大学生の頃から,徐々に歴史が好きになってきました。
 抽象的に「歴史が好きになる」というより,このブログの他の項でもご紹介したように(「好きだった少女漫画」),例えば,歴史を舞台にした漫画を通じたりして,個々のエピソードに関心を持つようになり,徐々にそれがつながっていった,という感じでしょうか。


 大学生になって,1年の間は暗い学生生活を送っていたのですが,その頃に読んだ(記憶な)のが松本清張の「昭和史発掘」です(2.26事件の前くらいで挫折しましたが。だって2.26事件の話が長すぎる)。
 1963(昭和38)年生の僕にとって,昭和史は,自分と関係のない遠い時代の出来事というより,母(1934年生),父(1936年生),それに親しかった叔父(確か1922年生)らがまさに生きて経験していた時代,という意味で身近に感じていました。僕が幼い頃の周囲の大人たちはほぼ例外なく戦争を経験しており,(細かいことまでは分からなくても)戦前の話は普通にお茶の間で語られることだったのです。
 例えば,1936年にあった2.26事件の時には両親はすでにこの世にいたわけです。あるいは,叔父が「ノモンハン事件(1939年)の時に日本はダメだと思ったな」などと茶飲みの席で話したりしていたことを覚えています。


 そんな昭和史の中で,結構関心をもって何冊もの関連書籍を読んだうちの一つが,ゾルゲ事件です。
 ご存知の方も多いとは思いますが,この事件は,リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)をリーダーとする,ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動を行っていたとして1941年~1942年にかけて逮捕されたものです。
 ゾルゲは当時日本と友好関係にあったドイツ大使館にも出入りし,その高官らとも接触(それどころか高官の妻と不倫関係)があったほどの人物で,そのような立場のものが起こした事件ということで昭和史のうえでも著名です。
 僕が知る限りでは,手塚治虫の「アドルフに告ぐ」にも実名で登場しますし,2003年には篠田正浩監督で映画化もされています(映画自体は駄作としかいいようがありません。ウイッキペディアでも「批評的にも興行的にも成功しなかった」とされています)。さらには,ジブリ映画である「風立ちぬ」にも,明らかにゾルゲをモデルにした人物が登場しています(知っていれば一目で分かります)。
 このように昭和を生きた知識人にとって,ゾルゲは単なる教科書的な歴史上の人物である以上に人間的にも魅力があったものと思われます。


 例えば,卑近な表現ですがゾルゲは女性にもてたと言われています。
 上海時代にはジャーナリストであるアグネス・スメドレー(この人の人生もすごい!),日本に来てからもホステスであった石井花子等々と浮名を流しました。
 僕は,愛人だった石井花子の回想録,ゾルゲに情報流していた尾崎秀実の異母弟である尾崎秀樹(ほつき)の書籍などいろいろ読みましたが,その中でもグラスノスチ後に公開された様々なソ連の機密文書を駆使して当時のゾルゲの置かれた立場を詳細に紐解いた「ゾルゲ 引き裂かれたスパイ」(2003年)が白眉です。

 

 

 この本によれば,ゾルゲは,スターリンの粛清の対象となっており,帰国すれば処刑される可能性が高かったとのことです。他方で,日本でスパイ活動を続けていても捕まるリスクがあるわけですから,大きなストレスの中で生きていたと思われます。

 それでも堅固な使命感をもってソ連に情報を送り続けます(この不審な電波の発信が組織が見つかる端緒となります)。
 当時,ソ連は東側でドイツと闘っていたことから,ドイツとの同盟国である日本が,西側からソ連に参戦するかどうかがソ連にとって極めて大きな意味をもっていました(戦力が分散されてしまう)。このため,ゾルゲは尾崎秀実をはじめとして様々な情報網を駆使して極めて正確な情報をソ連に送り続けます。
 この情報をソ連が十分に活用したのかについてはよく分かりません。ただ,結果的には日本はソ連を攻めることはせず,南進したのですから,ソ連は戦力をヨーロッパに集中させることにより最大の危機を免れ,ドイツは大敗北となりこれをきっかけにナチス滅亡への途を進みます。
 しかし,ゾルゲは祖国から十分に評価されることもなく,異国の地である日本で荒んだ生活を送り,ついには仲間のミスがきっかけで逮捕され,尾崎秀実と共に処刑されてしまうのです(ただ,ゾルゲは最後まで,ドイツ高官らによって助けられると信じていたようですが)。
 帝政ロシア時代に片田舎のバクーに生まれ,第一次大戦に従軍,列強の分割支配下にある混沌とした上海でスパイ活動をはじめ,激動の時代を生きた彼は,戦前の日本でどのような日常生活を送り,何を思っていたのか,最晩年の彼の胸中を何が占めていたのか。
 時折,そんなことに,不謹慎ながらもロマンチックな思いを馳せてしまいます。


 ところで,ゾルゲの協力者には,近衛内閣のブレーンであった元朝日新聞記者の尾崎秀実(おざきほつみ)もいました(この人も女性にもてたらしい)。「スパイ・ゾルゲ」では,モッくんこと本木雅弘が演じています。
 尾崎秀実は,逮捕後,獄中から家族に宛ててたくさんの手紙を書いたのですが,それが戦後に「愛情はふる星のごとく」として書籍として出版され,ベストセラーになったそうです。この本が,(両親のいずれが読んだのかは分かりませんが)自宅の書棚にあったことを覚えています。
 おそらく,ミーハーな母であろうと推測していますが。