あたしが考えたことは、「自分はいざとなったら人を殺せるか」ということでした。
この映画はソビボル収容所というナチスドイツの絶滅収容所で実際にあった事件を基にしていて、囚われのユダヤ人たちが一斉蜂起してナチの将兵たちを殺害して収容所を脱走するという話です。
PG12指定であってR15指定ではないんですが、暴力描写がかなり激しいので苦手な人にはお勧めしません。あたしは映画館で観ましたがきつかったです。
これは戦時下の話ですから、戦時下というのはつまり戦争状態であって、戦争状態というのは「人が人を殺してもいい場合」ですから、あまり参考にならないかも知れません。
ちなみにこの表現をしていたのは故・筑紫哲也さんです。当時物議を醸した「なぜ人を殺してはいけないのですか」という十代の若者の質問に答えてそう言ったのです。答えになってないですけどね。
随分昔、もう前世紀の話ですね。今時の若い人は筑紫哲也さんなんか知らないでしょう。
では、(幸いにして今の所)戦争の心配のない我が国で、自分はいざとなったら人を殺せるでしょうか?
全てを擲つ覚悟があるなら、または全てを失った自覚があるなら殺せると思います。
山上徹也くんのようにです。
でも、あたしにしても本村洋さんにしても他の人にしても、結局自分自身の幸福追求権を諦めたくないから獄に入るのは嫌なのです。
そのこと自体はべつに良いと思います。
ただ本村さんなど限られた人だけが、
「自分で殺すの嫌なので国が殺して下さい」
と言って認められるのがおかしいと思います。
「いえ殺しはどんな場合でも、絶対に認められませんよ」
って話です。
我が日本という国は、個人による殺人はもちろん、戦争(殺し)も軍隊(殺しのための装置)も認めません。
それなのにどうにもおかしなことに、死刑だけは認めているのです。「人が人を殺してもいい場合」なのです。
この場だから言いますが、あたしは死刑執行された方の葬儀に出席したことがあり、その方がお棺に納まっているのも、ご家族の嘆きも、この目で見たことがあります。
死刑なんかただの殺人です。
法治国家なら当たり前のことながら、殺しは認められない。認められなくてもやるからこそ被害者や遺族の覚悟なんだと思います。
そんな覚悟を持たないといけない所がまた理不尽なのですけどね。犯罪やいじめ、その他諸々の犯罪的行為(もちろんカルト虐待も含む)の被害に遭うということは、それこそどんな才能のある文学者でも言い表す言葉も見つからないくらい理不尽なのです。
山上徹也くんに対する同情論が根強く、支援金や減刑嘆願の署名などが多く集まるのは、一人の男が自分の人生を懸けて怨敵のタマを取りに行ったからこそだと思います。
もちろん、山上くんのやったこともただの殺人です。
山上くんはこれから、殺人者、犯罪者として、法で裁かれます。
それを承知の上で、それでも彼はやったのです。自分の人生と家族の生活をめちゃくちゃにした人間を討たずにはいられなかったのです。
今わかった。
あたしは「犯人を死刑にしろ」「死刑はなくしてはならない」と吠える本村さんより、自分の手で弥生さんと夕夏さんの敵を取る本村さんの方を応援したかったのです。
今となっては、本村さんよりも山上くんの方がずっと「倫理的に正しい」気がするんです。
自分のエゴのために間違った法を正当化しようとする本村さんよりも、エゴのままに突き進んで法をぶち破った山上くんの方が「漢(おとこ)だ」という気がするんです。
べつにジェンダー差別をしようってんじゃないですし、「エゴに囚われて人を殺そうとする時点でそもそも二人とも全く倫理的に正しくないだろう」という意見もあると思いますし、多分そっちの方が正しいんですけどね。
でも、ただ正しいことを言っていてもしょうがないという気がします。