「私たちは『買われた』」という言葉の内包する本質的悲しみ | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

アマゾン、iBooks、楽天Koboで電子書籍を販売しています♪
メッセージボードのリンクからばびゅっと飛んで行ってね(^o^)/
A5小冊子版(紙の本)もあります♪お問い合わせ下さい♪

 本記事は、あたしの二度目の大学生活最後のレポートを下敷きに、本ブログ向けに書き改めたものです。

 

-------

 

 「目の前にいる人がどんな思いをして生きてきたか」想像し共感する。或いは、少しでもそうしようと努める。

 それがこの社会で生きる者どうしの暗黙のルールだ、そうであってほしいと心のどこかで思ってきたような気がします。

 でも、「もしそうであれば、もっといい社会、まともな社会になっているはずだ」「特に、社会的に弱い立場にある人々が偏見やヘイトに脅かされず、もっと安心して生きられる社会になっているはずだ」という事実に覚めている自分がいたことも確かです。

 「当たり前だ。社会なんてそんなやさしいものじゃないんだ」と言う人があれば、「あたしは人として、市民として、そうしたやさしい社会を目指す」と答えます。

 あたしにとっての価値とは「そうしたやさしい社会の実現を信じて目指すこと」、倫理とは「目の前にいる人がどんな思いをして生きてきたか、想像し共感すること」が第一義だと考えます。

 今、あたしがこれを書いている2023年一月二十五日、仁藤夢乃さんが代表を務める女性支援団体「Colabo」を巡る論争がネット上で活発です。仁藤さんは学生時代から、家にも学校にも居場所がなく、夜の街を彷徨って性売買の取引に巻きこまれてしまいがちな少女を支援する活動を展開してきた著名なソーシャルワーカーです。仁藤さんはクライエントを「女の子」と呼んでいるので、以下、あたしもそう呼びます。

 Colaboが定期的に行っている活動の一つに「私たちは『買われた』」と銘打った展示会があります。女の子たちの作品展です。

 曾て性売買の経験について話しあった時、女の子たちの一人が「『売った』というよりも『買われた』という感覚だった」と語った一言が仁藤さんの印象に残っていて、展示会にその名前を付けたそうです。

 数年前のことですが、あたしはその名前、女の子たちの語るエピソード(「買われた」という感覚やどのようにして性売買に至ったかの経緯)に深い悲しみを覚えました。あたしには夜の街を彷徨った経験も、性売買の経験もないどころか、ごく若い時には、そういう行動を取る女性たちを軽蔑していたにも関わらず、彼女たちに共感したのです。

 けれども、恐らく男性が中心と思われる多くのネットユーザーはそうではなく、「私たちは『買われた』」展とそのネーミングに対する心ない中傷や女性差別の書きこみで溢れ返っていました。あらゆる中傷や差別の根底には偏見があり、偏見というのはものごとのほんの一側面に対する曲解や拡大解釈のことです。偏見の根底には無知、無理解があるのです。

 その時あたしの心の中にあったのは「結局こいつらは男だから、彼女たちの悲しみや傷つきがわからないんだ」という怒りと苛立ちでした。

 でも、文学者、信仰者としての自覚があるのであれば、それは自分のミサンドリー(偏見に根差した男性憎悪)だと洞察できるくらいの自己理解、自己批判が必要です。

 「男性だから、女性として生きたことがないからわからない」「自分と違う性別の人のことはわからない」のであれば、あたしだって男性や他の性別の人の気持ちや状況はわからないことになるし、それどころか、誰もが自分以外の他人のことは誰の気持ちも、状況もわからないことになります。実際、わからないのです。

 「その人になってみなければわからない」「なれるわけない。なれるわけないからわかるわけない」「わかるわけないから、少しでもわかろうと努力しなければならない」「その努力をする気がないなら『わかったように』言ってはいけない」

 禅問答のようですが、あたしが昔から何かにつけ心に留めていることです。その努力をする時に必要なものは、傾聴という技術、態度はもちろんですが、それ以前に「想像力」とか「共感性」と呼ばれる心の働きであり、それらは人間に備わっている最も高貴な心的機能だと思います。

 相手がどんな人であっても、どんな関わりであっても、誰もが誰に対してもその視点、「その人がどんな思いをして生きてきたか」の視点を大切にできれば、偏見やヘイトのないやさしい社会を実現できると思います。

 

-------

 

 我が国では「援助交際」だの「パパ活」だの様々な変な造語がされていますが、古来、女性が金品と引き換えに男性と性的関係を持つことを「売春」と言われてきました。「春(つまり性の婉曲表現)を売る」という意味ですね。この言葉には女性の主体的な選択であって行動である、という印象があります。

 しかし、仁藤さんが出会ってきた少女、世間から「売春少女」「援交少女」として後ろ指さされてきた少女の一人は、「『買われた』という感覚だった」と呟いた。受け身なのですよ。そしてここには「(性を)買う」という行動の主体があるわけです。

 恐らく行き場をなくした彼女が夜の街を彷徨っていると、「君、かわいいね。行くとこないの?お金あげるからおじさんの家に来ない?ホテル行かない?いくらでどう?」と声をかけてきた年上の男性がいたのでしょう。その時彼女は、「この社会の中で自分は金で『買われる』側の性なのだ」「この社会には自分の体を金で買おうとする大人が、男がいるのだ」という事実に深く行き当たったことと思います。

 それが「悲しみ」だとあたしは思っているのです。

 これは彼女一人の特殊な経験や感覚ではなかったから、展示会のタイトルとして選ばれたのでしょう。

 

 今はこの問題に対する意識のある市民の間では「売春」とはあまり言わずに、「性売買」という言い方がされています。

 特に若年女性の場合ですと、「買春被害」などと言うこともあります。

 

 制限字数をオーバーするため、この辺のことはレポートには盛りこめなかったのですが。

 

 「私たちは『買われた』」展は、行きたいと願いつつ実現していません。

 でも、東京にいた時、通っていた教会で、牧師(関野和寛先生、当時)が仁藤さんとホームレス支援の方を招いてお話会を開催したことがあります。客席からではありますが、小規模なお話会だったのでかなり間近にお目にかかることができました。とても素敵な女性でした。

 関野先生、「夢ちゃん」って親しく呼びかけていたなあ。きっと、あの歌舞伎町に近い教会に在任中、仁藤さんと一緒に様々なフィールドワークをしてこられたのでしょう。