【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年6月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

先入観。

自明だと思った事柄をそのまま前提として受容れてしまい、結果、誤った理解をしてしまうこと。この主因が先入観であることを痛感した。前回、「田園都市株式会社第二期線(目黒~大岡山)計画図を眺める」として、計画線の図面を眺めながら今日の東急目黒線の線形を考慮に入れつつ概説したつもりだったが、「考慮に入れつつ」の部分が先入観によって歪められていたことがわかった。

 

 

これに気付いたのは、計画図面に示された駅の予定地が現在のどこにあたるかを調べたとき。さすがに目黒駅(停車場)の場所は間違えようがなかったが、問題は大岡山駅である。計画図を現在地図と照合したところ、大岡山駅予定地はこの計画当時、何と東京都大田区北千束一丁目50番の北西角付近だったのだ。現在の大岡山駅よりも北北西方向に約100メートル以上先にあったとは…。この先入観(大岡山駅の位置は変わらないだろうという前提)が誤っていたことで、前回記事の一部が誤っていたこととなったので、改めてこの計画線について次回以降(そんなに遠くない未来)の記事で扱うつもりである。

 

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年6月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、田園都市株式会社(のちに目黒蒲田電鉄と合併し、現在の東急電鉄または東急不動産の前身とされる)が大正9年(1920年)12月20日に「地方鉄道敷設免許申請書」として当局に申請した、目黒駅~大岡山駅の計画図を眺めながらあれこれ語っていこう。

 

 

まずは免許申請書から。田園都市株式会社は田園都市計画を遂行するに当たって、まずは計画地までの鉄道計画を荏原電気鉄道株式会社に委ね、軽便鉄道法に基づく特許を申請・取得していた。その後、荏原電気鉄道株式会社を解散し、その特許をすべて田園都市株式会社に移行させるが、地方鉄道法への計画移行も相まって鉄道計画の見直しも並行して進められていた(軽便鉄道法の特許では新宿駅に至るまでの長大な路線だった)。結果、田園都市計画地までの鉄道という当初の目的に沿った形で計画が再編成され、その中で新たに出てきた計画がこの大岡山から目黒への分岐線である。

 

この計画は、当時は池上電気鉄道の持つ大森~池上~目黒計画とほぼ平行するものであったが、池上電気鉄道は計画の度重なる遅延申請を繰り返していたこともあって、すんなりと許可される。こうして、今日の東急目黒線の骨格ができあがる嚆矢となったのが、この申請書といっても過言ではないのだ。

 

この申請書には計画図も添付されている。

 

 

何を書いてあるか見にくいのはご容赦願いたい。もともと、見にくいだけでなくそれを縮小しているため、大雑把にこのような図だった程度の理解ができればいい程度で載せたに過ぎず、線形等をクリーンアップして書いた図を以下に示す。

 

 

方位の北を上にしただけでも、だいぶ見通しはよくなっただろう。わかる方にはわかるように、今日の東急目黒線と東急大井町線の原型であることがわかる。申請路線を緑色で表したが、現在の東急目黒線(その前の東急目蒲線)とは線形が一部異なっている。概ね同じだが、目黒駅への接続方法(山手線と並行する区間がない)、大岡山から目黒方向に向かう路線がやや南寄り(現在は洗足駅手前で曲線が始まるが、計画線ではもう少し先から曲線が始まる)、そして不動前駅近辺では逆に北寄り(図中にある不動寺前停留場は今日の不動前駅より目黒不動尊に近い)などが異なっている。

 

そして何より、申請時との駅名の違いも面白い。開業までの駅数は同じだが、

  • 不動寺前(申請時)→ 目黒不動前(開業時)→ 不動前(現在)
  • 槍ヶ崎(申請時)→ 小山(開業時)→ 武蔵小山(現在)
  • 碑文谷(申請時)→ 洗足(開業時及び現在)

また、駅名の他に面白いと感ずるのは、この第二期線(目黒~大岡山)によって初めて碑文谷停留場として今日の洗足駅が登場してくるが、千束とあてている漢字は異なるものの千束停留場はもっと南寄り(現在でいうと品川区旗の台六丁目26番近辺)にある。これが田園都市計画地と関連して駅が設けられたのかは何とも言えないが、仮にそうであるならば、田園都市として最初に分譲された洗足住宅地は、計画時には分譲時よりもかなり南寄りにあり、それが第二期線の碑文谷駅を計画した際には、思った以上に用地買収を進めることができなかったのでここに中心駅を用意し、さらに施工時には北寄りになって現在の洗足駅となったのではないかと予想される。つまり、洗足付近は土地価格高騰によって用地買収することが困難になったという裏付けが、この鉄道計画変遷から読み取れるのではないか、ということである。

(なお、この辺りの記載については次回記事「続・田園都市株式会社第二期線(目黒~大岡山)計画図を眺める」で示したように、大岡山駅の位置について先入観から誤った結果を導出してしまっているので、今後改めて検討結果を示す予定である。カッコ内2010年6月27日追記。)

 

と、計画図を見ながらの話は、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年7月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

本記事は、「緑が丘、地名の由来 その1」(2008/12/13)と「緑が丘、地名の由来 その1.1」(2009/4/27)の続きになります。

 

随分とその2まで間が開いてしまったが、その1.1で理由を示したように江戸期以来のいわゆる「谷畑」地区が東西に分裂した原因を探ってはいたのだが、いかんせん地元民でもない私が単独で調べるのは限界があり、目黒区の図書館等の文献をあたるなどして探ったが、直接的な記述を見つけることができなかった。言うまでもなく、当時の方々のお話しを伺うのが確実とは言わないが、真実に近い話を得ることができるのだが、既に故人となられた方ばかり。唯一といっていいのは、衾東耕地整理組合長だった岡田衛氏が生前「目黒の近代史を古老に聞く」というインタビューを受けたものが書籍化されている。しかし、大変残念なことに質問者のレベルが低く、お茶を濁す話に大半が止まってしまっている。とはいえ、これが岡田氏の生の声であり、この文献「目黒区の近代史を古老に聞く 1」を参考に注目すべきところを確認してみよう。

 

まずは、本書の39ページから一部引用する。

関東震災で、ゆさぶられましたので市内の方が郊外へ郊外へと入ってこられ、このままで行ったら満足に地元は発展しないだろうというので、どうしても耕地整理をやらなくては駄目だということで今の緑が丘全域五十町歩余の皆さんに呼びかけまして衾東部耕地整理組合を設立いたしました。当時は耕地でなければ出来なかったんですが、将来の発展にそなえて道路などはなるだけ幅員の広いものをとやりました。法律で制限されてまして思うようにはやれませんでしたが、今緑が丘の交番がございますね、あれから緑が丘小学校(筆者注:緑ヶ丘小学校が正しい)へ行く道路は幅員が五間ということにしました。自由ヶ丘へ行く道は四間、一番せまい道が三間、それだけ坪数を潰して道路を作ったもんですから、岡田の耕地整理は贅沢だと嚇かされまして、地主からは迷惑だともいわれましたが、今になりますれば四間でもせまい位です。衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう。

注目は、「衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう」とある部分。その前にある「岡田の耕地整理は贅沢だと嚇かされまして、地主からは迷惑だともいわれました」も注目だが、まさにこの部分が谷畑地区が東西に分裂した理由だと考えられる。予想どおり、減歩率に関して地主間での対立があり、その結果が衾東部と衾西部に耕地整理組合が分裂して成立。その証拠は、耕地整理地域をまたがる道路の幅員が衾東部(緑が丘地区)から衾西部(自由が丘地区)では異なる(衾東部の方が広い)となるだろう。

 

一方、衾西部側からの意見も本書に記載されている。90ページより一部引用すると、

ここは耕地整理で農道を整備するというのが目的ですから、当時こんな広い道路にしてどうするんだと東京府のお役人に叱られたそうです。ですから自由が丘は道路が狭いというのはおそらく区画整理の出来来たとき(筆者注:出来たときの誤りと思われる)に一番道幅の狭い所なんです。ですから、戦後にそういう沿革を知らない代変りの店なんかにおいでになった方が自由が丘っていう所は地主が自分の土地を、取られないように道幅を狭くしたのだろうなどといわれました。私は即座にそうではないんだと、大体道路が広すぎるとお役人に叱られたけれども地元の方々は草を取ったりしますという事で認可を受けたそうです。だから道が一番広くても四米から八米弱の道路が、自由が丘では一番広い道路です。狭い所は二間、公道では二間、一間の所もあるとそんな所で世田谷区の方はこちらよりずっと広いですから、ずーっと行きまして道路が広くなるとここから世田谷区だと判ります。

このコメントは杉村氏のものだが、この方は衾西部耕地整理組合に関わった方ではない。おそらく、子供の頃に聞いた話としての伝聞だと思うが、いわゆる当局の指導によって道幅を広くできなかったとしているが、この論拠が弱いのは、当時多数の耕地整理組合が耕地整理事業を行っている中で、衾西部よりも広い道路で認可されている例が多数あるからである(衾東部はもちろん、既に田園都市株式会社が洗足や多摩川台=田園調布の耕地整理を先行して実施している)。これは推測だが、杉村氏の親の世代(つまり衾西部耕地整理組合に関わった人々)が「言い訳」として吹聴していたものを伝聞として理解したのではないだろうか。やはり、親族の言う話は大前提として信ずるものであるし、それが子供の頃なら言うまでもないからである。こういうことが、古老の聞き取りを真実として鵜呑みできない危険なところであり、一方的な話だけで判断すべきでないとなるだろう。

 

また、衾西部耕地整理組合長だった栗山久次郎翁のご子息である栗山氏のコメントも注目される。104ページを一部引用すると、

実はその耕地整理は大正十二年の震災後、大正十三年ですけれども谷畑だけで東も西も一緒に最初は計画したんです。所が途中で私も良く知りませんが折合が悪くなって東は東、西は西になってしまい、そして私の方が最初に手がけまして岡田衛さんが組合長になられて大正十三年にはじめまして昭和四年に完了しました。丁度私の家が耕地整理組合の事務所になっていましたので、そういう事を知っておるんで。

と重要なこと(なぜ東西に分かれたのか)はわからず仕舞いだが、当初はやはり谷畑地区として計画していたことが確認できる。折り合いが悪くなった理由とは、先に岡田衛氏のコメントにあった「衾東部の方では五間で行きましたけれども衾西部はご承知のようにせまくなっています。これは衾東部の方で道路に土地を取り過ぎたなどいうのを逆手にとりまして道路はせまくなったのでしょう」だろう。五間では広すぎる、八米弱(=四間)で十分だとしたのが衾西部であり、これが東西分裂の端緒であるのは、岡田衛氏、杉村氏、栗山氏のコメントで確認できる。

 

では、このあたりで荏原郡碑衾村大字衾の谷畑地区の耕地整理組合が東西に分裂した理由について、総括してみよう。当初、谷畑地区で耕地整理組合を設立しようという動きは、関東大震災をきっかけとした東京市民の郊外への人口移動に始まる。加えて、既に開通していた目黒蒲田電鉄の目黒駅~丸子駅(現 沼部駅)の途中駅、奥沢駅に隣接した地域であったことから、奥沢駅までの農道を拡幅(現在の自由通りに相当)しようという直接的な理由から耕地整理組合を設立しようとなった。無論、周辺で田園都市株式会社による耕地整理や東京横浜電鉄の計画路線も当地区を通過するという理由も後押しした。

 

ところが、いざ耕地整理組合を設立し、どのような耕地整理(区画整理)をするかによって地主間での対立が深まり、減歩率の多寡によって東西に分裂して耕地整理組合が設立された。それぞれ衾東部と衾西部と名乗り、それぞれが異なる設計で耕地整理が実施された。もちろん、異なる設計とはいえ隣接する区域であることから、道路の接続等は協調して実施されたが、道幅までは完全に揃えられなかった。

 

また、耕地整理前の状態で東西に分割すると整理後の土地区画に問題が生ずることから、あらかじめ面積按分で東西の区画を直線的に定め区割した。結果、もともとの土地の区割であった字単位での境界は無視され、一つの字が衾東部と衾西部にまたがるようになった。しかし、耕地整理後はかえって字単位での境界が不自然なものとなり、衾東部では新たな字区画を設定し新地番を付号。衾西部では新たな字区画を設定するのではなく、衾西部のすべてを新大字である自由ヶ丘として設定し、新地番を付号した。これが確認できる資料として、昭和6年(1931年)発行の碑衾町発行の地図(部分)を見てみよう。

 

 

水色の線で囲んだ部分は、谷畑地区における耕地整理を行った区域(北部は道路で区切ったため正確ではない)であり、赤色の線は衾東部耕地整理組合と衾西部耕地整理組合との分割線である(作図に失敗して上部がやや左寄りとなってしまった…)。最初は、東西一体で行う予定であったが、赤色の線の部分で東西に分割され、それぞれ別の設計で耕地整理が行われた。ご覧のように衾東部(図の右側)の方が街区パターンに余裕が感じられる。また、先に説明したように、衾東部は耕地整理後に字の区画整理と新地番を付定したので土地の区画も整然としているが、衾西部は大字自由ヶ丘となる前(申請中)だったので、道路は直線化されているが、字界及び地番界は旧来のままであり錯綜している様子が伺える。なお、縮小し過ぎて見にくいとは思うが、自由ヶ丘駅周辺の区画(谷権現前とある辺り。戦前なので図では前現権谷と表記)は、耕地整理では作られなかった道路が点線で表記されているが、耕地整理後から早くも土地利用の細分化が確認できる。まさにこのことが、谷畑地区の耕地整理組合を東西に分けた理由だとなるだろう。

 

こうして東京市への編入直前には、元は同じ谷畑地区(第7区)だったものが、衾東部、衾西部と分かれて以降、それぞれ緑ヶ丘、自由ヶ丘と町名も分かれたのである(正確に記せば、衾東部耕地整理組合=緑ヶ丘、衾西部耕地整理組合=自由ヶ丘ではなく、微妙に重ならない部分はある)。ただ、東西に分割した際の直線では、一部に不合理な部分ができたことから、自由ヶ丘と緑ヶ丘の境界は一部変更された。

 

以下、その3に続きます。(と当時書いてありましたが、その3は未作成のようです。いつかやらねば…。)

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年4月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

先日、当Blogコメント欄において「緑が丘、地名の由来 その1」以降についてツッコミを頂戴した。よって、この件に関して若干報告しておこう。その2とせず1.1に止めているのは、雪が谷大塚駅の歴史と同じく、まだ調査段階でかつ解明できていない疑義が残されているからである。まずは、この疑義から示そう。

 

緑が丘地区は、隣接する自由が丘地区と共に、江戸期(以前)より「谷畑」地区として一つの村落を形成していた。これは明治に時代が下っても同様で、明治22年に市制町村制が施行される前まで東京府荏原郡衾村の4大字(平、東、中、そして谷畑)の一つだったし、施行されて以降の碑衾村時代に入っても地域的なつながりは維持し、のちに町制施行後に区制が導入された際も「第七区」(碑衾町は全部で10区に区割)として「谷畑」地区がそのまま自治の最小単位として維持された。

 

こうした流れを受け、この地域が耕地整理(区画整理)を行なう際、当初は谷畑地区のすべてをもって「衾耕地整理組合」が結成される予定だったが、どういうわけか「衾東部耕地整理組合」と「衾西部耕地整理組合」に分かれ、それぞれ別々に耕地整理事業を実施。衾東部が先に換地処分を行ない新地番を設定したが、衾西部の方は耕地整理工事自体は衾東部と同じくらいに終了したものの、換地処分は遅れ、新地番の設定はさらに遅れた。それだけでなく、新たな大字として「自由ヶ丘」を東京府に申請し、それらすべてがその大字の許可まで持ち越された。このことが、同じ谷畑地区でありながら、今日まで続いている自由が丘地区と緑が丘地区の分裂の端緒となっているのである。

 

 

自由が丘の地名の由来を書いているときには、隣の緑が丘のことをほとんど気にせずにいたのだが、緑が丘の地名の由来を書く際、どうして同じ地区だったものが、衾東部、衾西部と耕地整理組合を分けなければならなかったのか。この分裂をきっかけにして自由が丘と緑が丘が生まれたならば、この理由を調べずして、緑が丘の地名の由来を語ることなどできようか…という流れで生じた疑義というわけである。

 

予想できることとしては、現在にもよく見られるように「土地に関する争いがあったのでは?」ということである。耕地整理(区画整理)というものは、道路や水路等を一定の幅員を持たせ、土地を有効活用しようとする一方、どうしても減歩率が高くなり(もともと狭く少ない道路網を広く多い道路網とするだけで、道路以外の土地は減少する)、どの程度の道路率とするか、公共用地を確保するか等で揉めることが少なくない。また、大地主はもともと広い土地(かつ接道すらしていない土地)を有しているので、有効活用できる土地が増えることによるメリットが大きいが、100坪程度しか持たない零細地主は猫の額ほどの土地をさらに減らされるだけとなる。しかも零細地主の所有する土地というのは、一般的にメインストリートに接道していることがほとんどだったので、耕地整理そのものに意味がない(耕地整理などせずとも自分の土地は有効活用できている)ため、減歩率の多寡だけでなく、耕地整理自体に反対することも少なくなかった。こういう人が地域の有力者だった場合は、耕地整理(区画整理)自体が立ちゆかなくなってしまうだろう(耕地整理制度は多数決の原理はあったものの、確実に地域にしこりを残す)。実際、東京市に隣接する地域のいくつかは、耕地整理組合の成立までこぎ着けても完成できなかったのである。

 

衾西部は、以前に自由が丘の地名の由来でもふれたことのある、碑衾村村長を長く勤め上げた地元の名士であった栗山翁。一方、衾東部は江戸期以前よりの、これも地元に根ざす旧家の岡田氏が組合長を務めていた。では、この二人の仲が悪かったのだろうか? おそらく、そんな単純な話でもないだろう。この時代の方々は、滅私奉公的な方でなければ名士などになることは難しかったはずで、仲はよくなかったかもしれないがそんな単純なはずはない。本心そうだとしても大義名分のような別の理由があってしかるべきで、それがいったい何なのか。これを完全解明とはいかなくとも、客観的事象として示せるものはないだろうか。

 

以上、こういった疑義を有しているので「緑が丘、地名の由来 その2」がしばらく滞っている。こうご理解いただけるとありがたい、として今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2008年12月13日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、当Blogで「自由が丘」の地名の由来を数回にわたって書いたことがあったが、なかなかお読みいただく機会が多いようで、今回は再び地名の由来について書いていきたい。しかし、どの地名に対して書いていくかということは、なかなかに悩ましい問題である。というのは、最近Blogの更新が青息吐息状態になっていることからもお察しの通り、仕事が多忙の故である。

 

能書きはこの辺にして、今回取り上げるのは目黒区「自由が丘」に隣接する目黒区「緑が丘」である。「自由が丘」といえば、東京都目黒区にある「自由が丘」が何といっても知名度が高く、無論、元祖でもあるのだが、目黒区「緑が丘」の方はというと、こちらは元祖ではない。というのは、あまりに普遍的、とは言い過ぎだが、今ではどこかしこにも「緑が丘」(あるいは「緑ヶ丘」)という地名は広く分布しており、私自身、独力ですべてを調査するには困難を極めるからである。

 

間違いなく言えることは、目黒区「緑が丘」(当初は「緑ヶ丘」)という地名が誕生したのは、「自由が丘」(こちらも当初は「自由ヶ丘」)と同年で、この時期、「○○ヶ丘」という地名が流行っていたと思われることである。これは、目黒区には自由ヶ丘、緑ヶ丘のほか、もう一つ宮ヶ丘(現、目黒区南三丁目の一部)という町名が新たに誕生していたこと。隣接する渋谷区においても、渋谷区景丘町(かげおかちょう)、渋谷区桜丘町(さくらがおかちょう)、渋谷区緑岡町(みどりがおかちょう)と昭和3年の時点で誕生していた。それぞれ、簡単に誕生した経緯をふれると、目黒区宮ヶ丘はもとは高木町二丁目であったが、住民投票(ほとんどが新興住民)で宮ヶ丘となった。渋谷区景丘町は、この地の字名であった欠塚が縁起の悪そうな名前であることから、目黒川の谷をのぞむ景勝地の意味で、当て字として佳景丘(かけづか)が提案され、これが元となった(この地にある加計塚小学校も欠塚を嫌ったもの)。渋谷区桜丘町は、まったくの新造地名で、由来は桜の木が多かったことによる。渋谷区緑岡町は、隣接する麻布区(現 港区)青山を避け、類似の緑岡とした(元は大字青山南町七丁目だった)。このような「がおか」地名の一つが緑が丘というわけである。

 

緑が丘の由来については、目黒区公式Webページによれば、このようになっている。では、まずはじめにこの説明について、私的なつっこみのようなものを付記していこう。

 昭和7年10月1日に目黒区が誕生したのを機会に、町名変更が行われ、幾多の町名が姿を消す一方で、新たな町名も登場した。「緑ヶ丘」もその新しい町名の一つである。今日では「緑が丘」と表すが、当時は「緑ヶ丘」。住居表示の施行で「ヶ」が「が」に改められた。

まず、「町名変更」というよりは「地名変更」とした方がふさわしい。理由は、東京市目黒区となる前は、荏原郡目黒町及び碑衾町であり、両町に属するものは、「町」ではなく「大字」、大字を構成する「字(小字)」である。あとに「幾多の町名が姿を消す」という文脈から明らかなように、目黒町及び碑衾町が対象ではなく、大字及び字(小字)なのだから「町名変更」ではない。ちなみに衾村のおおよその位置は目黒区における環七通りの西側あたりという理解で問題ない。このあたりは重箱の角つつき系であり、まぁどうでもいいことではある。

 緑ヶ丘一帯は、明治22年の町村制の施行で、それまでの衾村字谷畑(やばた)が碑衾村大字衾字谷上台(やかみたい)、谷畑東(やばたひがし)、谷畑中(やばたなか)、谷東前(やひがしまえ)、谷畑下(やばたした)、谷石川端(やいしかわばた)、谷向下(やむこうした)と呼ばれるようになり、昭和2年の町制を経て、7年に目黒区緑ヶ丘となった。その後、40年1月1日に住居表示制度が施行され、緑が丘一丁目から三丁目と自由が丘一丁目の一部となったのである。

「衾村字谷畑」とあるのは、「衾村字谷畑根」と思われる。ただ、「~である」と断言できないところに私も弱さを抱えている(苦笑)。明治22年4月30日までの衾村の字名は、明治初期の地租改正当時の地籍調査等で明らかなのだが、これが「谷畑」と「谷畑根」と両方の表記があり、正確なところははっきりしない。昭和初期の目黒区にちなむ文献に「谷畑根」と多くあることや、後述のように衾村4大字のうち、3大字の末尾に「根」が付いていることから、私は「谷畑根」を推しておきたい(谷畑とは、江戸期の頃の字名と思われる)。

 

なお、衾村4大字とは、「谷畑根」のほか、「平根」、「中根」、「東根」。これが碑文谷村と合併し、碑衾村となり旧衾村が大字衾となったことから、これら4大字も大字でなくなり、数多の小字に分割されることとなった。この小字名を付ける際、旧4大字の頭文字が字名に採用されている。緑ヶ丘は、説明にあるように「谷畑根」に含まれるところであったため、すべて「谷」の文字が字名に付いているというわけである。

(例えば、「平根」に含まれる小字は、平南大岡山、平鉄飛など。「中根」に含まれる小字は、中寺前、中化坂など。「東根」に含まれる小字は、東柿木坂北、東三谷など。)

 そもそも「緑が丘」という地名は、緑の木立の多い高台ということに由来している。この辺りは、自然林に覆われた丘陵地帯だったのだ。呑川と丑川という二つの河川に二方が囲まれている緑が丘は、この二つの河川に滑り込むようになだらかな傾斜地になっている。どのくらいの傾斜かというと、緑が丘の境界に面している立源寺から緑ヶ丘小学校(昭和12年の開校で今日でも「ヶ」を用いている)までの約230メートルの坂の高低差がおよそ12メートルある。この傾斜は南向きになっており、見晴らし、日当たりとも、住宅地として格好の環境となっているのである。

あまりに当たり前すぎる由来ではある。実際、昭和7年当時もこのような由来に基づくのではないかとは思うが、「○○ヶ丘(岡)」という地名が流行っていたことはもちろん、隣接する「自由ヶ丘」に強い影響を受けていたことは間違いない。この緑が丘地区は、自由が丘地区と同じく碑衾町の第七区と自治単位も同じだったからである。なお、緑ヶ丘小学校の開校時期については、昭和8年より八雲小学校の分校として学校としての歴史はスタートしており、当時から緑ヶ丘分教場を名乗っていた。そして、「見晴らし、日当たりとも、住宅地として格好の環境」と説明が付されてはいるが、実際に緑ヶ丘(現 目黒区緑が丘一~三丁目のほとんど)と命名された地域がすべてそうなっているわけではない。あくまで南斜面の高台は、緑ヶ丘の4分の1程度であり、それ以外の地は、泥田圃等の低地だったところで、けっして住宅地として格好の環境とはいえないのである。

 この町を歩くと、道路が碁盤の目のように整然としているのに気付く。大正から昭和にかけて、つまり東横線や大井町線の開通と前後して、耕地整理が巧みに行われたのである。その結果、多くの新住民が移り住むようになり、自然林に囲まれた緑が丘は宅地として発展した。一時、海軍の軍人がたくさん集まったので、別名、「海軍村」と呼ばれたこともあったという。

衾東部耕地整理組合の耕地整理事業の賜物であるのは間違いないが、巧みに行われたかといえば何とも言いようがない。特徴は六叉路(下写真参照)にあるが、ここは地域の中心地であるだけでなく、東横線や大井町線はわずかに地域をかすってはいるが、これら鉄道の開通というよりも周辺の耕地整理の進展、中でも田園都市の発展が嚆矢であるのは疑いようのない事実である。

 

緑が丘六差路交差点

 

と、目黒区Webページ内の説明に若干の解説、いやつっこみを付してみたところで、以下次回。

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回までで、自由が丘の地名の由来については終わりにしたが、今回はおまけとして、地元では谷畑の権現様といわれる熊野神社について、簡単にふれていく。

 

熊野神社は、各地にある熊野神社と同様、和歌山県にある那智熊野神社を分祀したものである。言い伝えによれば、江戸期に谷畑の村人が祀ったのが始まりといわれている。自由が丘周辺は都市化が進んでいるが、この熊野神社に限ってはわずかであるが緑が残っており、地域の緑のオアシスといった趣である。

 

 

この鳥居を始め、いくつかの鳥居をくぐっていき、その先にある階段を上っていくと本殿がある。

 

 

なかなかに立派な本殿であり、しかも地元の人たちに愛されているようで、何人もの方が参拝していた。この途中には、以前紹介した碑衾村村長・衾西部耕地整理組合長であった栗山久次郎翁の像がある。

 

なお、神社の敷地内から懐かしいものが見えた。

 

 

ちょっと見にくいかな。看板には、「お菓子のホームラン王 ナボナ」と書かれている。最近の若い人はご存じないとは思いますが、その昔、現役時代の王貞治氏が「ナボナは、お菓子のホームラン王です」というテレビCMをやっていたんですね。王氏は現役時代、自由が丘近くの目黒区中根に住んでいたので、地元つながりでこのCMに出演したと聞いたことがありますが、まだしっかりと宣伝しているわけです。

 

懐かしさを胸に、自由が丘をあとにしたのでした。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、自由ヶ丘が正式な地名、つまりは行政地名(町名)となったことまで話を進めた。しかし、この昭和7年(1932年)という年は、満州事変の翌年であり、満州国建国の年であり、国際連盟から日本が脱退した翌年である。世の中は大正デモクラシーの自由の空気から、戦争の時代を迎えるようになる。その時、時代は自由ヶ丘という時勢に合わない地名を問題視するのであった、というところから始めよう。

 

時勢あるいは時局に鑑み、という言葉は戦中派の方々にとっては懐かしいが、あまりいい印象ではない言葉だろう。年賀状等でも、祝いの言葉は述べられず、時局に鑑み年賀状を出さないということも珍しくなかった。そう、この時代に「自由」という言葉は、時局に鑑みれば相応しい言葉ではなかったのである。

 

戦時中、いわゆる町会組織は戦争体制に組み込まれ、国家総動員体制の末端を担うようになっていた。その末端組織に「自由ヶ丘」という「自由」なる言葉は相応しくないと当局が考えるのは当然だろう。誕生してわずか10年ほどの自由ヶ丘という町名は、当局からの改名危機に晒されることになる。

 

しかし、どうにかこうにかその危機は去ったが、一方で米軍機の空襲を避けることはできず、自由ヶ丘の多くは灰燼と帰してしまった。名は残ったが、体は失われてしまったのである。しかし、戦後の復興は早かった。交通の要衝ということで闇市が立ち、罹災を受けていない住宅地も周辺に多く残ったこともあって、戦前以上に商店街が発展することになる。自由ヶ丘は、自由ヶ丘学園の街だけではなく、商店街の自由ヶ丘として再デビューを果たした。

 

それは、女性の解放とも大きく関係している。現在でも完全に男女平等といい切れはしないが、戦前と戦後では立場が大きく違った。民法は改正され、選挙権も女性に与えられた。憲法も、基本的人権は男女に違いはない。こういう時代になって、「自由ヶ丘」という名前はブランド力を強く発揮するようになり、さらなる発展を自由ヶ丘にもたらしたといえるだろう。

 

自由ヶ丘という町名は、昭和40年(1965年)1月1日、住居表示に関する法律によって、自由が丘一丁目、同二丁目、同三丁目となり、「ヶ」が「が」の字に改められた。これは当時、住居表示に関する法律の施行令・規則等が、今よりもかなり厳しく運用されていたため、現在では問題とならないような字の変更が求められたからである。そして、それに遅れること約1年、自由ヶ丘駅も自由が丘駅と表記が変えられた(こちらは東急電鉄の独自基準適用)。

 

 

それから以降、自由が丘は現在まで変わることなく続いている。町並みなどは変わっても、自由が丘という名前はこれからも愛され続けることだろう。

 

以上、6回という長きにわたって続けてきた自由が丘の地名の由来も終了です。また機会があれば、別の地名話をする予定でいますが、しばらく先となりそうかな…。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、多くの文化人も巻き込んだ反対運動により、「衾」駅(仮称)から「自由ヶ丘」駅への改称が決定し、自由ヶ丘は学校名から駅名に昇格した、というところまで話を進めた。今回は、その続きからとなる。

 

単なる学校名から、自由ヶ丘は駅名となった。この名前は、当時からハイカラ(今は死語だな…)なイメージを持っており、駅の最寄には自由ヶ丘学園くらいしかないという言い訳だけでなく、積極的に地元新興住民はこの駅名を支持した。その結果、「東京府荏原郡碑衾町大字衾○○番地」という住所表記をダサいと思っていた新興住民達は、各々勝手に、そして示し合わせたかのように「東京府荏原郡碑衾町自由ヶ丘駅前○○番地」と名乗るようになった。これは、先に紹介したこの地域の良好な住宅地の先例である洗足住宅地や多摩川台住宅地(現、田園調布)でも見られたものである。洗足住宅地では、「東京府荏原郡碑衾町大字碑文谷○○番地」が「東京府荏原郡碑衾町洗足駅前(あるいは洗足)○○番地」など、多摩川台住宅地では、「東京府荏原郡東調布町大字下沼部○○番地」が「東京府荏原郡東調布町田園調布(あるいは田園調布駅前)○○番地」などとされた。

 

だが、これは自称に過ぎない。戸籍や土地の登記簿をとれば、自由ヶ丘などはなく、碑衾町大字衾字谷畑西などとなっていた。この流れを受けて、続いては新興住民達から地名改正要求が起こったのである。

 

新興住民というのは性質が悪い、と思わざるを得ないのは今も昔も変わらない。この連載の始めに、自由が丘(自由ヶ丘)を町名等で採用している地方自治体は10以上あることを示したが、本家本元の目黒区自由が丘も、その根は変わらないのである。伝統ある地名をダサいものだとして消し去り、見栄えのいい、耳ざわりのいい名前を勝手につけていく。このこと自体は、大正デモクラシーの時代より始まったわけではなく、江戸期以前より瑞祥地名としてあるにはあったのだが、新たに付けるだけならまだしも古いのを消し去るというのはいかがなものか、と思わずにはいられない。

 

と、少々横道にそれてしまったが、地名改正要求は、当時事業進行中であった衾西部耕地整理組合にも向けられた。組合長は、碑衾村発足から20年以上にわたる激動の時代、村長を務め上げた栗山久次郎であり、時代の変化とその要求から、この新興住民達の要求を汲み取り、当時としては画期的な「自由ヶ丘」という名前を衾西部耕地整理組合の事業用地すべての地名(大字名)として東京府に申請した。時は、東京市域拡張作業の真っ只中。昭和7年(1932年)6月16日付、東京府告示第347号により荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘として、大字衾より分離されることが認可された。東京市目黒区になるわずか3か月ほど前でありながら、それを待たずに自由ヶ丘は正式な地名(大字名)となったのである。

 

©国土地理院

 

この地図は、昭和4年(1929年)当時のものに、後付で昭和7年(1932年)10月1日に東京市目黒区となった際の地名(町名)変更を反映させたものである。荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘から東京市目黒区自由ヶ丘となっても境界変更はなかったので、線に囲まれた部分が当初からの「自由ヶ丘」である。これは、現在の自由が丘一丁目~三丁目とほぼ同じ区画であり、他地区に見られるブランド地名の拡大はない。ちょっと細かいので、駅周辺を拡大してみよう。

 

©国土地理院

 

拡大してもわかりにくいか(苦笑)。見るとわかるが、駅前広場はない。また、住宅などがあるのは駅周辺近くまでで、いわゆる徒歩10分圏を過ぎれば、空き地(農地など)が広がっているほか、駅南側の軟弱地盤(九品仏川周辺)ではほとんど建物が見当たらない。これは、わざわざそんなところに建物を建てなくても、他にいくらでもあるということだろう。

 

自由ヶ丘が正式な地名、つまりは行政地名(町名)となって間もなく、世の中は大正デモクラシーの自由の空気から、戦争の時代を迎えるようになる。その時、時代は自由ヶ丘という時勢に合わない地名を問題視するのであった。

 

次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月19日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、衾西部耕地整理組合の組合長を務める栗山久次郎が、なぜ自由が丘誕生の祖(像の横にある顕彰碑にそう書かれている)とまでいわれるのか。それは、結果的に衾西部耕地整理組合の区画整理を行った地すべてが「自由ヶ丘」という名前になったことと、自由ヶ丘学園の土地を提供したことが大きい、というところで終わった。今回は、その続きである。

 

自由ヶ丘学園については、この連載の中で既にふれたように、東横線の開通と九品仏駅(現、自由が丘駅)の設置をきっかけに、この地に開校したわけだが、学校用地というそれなりの広さを持つ土地を確保するには、多額の資金が要る。自由を名乗るような学校を作ろうという人がそんなにカネを持っているわけがなく、これをより安価に済ませることが重要である。それには、安価に土地が提供されるか、多額の資金援助が受けられなければならない。そこでパトロンとして登場するのが、栗山久次郎その人である。衾西部耕地整理組合の理事長であった彼は、事業用地の一部を安価で手塚岸衛に貸し与えた。自由教育という理念に、大いに賛同したからだと伝えられている。

 

こうして、自由が丘という地名の端緒である自由ヶ丘学園の誘致を行う一方で、東横線の駅誘致にも動いた。そして、九品仏駅(現、自由が丘駅)の設置後は、目黒蒲田電鉄二子玉川線(現、東急大井町線の自由が丘駅~二子玉川駅間)の接続駅として、奥沢駅の予定だったものを九品仏駅に変更させることにも成功したのである(もっとも、要因はこれだけでなく、渋谷を拠点としようとする動きがあったことにもよる)。

 

お手元に東京の地図をお持ちか、Google Maps等をご覧になれる方は、東京都世田谷区奥沢の東急目黒線奥沢駅西側から、東急大井町線九品仏駅北側に通ずる道路を確認していただきたい。この道路の南側を目黒蒲田電鉄二子線は通る予定であった。線路の線形から見ても、奥沢駅経由の方がきれいに見えるが、接続駅を奥沢駅から九品仏駅(自由が丘駅)に変更し、乗換駅となったことが、のちの自由が丘発展に大きく寄与したのは疑いのない事実である。一方、奥沢駅方面では、計画変更は約束違反だとして訴訟まで起こされる事態となったが、あとの祭りであった。

 

目黒蒲田電鉄二子玉川線の敷設にあたり、九品仏駅をその乗換駅とすることができたが、これとは別に駅名改称問題が起こっていた。東横線しかないときは、九品仏(浄真寺)の最寄り駅であったのだが、二子玉川線の開通により、九品仏への参道前に新駅ができることとなり、この新駅に九品仏(当初案は九品仏前)という名前を譲ることとなったのである。では、従来の九品仏駅の駅名をどうするか。東京横浜電鉄(実質は目黒蒲田電鉄)は、その候補として「衾」駅を考え、二子玉川線乗り入れに伴う東横線高架化工事(当時、東横線は地上を走っていた)の地元説明用の図面に「衾」駅(仮称)という名前を明示したのである。

 

通常であれば、当時はこういった駅名改称は公になることは少なかったが、ちょうど東横線高架化工事というものがあったため、地元の新興住民達に知れ渡ることとなった。「衾」という名前は、当時、この地域は東京府荏原郡碑衾町ということからわかるように、この地域の昔から伝わる由緒ある村名(当時は大字名)だった。よって、古くからの住民にとってはなじみがあり、駅名となるのは誇らしい話であったが、東横線開通後に居住し始めた新興住民達にとっては田舎くさい名前でしかなかった。このあたりの感覚は古今東西、今も昔も変わらないような気がするが、「衾」駅反対運動が起こったのである。

 

多くの文化人も巻き込んだこの反対運動の結果、「衾」駅から「自由ヶ丘」駅への改称が決定し、二子玉川線乗り入れよりも10日前の昭和4年(1929年)10月22日、ついに自由ヶ丘は学校名から駅名に昇格したのである。

 

 

次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2007年1月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、自由が丘となるきっかけは自由ヶ丘学園にあり、これは目黒蒲田電鉄傘下の東京横浜電鉄による東横線の敷設と、九品仏駅(今の尾東急大井町線の駅ではなく、現 自由が丘駅)の設置があってこそ、というところまで話を進めた。今回は、自由ヶ丘学園の名が地名として定着するまでの流れを見ていこう。

 

この時代は、大正デモクラシーの洗礼を受けていたことを忘れてはならない。いわゆる市民層の登場も含め、自由ヶ丘学園という名前を持つ学校が生まれるような時代である。東横線の開通は、自由ヶ丘学園の誘致だけでなく、住宅や商店の誘致も進み、次第に近郊農村から市街地への発展も進んだ。

 

だが、大正末期の地図で確認できるように、この地域はまともな道路もなく、あっても曲がりくねった農道があるだけで、このままではスプロール開発されてしまい、良好な住宅地とはならなくなってしまう。しかし、幸いなことにこの地域には良好な住宅地の見本ともいうべき存在があった。田園都市株式会社の展開する洗足住宅地、多摩川台住宅地(現、田園調布)である。先行するこれら良好な住宅地は、この周辺の地主達の区画整理事業の模範となったのである。

 

その中の一つに、衾西部耕地整理組合があった。大正15年(1926年)1月7日に設立されたことからもわかるように、田園都市株式会社の成功を受けてのものである。組合長は、栗山久次郎。長年、碑衾村の村長(明治22年6月~明治42年3月)を務め、当時は引退していたが、地域に顔の利く人物であった。彼の像が熊野神社内にある。

 

 

像の横には、彼を顕彰する碑も並んでいるが、これは後年になって立てられたもので、像の台座の横に、彼をたたえ、像を建立した理由も銘記されている。

 

 

昭和9年(1934年)10月に、衾西部耕地整理組合によってたてられたことが確認できる。昭和9年1月に亡くなるまでの略歴が語られているが、この地域の有力者というだけでなく、人望も厚かったことが伺える(昭和10年に刊行された『栗山久次郎翁略伝(富岡丘蔵 著)』という書物からも確認)。

 

衾西部耕地整理組合の組合長を務める栗山久次郎が、なぜ自由が丘誕生の祖(像の横にある顕彰碑にそう書かれている)とまでいわれるのか。それは、結果的に衾西部耕地整理組合の区画整理を行った地すべてが「自由ヶ丘」という名前になったことと、自由ヶ丘学園の土地を提供したことが大きい。

 

次回に続く。