天国をイメージできない牧師(おとこ) | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 年末リブログ祭り。ツイッターの方でもやってます。

 人間、「一生かけて言いたいこと」ってそんなに沢山はないんですよ。

 せめて「一生かけて言いたいことがこれか」とは言われないようにしたい。

 

 さて、前項からの続きですけど、世の中には「憎い」という気持ちがわからない、という人がいます。

 「腹立たしい」という気持ちがわからない、という人の話も聞いたことがあります。

 「憎い」はともかく「腹立たしい」がわからないのはちょっとなんかの情緒障碍じゃないかという気もしますが。

 あたしのセラピストの先生によると、「怒り」は自分の大事なものを守るために必要な感情だそうですから、「怒り」が備わってないんじゃ危ないじゃないですか。

 人にいきなり横っ面ひっぱたかれても腹立たんのかな。

 

 少なくとも釈尊は「憎い」という気持ちがわからなかった人ではないですね。

 じゃないと「怨憎会苦」なんか思いつかないし。

 キリストだって憎んだはずだよ、怒ったはずだよ、赦せなかったはずだよ、という関野和寛牧師の解釈があたしは好きです。

 

 あたしやっぱり職業宗教者目指そうかしら。

 そうなったらもう人は殺せないし自殺もできないな。

 いずれにしても自殺はせんけどな。多分しないと思う。

 

 南直哉和尚は「自殺しないために出家した」と言っていました。

 「生ある限り、全ての殺人に反対する。戦争も死刑もだ」

 と言ってたな。かっこいいな。

 

 

 あたしは「人を殺さないために牧師になりました」と言ってみようかな。