線)は、ほとんど田んぼの畦道レベルに過ぎず、江戸期よりの道は、これより南にある多摩川縁の羽田道がメインストリートであり、こんなところに大鳥居が存在したとは考えにくい。

 

これが大きく変わるのが、「大鳥居の秘密? その2」で紹介した耕地整理の際であるが、この時には穴守稲荷神社への参道という位置づけだったのかどうかは微妙となっている。というのは、京浜電鉄穴守線が既に開業しており、穴守稲荷神社のすぐ近くまで路線を伸ばしていたからである。とはいえ、レリーフにある絵から判断するに、おそらく耕地整理によって田んぼの畦道同然だったものが拡幅されて以降には、大鳥居の存在があったのは確かだろう。本末転倒的にいうなら、大鳥居駅という名称は開業当初、つまり明治末期から存在するわけで、往時のメインストリート(大鳥居近辺を南北に走る道路)から東に向かうこの地点に穴守稲荷神社の一の鳥居があっても不思議ではないのである。

 

こうした疑問を持ちつつも、さらに資料を探していたら、決定的なものを見つけた。それがこれである。

 

 

これは、羽田地区の歴史を紹介する「羽田史誌」に掲載されていた手書き地図である。昭和20年代後期の頃を思い出して書かれたものという紹介だが、大鳥居駅周辺を見るとわかるように、鳥居の絵を書いてあるところに「大鳥居跡」という文字が見える。うん、確かにこの場所(現 大鳥居交差点辺り)に大鳥居が存在し、それが京急の駅名となって、交差点名ともなり今日に続いている、というわけだ。

 

以上、3回にわたってお送りした大鳥居の秘密は、これでいったん終了です。今度、大鳥居に行くのはいつになるだろうか。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2006年11月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

その1では、足元をコンクリートで固められた「車両通行止」の看板が、どうして何の変哲もない道路上に置かれているのか? という疑問を提示して終えた。今回のその2では、どうしてこのような形とされているのか、図書館等に出かけて調べてみた成果をお伝えする。

 

 

まず、はじめにこの場所をGoogleマップで確認する。これを見ると、ここが重要なところだと気づく。

 

 

何やら横線が道路上に入っているのが確認できるが、要はこれが車両通行止という意味である。地図ではもちろん、現実でも道路としか見えないこの場所が、なぜ車両通行止めとなっているのか。これを知るには、過去にさかのぼり歴史を調べるのが確実だ。

 

というわけで調べてみると、京浜急行空港線は、このあたりは以前は地下ではなく地上を走っており、1997年(平成9年)11月23日に地下化したということがわかった。ということは、以前は踏切があったのだろうか。このあたりは地元の方か、詳しい京急ファンの方にでも聞いてみないとわからないが、まぁ自分で調べられる範囲は自分で調べてみようと、手あたり次第、古地図を探してみた。すると、なかなかに興味深いものが見つかった。これである。

 

 

これは、この地域が耕地整理(耕地とは名ばかりで、東京周辺では宅地・工場地開発のための道路整備事業といえる)された際に作成された貴重な手書きの地図である。これは、耕地整理後を表しているが、注目ポイントはここである。

 

 

これを見ると、この部分は京浜急行空港線(当時の名称で言うなら京浜電鉄穴守線)の路線敷だったことがわかる。ここには掲載しないが、耕地整理前の比較図でも線路形状の変更は行われていないので、耕地整理によって新たにできた道路は、線路を挟んだところまでが道路であり、線路上は京浜電鉄の敷地、つまりは道路でないとなるわけである。

 

この意味するところは、もともと道路だったところに線路を通す場合は、道路占有許可を得て、道路交通を極力妨げないよう、様々な工夫が求められる(つまり踏切を作るのは当たり前で、かつ、必要以上に道路交通を妨げない工夫が求められる)が、後から道路が線路をまたぐように作られても、そこに踏切を設けるか否か、あるいは線路上を横断していいかどうかは、鉄道事業者が判断すること(地元等からの要請は当然あるだろうが)。なので、どう見てもここは踏切があってしかるべきという道路があっても、おそらくそれは鉄道が先に敷設され、道路が後だったことによるものだろう。加えて、線路をまたぐ必要性が薄い等と判断された結果だと思える。

 

こういったことから考えると、ここが車両通行止となっている流れは想像できる。正しいかどうかはわからないが、「鉄道が先に敷設」→「線路をまたぐように道路が新設」→「京浜電鉄が線路をまたぐのを認めない」→「例外的に歩行者等の通行を認める」→「線路は地下化したが、京浜急行電鉄の土地であり道路ではないことから、歩行者等の通行のみに限られる」→「結果、不自然な車両通行止の看板が設置された」となるだろうか。

 

というところで、次回は大鳥居そのものの謎に迫っていきたい(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2006年11月17日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今日は、出張で東京都大田区にやってきた。大田区と一口に言っても、東京23区で最大の面積を誇るだけあり、世界的に著名な羽田空港や蒲田行進曲で知られる蒲田、高級住宅地として名高い田園調布など、様々な顔を持つ。私が出張先として出かけたのは、どことは言わないが、最寄り駅は京浜急行電鉄空港線の大鳥居駅である。大鳥居駅というが、どこにも大きな鳥居はもちろん、普通の鳥居も見つからない。ただし、地下にある大鳥居駅ホームの地上、環八通りと産業道路の交差点名も「大鳥居」となっている。

 

 

この大鳥居という名の由来は、穴守稲荷神社がまだ羽田空港内(現在は空港跡地というべきか)にあった頃、穴守稲荷神社まで続く道にいくつか鳥居があり、一の鳥居(大鳥居)がこの地にあったことによるものらしい。だが、今目立つのはホテル東横インが2棟、壁のように並んで建っていることと、あちこちのビルにSEGAのロゴがあることだろう。そう、ここはSEGAの本社があり、SEGAマニヤの聖地なのである。あ、ワタミグループの本社もありましたね。

 

 

というわけで、ちょっとSEGA本社前まで行ってみた。ラブ&ベリーやムシキングなどのヒットもあり、そういったものがショウケースの中にも飾ってあったりするが、せがた三四郎などはもういない(古苦笑)。

 

せっかく大鳥居駅という普段来ないようなところまでやってきたので、軽く街歩きを始めてみた。ら、いきなり道の真ん中にこんな表示があった!

 

 

いきなり「車両通行止」とある。無論、写真で見る手前は道路が続いており、奥は環八通りに接続している。道の幅も自動車が通れないわけではないし、4メートル以上は確実にある。にもかかわらず、「車両通行止」とはどういうことなのだろうか? つづく。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月1日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

新年、明けましておめでとうございます。旧年中は、XWIN II Weblogをご覧いただき、どうもありがとうございました。

本年もよろしくお願いいたします。

 

と挨拶はこのくらいにして、前回の続き。東京渋谷区を流れる、渋谷川に架かる稲荷橋の話の続きを始めよう。移転した当時は豊栄稲荷神社であったが、稲荷橋ができた当時にあった田中稲荷神社の歴史は古く、鎌倉時代、渋谷八幡宮を初めてお祭りした河崎土佐守基家の曾孫、渋谷高重によって祀られたといわれている。700年近い歴史を誇った神社だった。田中稲荷神社と呼ばれる前は、「堀ノ外稲荷」と呼ばれており、これは渋谷川が渋谷城の濠に利用されていたためとのことである。また、庶民の間では、渋谷川の端にあったため「川端稲荷」とも呼ばれていたらしい。この地は現在、1階に山下書店の入るビルあたりである(前回の写真にあった暗渠側を写したものの左側あたり)。

 

 

昭和10年(1935年)頃の渋谷駅周辺の古地図を見ると、稲荷橋(赤い○)と稲荷神社(青い○)が確認できるが、この上流部分に不思議なことに東横百貨店(現、東急百貨店東横店)が渋谷川をふさいでいることが確認できる。ご存知の方はご存知のとおり、本来ならありえない河川の上に私有の建物が建っているのだ。このあたりの経緯は「本当」のところ定かでない。東急50年史という東急電鉄の公式資料によっても、このあたりの経緯ははっきり書かれておらず、書けない事情があるのではと勘ぐるに十分だが、実際のところそうでなければ、河川の上に鉄筋コンクリート製の建築物など建てられないだろう。東京高速鉄道(のちの帝都高速度交通営団、現在の東京メトロ銀座線)を建設する際、うまいことやったのでは?と私は思っている。

 

ちなみに渋谷川とは、この稲荷橋のすぐ上流から地下河川となるが、その先の宮益橋(現在、橋はないが宮益坂下あたり)から始まり、下流の天現寺橋までの2.6kmである。天現寺橋から下流は古川と名称が変わり、一方、宮益橋から上流は隠田川とこちらも名称が変わる。隠田川の水源は新宿御苑内である。

 

というわけで、前回と今回、年をまたいで渋谷川に架かる最初の橋、稲荷橋について取り上げてみた。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2006年12月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。今は渋谷ストリームができて、渋谷川も地下化され、すっかり面影をとどめていません。】

 

今日で今年も終わり。大晦日である。XWIN II Web Pageを更新していた頃は、この一年を振り返る的な記事を掲載していたが、このXWIN II Weblogではそういう記事は行う予定がない(今のところ)。では何を行うかというと、年末年始にまたがり、東京渋谷区渋谷駅近くを流れる渋谷川に架かる稲荷橋について語っていきたいと思う。

 

渋谷駅近くにある「稲荷橋」は、渋谷川が地上に姿を見せる最初にかかる橋で、別名、小板橋とも呼ばれるようだが、欄干には稲荷橋とだけ書かれている。

 

 

この写真は、稲荷橋の欄干が写るように撮ったものだが、逆光撮影のためよくわからなくなってしまった(失笑)。奥には、東急東横線がとまっているのが見えるが、東横線渋谷駅のホームである。

 

「渋谷川が地上に姿を見せる最初にかかる橋」と書いたように、ここより上流側は暗渠となり、地上から川は見えない。

 

 

ご覧のとおり、橋の手すり?は見えるが、その下は川ではなく、自転車がとめられているように地面である。要は、川は蓋をされてしまっているのだ。一方、下流側はというと、

 

 

こちらは、細くて水量はわずかながらも、しっかり川(ドブ川)であることが確認できる。川の両側はビルが立ち並んでいるが、南北を流れるため、昼時にはじっかり陽がさすようになっている。以上のとおり、稲荷橋によって暗渠と明渠が分断されているのである。

 

稲荷橋の由来となった稲荷神社は、この橋のすぐそばにあった「豊栄稲荷神社」にちなんだもので、現在はこの地にない。昭和36年(1961年)10月、東京都の区画整理事業により現在地(渋谷区渋谷三丁目4番7号)に移転してしまった。ただ、この橋が架けられた頃は豊栄稲荷神社ではなく、「田中稲荷神社」と呼ばれていた。昭和27年(1952年)、道玄坂上にあった「豐澤稲荷神社」を合祀し、名称を豊栄稲荷神社と改称したからである。その豐澤稲荷神社も、もとは元猿楽町の京極家の下屋敷内にあったものを明治初年に、渋谷中豐澤にあった多くの稲荷祠を合祀し、道玄坂上に移転したものである。つまり、多くの稲荷神社を合祀したのが今日の豊栄稲荷神社となっているのだ。

 

というところで、次回に続きます。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年10月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

その1、その2、その3、その4を継ぐ本編になるが、実に半年近くの間をあけてしまった。もちろん、忘れていたわけではなく、かといって書くネタがなかったわけでもない。単に優先順位の問題と執筆時間の問題だけで、ようやくその4.5を書くことができる(できたと言えないのはこれから書いてみなければわからないため)、というわけである。

 

その4の最後には、このような結論を出していた。

 

私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。

 

しかし、どうやら計画だけではなく、短期間のみ実在したと思われる証拠が残されていた。

 

©Google

 

現在(2009年10月31日)、Googleマップのストリートビューで旧桐ヶ谷駅ホーム北側付近を確認してみるとわかるように、上写真にあるように法面の工事が行われていることがわかる。つまり、旧桐ヶ谷駅時代の遺構がこの工事で逸滅してしまった可能性があったのだ。そこで、今さらながら桐ヶ谷駅付近の写真が掲載されている文献をもう一度じっくり確認してみたところ、しっかりと遺構が残されていたことを確認できた。

 

 

「回想の東京急行I」に掲載されているこの写真。絵解きにも書かれているように、左側擁壁に削られた跡があり、これがかつての桐ヶ谷駅の北側出口だとしているが、計画図面と見比べてみてもおそらく正しいものと思われる。このことは、現在(法面工事施工後)だけを見ていてはまったく気付くことは不可能である。

 

とは言いつつも、実は「回想の東京急行I」を読んだ時点で、この記載は既に目にしていたが、本当にこの削られた跡が北側出口へのアプローチとしての確証が得られなかったので、「計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかった」と判断した。ただ、改めてその1からその3まで通して読んでみて、このこと(左側擁壁に削られた跡が過去に存在したこと)をふれておいた方がいいだろう、と考え、今回このような形で載せてみた次第である。

 

それにしても、左側擁壁の削られた跡を見ると、本当にここが北側出口へのアプローチだったのかという疑問が出てくる。当時の池上電鉄のホームは、ホーム両側(あるいは片側)に緩やかな下り傾斜(あるいは階段)がかかっており、地表面とフラットになるような構造となっていた。現在の東急池上線における御嶽山駅、久が原駅、池上駅、蓮沼駅のような構造である。なので、桐ヶ谷駅においても島式ホームであることを考慮に入れれば、北側出口に向かって徐々に下り傾斜(階段)によって、地表面とほぼ同じ高さにし、上り線路と下り線路の間から接道するという構造を採りそうなものである。

 

だが、左側擁壁に北側出口へのアプローチがあったとすれば、ホームから何らかの構造物を経由していかなければならない。しかもそこには線路が敷かれている上をまたぐ形となるので、かなり不自然な構造となる。計画図面を見れば、ホームとアプローチ道路がフラットになっており、線路をわたるように見えるが、左側擁壁の削られた跡を見る限り、地表面と同じ高さにはなく、どちらかというとホームの高さと同じように見える。さすがに線路に対して、ホームと同等の高さのアプローチ道路までの構造物を設置することは考えられない(線路をふさいでしまう)だろう。そうなると、一度ホームから地表面(線路面)と同じ高さまで下げ、線路をわたり、その上でアプローチ道路の高さまで上り傾斜(階段)を設けない限り、下り線を電車が通れなくなってしまうことになる。よって、この構造を実現するには、ホームから階段(下り斜面)を降り、線路を渡ってから、もう一度アプローチ道路の高さまで階段(上り斜面)を上るという面倒なものとなってしまう。

 

 

あくまで可能性の問題だが、これを実現するには、桐ヶ谷駅付近が複線でなく単線であれば可能となる。上に載せた「開業当初の桐ヶ谷駅」予想図は、複線を想定して書いたものだが、ホームからアプローチ道路間を通る下り線が存在しなければ、ホームの高さから勾配(階段)をほとんど設けることなく、アプローチ道路に接続することが可能となる。イメージ的には、離れた二つの山の山頂同士を橋でつなぐようなものである。こう考えれば、左側擁壁の削られた面が地表面でなく中途半端な高さ(ホームとほぼ同レベル)という説明も可能となる。

 

 

以上の推論も含め、桐ヶ谷駅の構造をとらえ直してみよう。

 

桐ヶ谷駅開業当初は、新設した雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅も含め、既存の蒲田駅~雪ヶ谷駅も単線から複線で開業した。しかし、桐ヶ谷駅は大崎広小路駅までの工事に時間がかかったため、暫定的に終点となった。このため、当初設計を活かしつつ、駅ホームからアプローチ道路までは下り線路をまたぐ構造物によって実現した。そして約1か月後、大崎広小路駅まで延伸開業し、下り線をまたぐ運用に問題が出てきた(ホームとアプローチ道路がフラットに接続されていれば構造物が邪魔で、上り下りを要するのでは利用者に難多い)ことから、新たにホーム南側に階段を取り付け、駅舎を設置した。こうすることで、線路をわたることなく地域の主要道にも直接接続できるようになり桐ヶ谷駅は、戦災を受けて破壊されるまでこの構造が続いた。と結論づけたい。

 

というわけで、桐ヶ谷駅の構造について推論も交え、考察してみた。桐ヶ谷駅は、池上電鉄にとっては大変珍しい島式ホーム(高架駅を除く。のちに雪ヶ谷駅が島式ホームとなるが、これは国分寺(奥沢)線の分岐駅となったため)であり、いくつかの文献によれば、ホームからの出口が2か所あるとし、これまた池上電鉄にとっては唯一の構造を持っているとされる。しかも、既に駅は廃止されており、その痕跡を見いだすことも難しいばかりか、開業当初はもちろん、戦災で焼け落ちる前までの駅の写真すら残っていない(少なくとも公開されたものはない)。そういう興味深い存在であるので、今後さらに新たな発見(私にとっての)があれば、その5としてお贈りすることができるだろう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月11日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停車場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。

 

という結論をかませてみたが、こう考えた理由もやはり「桐ヶ谷停車場之図」にある。この図を再度掲げ、その理由を述べてみよう。

 

 

この図のように駅ホームからのアプローチを行なうには、斜面を削り取って一定の高さまで私道側の高さを下げる方法を採るか、あるいは私道側の高さに合わせて階段等の高架構造物を設置する方法の二つがある。上図では、斜面を削り取る方法を採用しているが、これはそれほどの高低差がないからだと考えられる。斜面を削り取ってしまうことによる不具合は、さらに高い部分との高低差が大きくなり、より急坂となってしまうことである。そこで図にもあるように、道路を曲げることで少しでも斜面の勾配を少なくしようとしているが、言うまでもなく、この図程度のものでは効果的には働かない。削り取る前の斜面の勾配の方が少ないのは当然である。

 

とはいえ、利用客の不利は無視してコストのみを考えれば、高架構造物を作るよりもこの方法が安価なのは疑いない。しかし、これまで取り上げてきた地図をご覧になれば確かめられるように、「桐ヶ谷停車場之図」のような斜面を削り取り私道を曲げるという痕跡を見ることができない。当該部分の私道は直線状に書かれており、現在もそのようになっている。

 

 

前にも示した写真だが、左側の擁壁は削られておらずそのまま残っている。そして、それ以前の航空写真を見てもこのようにはなっていないのである。

 

©国土地理院

 

これは1947年(昭和22年)に米軍によって撮影された航空写真の一部で、桐ヶ谷駅周辺を拡大したものだが、中央部に見える傾いたグレーの長方形が桐ヶ谷駅のホーム跡?で、その左側を走る太い道路が第二京浜国道である。これまで示した古地図類にはまったく出てこないが、1934年(昭和9年)に計画されたものであるので、当然といったところである。肝心の私道部分がどうなっているのかはっきり見えないのが残念だが、駅ホーム跡と北側道路までの距離が相当あることから、こちら側へのアプローチはなかったと思われる。わかりにくいので、これとほぼ同じ場所を最近の航空写真で示しておこう。

 

(この写真データは移行時に欠落してしまったようで、このあたりはGoogle等で確認していただければ。)

 

こちらはカラー写真だけあって、線路に平行する私道がよくわかる。第二京浜国道はさらに拡幅され、上を首都高速道路が走るようになった。また、桐ヶ谷駅南側の道路も拡幅されているのがわかる。写真には見えないが、このすぐ近くには中原街道もあり、駅はなくなったがこのあたりが交通の要衝であることがわかるというものである。

 

さて、横道に逸れそうなので、論点を整理しよう。

桐ヶ谷駅北側の「踏切側下り線側に本屋があった」とすれば、「桐ヶ谷停車場之図」にあるような工事が必要となる。よって、斜面を削り取る工事が施工され、それは短期間の間に元に戻された、つまりはもう一度盛土して直線状の私道に造り直す必要があるが、そのような手間を桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間、あるいは大崎広小路駅~五反田駅間の建設工事まっただ中にかけるだろうか?

 

まっただ中だからこそ、そのついでにできるというのもあるが、だとしても改札口が同時に存在していた期間はわずかか、あるいは踏切側下り線側の機能が失われた後に南側の橋上駅舎ができたという流れとなるだろう。なぜなら、池上電気鉄道の各駅いずれもが駅ホーム二方向への改札口は存在しないからである。

 

つまり、「踏切側下り線側に本屋があった」可能性は極めて低く、あったとしても南側の橋上駅舎と同時に存在していた可能性はさらに低い、と結論づけられる。よって、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載の「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」

 

とあるのは、内容に疑問点があるというよりも内容が誤っていると言える。ただ、私も探してみたのだが、桐ヶ谷駅の写真さえあれば、この問題により明快な答えが出るはずだが、残念ながら見つけることができなかった。唯一と言っていいのは、戦後に米軍が撮影した航空写真で既に廃墟同然となったもののみで、これも島式ホームだったことと、東側私道が直線状になっていることを確認できるのみである。

 

さて、ここまで桐ヶ谷駅について調べてきたが、解決できていない問題を列挙して本稿を終えるとしよう。

  1. 駅開設時に「桐ヶ谷停車場之図」に記載されたような、斜面を削り取り駅ホームと私道をつないだ構造は実在したのか。
  2. 実在したとしたら、それはいつまで存在したか。南側駅舎と同時に存在していたのか。
  3. 南側駅舎は、桐ヶ谷駅開設時から存在したのか。

これら3つの問題は、本稿で一定の見解は示したが、決定的な証拠はない。よって解決できていない問題とした。このほかには、

  • 桐ヶ谷駅廃止の理由。おそらく、単純構造の駅でなかったのが原因か。駅ホームから駅本屋までのアプローチが焼け落ちてしまったことで、高架構造物を再建するという手間が発生し、すぐに駅の営業を再開することができず休止扱いとなったまま、周囲の人たちからもないものとして扱われてしまい、そのまま廃止となった…みたいな流れを予想するが、果たしてそんな単純な話か?
  • 桐ヶ谷駅付近の線路をいつ直線化したのか。これは、東急50年史あたりに載っているかと思っていたが、載っていなかった(探し漏れの可能性有)。もし、これが駅廃止(1952年(昭和28年)8月11日)より前に実行されていたとしたら、そりゃ駅復活はなくなるだろう。何となく既成事実先行で、戦後それほどの時を経ないで行われたのでは、と勝手な想像をしておく(少なくとも米軍航空写真では駅ホーム跡が見えるので、1947年(昭和22年)以降なのは確実)。

の2点を挙げておく。これらの疑問も含めて、新たな事実等を確認できたら、本稿の続きとして「その5」を書こうと思う。

 

では、最後に「大崎町郷土教育資料(大崎町小学校長会。昭和7年9月30日発行)」という、桐ヶ谷駅があった東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区の一部)縁の資料から、桐ヶ谷駅の乗降客数(一日平均)に関するデータを紹介する。

  • 1927年(昭和2年) 乗客数141人/降客数127人
  • 1928年(昭和3年) 乗客数883人/降客数842人
  • 1929年(昭和4年) 乗客数1,137人/降客数1,086人
  • 1930年(昭和5年) 乗客数954人/降客数909人

1927年(昭和2年)は、8月28日から年末まで。1930年(昭和5年)は1月分のみ。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだと思うが、五反田駅まで全通して以降は、ほぼ併走するライバル目黒蒲田電鉄の目蒲線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)には及ばなかったものの、他私鉄線と比べればけっして少ない数字ではない。また、開業当初は桐ヶ谷駅あるいは大崎広小路駅が終点だったため、あまり振るわなかったが、目黒蒲田電鉄はさらに少なかった。同資料に掲載されている不動前駅の乗降客数(一日平均)を見てみよう。

  • 1923年(大正12年) 乗客数13人/降客数13人
  • 1924年(大正13年) 乗客数52人/降客数52人
  • 1925年(大正14年) 乗客数448人/降客数448人
  • 1926年(大正15年) 乗客数1,840人/降客数1,840人
  • 1927年(昭和2年) 乗客数2,416人/降客数2,416人
  • 1928年(昭和3年) 乗客数2,784人/降客数2,784人
  • 1929年(昭和4年) 乗客数2,866人/降客数2,866人
  • 1930年(昭和5年) 乗客数2,652人/降客数2,652人

1923年(大正12年)は3月11日から年末まで(途中関東大震災による営業休止期間を除く)。1930年(昭和5年)は1月分のみ。統計上、乗降客数としてカウントしているからか、乗客数と降車客は一致している。同年代で比較すれば、不動前駅の方が2~3倍ほどの乗降客数を示しているが、開業時の数字はとんでもないものだろう。昔はガラガラ電車だったという話を文献では目にするが、一日平均で13人しか乗らない駅というのはすごすぎる。しかも、目黒蒲田電鉄の宣伝では目黒不動への最寄り駅としてアピールしているのである。にもかかわらず、これだけの実績しかなかったのだから、本駅の乗降客数の伸びは関東大震災後の周辺宅地化、工場化への結果と言えるだろう。

 

たったこれだけのことからもわかるように、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄よりは劣っていたかもしれないが、けっしてだめな会社ではなかった。営業成績も五反田駅まで全通してからは上向きになり、東京横浜電鉄沿革史や東急50年史に書かれているだけの会社ではなかったはずだ。

 

といったところで、桐ヶ谷駅の歴史を探るのはここでいったんおしまい。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

その1及びその2では、桐ヶ谷駅の簡単なプロフィールと東西両方向に改札(乗降客口)が存在したのか、という点について探求しようとしてきたが、ここで池上電気鉄道が五反田駅~蒲田駅間(現 東急池上線)を全通させた時点(1928年(昭和3年)6月17日)における、各駅のホーム方式及び改札口について見ていこう。桐ヶ谷駅が南北(上り下り)両側に、改札口が存在することが疑問であることが確認できるはずだ。

  • 五反田駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 大崎広小路駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 桐ヶ谷駅 → 島式ホーム / 改札口上り下り側二方向?
  • 戸越銀座駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 荏原中延駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 旗ヶ岡駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 長原駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 洗足池駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 石川台駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 雪ヶ谷駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 調布大塚駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 御嶽山前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 東調布駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 慶大グラウンド前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り寄り一方向
  • 池上駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 蓮沼駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 蒲田駅 → 対面式ホーム(片側のみ)/ 改札口下り側一方向

以上、17駅のうちで改札口が両側に設けられているのは、桐ヶ谷駅を除いて一つもない。当時は、1両編成で運行されることがほとんどだったことを考えれば、二方向に改札口があることが不自然である。なお、島式ホームが多い理由は、いちいち線路を曲げる必要がない(=建設費が安価になる)というほかに、開設当初は単線だったことによる(蒲田駅~雪ヶ谷駅は単線で開業。のち、桐ヶ谷駅まで延長する間に複線化した)。一方、五反田駅と大崎広小路駅が島式ホームであるのは、駅が高架構造となったことで、二つのホームを設けるよりも一つのホームを設けた方が逆に建設費が安価になるからである。つまり、島式か対面式かは、建設費によって決まっていたと考えて問題ないだろう。

 

 

では、桐ヶ谷駅の場合はどうだったのだろうか。一般的には対面式ホームの方が建設費が安価であるにもかかわらず、開業前の図面や地図からわかるように島式ホームとなっている。島式ホームのメリットは五反田駅や大崎広小路駅がそうであるように、高架構造物を建設する等といったホーム建設の際に余分な費用がかかる場合、現れてくる(二つのホームを作るより線路を曲げる方が安価ということ)。そういうメリットがなければ、桐ヶ谷駅だって対面式ホームを採用したはずである。

 

このアプローチを採れば、桐ヶ谷駅ホーム北側、つまり地上と高低差がほとんどない側に改札口を設けるつもりであったなら、わざわざ高価な島式ホームを採用せずに、他の地上駅同様に対面式ホームを採用したはずである。だが、島式ホームを採用したということは、桐ヶ谷駅ホーム南側、高低差が数メートルに及ぶ方へのアプローチが求められたからと考えられる。そして実際に、地図から明らかなように、駅ホーム南側に階段を設け、登り詰に駅本屋を設置し、駅南側道路と接続させている。一方、駅北側道路にも接続できるように、線路横に私道を設けた。こう考えれば、島式ホームや私道を設置したこともすべて説明できるだろう。

 

ここでもう一度、開業前の桐ヶ谷駅の図面を見てみよう。前回は駅東側へのアプローチを確認したが、実はもう一つ、気になる部分がある。

 

 

図に赤○が大小二つあるが、大きい方は実際に階段や通路、駅本屋があったであろう場所で、ここで注目するのは小さい方である。この出っ張りのようなものは何だろうか。推測でしかないが、この部分は南側道路へのアプローチであり、階段等の構造物が記載されていない平面図という可能性が考えられる。となると、この図面では駅ホーム二方向のアプローチが記載されていることとなるが…。いずれにしても、この平面図にはいくつか疑義を持たざるを得ないものではある。列挙すると、

  • 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が北側で一部曲げられているが、地図上ではほぼまっすぐになっている。
  • 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が南側はまっすぐになっているが、地図上ではほぼ直角に曲げられ、しかも幅員が広がっている。
  • 線路と南側(図上では左側)道路がほぼ直交しているが、地図上では線路に対して斜めに陸橋が架かっている。

以上の3点で、要は私道と南側道路との接続関係が異なっている、ということである。ここで、地図資料をもう一つ示そう。雪ヶ谷駅の歴史的変遷でも大いに参考になった、3千分の1都市計画図である。残念ながら今回は当該地図を見つけることができなかったので、これをベースにした新区内町界町名整理案図で確認しよう。

 

 

原図が小さいので、桐ヶ谷駅部分を拡大したが、かなりぼけてしまった。しかし、おおよその駅の構造は掴めるだろう。念のため、拡大前の地図も以下に示す。

 

 

こちらの方が見やすいか(苦笑)。赤く太い線は、桐ヶ谷駅南側の道路であるが、ここは当時の東京市品川区と東京市荏原区の境となっていた(現在は両区が合併して東京都品川区となっている)。桐ヶ谷駅開設時においては、東京府荏原郡大崎町と東京府荏原郡荏原町の境であり、地域の主要道の一つであった。では、拡大図も含めて上地図を見よう。注目は、島式ホームの南側(図では左側)から南方私道側の四角形に通路のようなものが描かれていること、そして四角形からは北東側(図では右上側)に私道が伸びて一般道に接道していること、である。これは前回示した「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」や、いわゆる火災保険地図の桐ヶ谷駅周辺のものと同じ基本構造である、と言えるだろう。

 

ちなみにこの新区内町界町名整理案図の原図は、どんなに遅くとも1928年(昭和3年)6月17日よりも前に作成されていることがわかっている。理由は、この地図では池上電気鉄道の路線が大崎広小路駅までで止まっているからである。

 

 

ちょっと小さくて見にくいかもしれないが、地図右上にある大崎広小路駅の先の線路は、現在の山手通りにあたる部分で切れていることがわかる。本来なら、一気に五反田駅まで接続したかったのはもちろんだが、大崎広小路駅~五反田駅間の工事は難工事だったことが当時の大崎町民の目撃談からも指摘されているように、わずか300メートルほどの区間に半年以上の工事期間を必要とした。大崎広小路駅の開業は1927年(昭和2年)10月9日なので、この日以降、先に述べた1928年(昭和3年)6月17日よりも以前のものだとなるわけである。

 

わざわざこのようなことをふれたのには理由がある。それは、当初からの疑義である「二方向の改札口が本当にあったのか?」というものである。雪ヶ谷駅から桐ヶ谷駅までの部分開業は1927年(昭和2年)8月28日であり、その約1か月後の10月9日に桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間の開業となった。そしてその翌年、五反田駅まで全通する以前の段階では、桐ヶ谷駅ホーム北側へのアプローチは各種地図において痕跡すら見られない。仮に、これらの地図が作成される前でかつ、桐ヶ谷駅が開業して以降のわずかな間に開業前の図面にあるような駅ホーム北側へのアプローチがあったとすれば、非常に短期間の間になくなってしまったとなるだろう。だが、本当にそんなことをしてまでなくす必要性があったのだろうか。あったとすれば、これも既に述べたように改札口が二方向であったなら、駅員配置等のコストの問題や運行における保安上の問題も指摘されるが、そんなことはやる前からわかっているような問題である。

 

私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。

 

長くなったので、次回に続けます。たぶん次回で完結編…に、したい(苦笑)。