朕が代は 血税でただ飯 喰えて最高 寄生してやるぞ 苔の生すまで | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 信仰心=宗教的・精神的・霊的(英語で言えばspiritualという単語が当てられる領域)な磁場というのは誰にでもあるもので、人間にとって大事なものだとあたしは思います。
 信仰というのは一人の個人の心の働きであるのに対し、宗教というのは信仰による二人以上の人間の集いであり、権力機構です。宗教は政治や道徳と切り離して考えることはできないものです。
 

 手塚治虫の漫画「火の鳥 太陽編」で、神に等しい存在である火の鳥が、「宗教というのはそれ自体はみんな正しいもので、『間違った宗教』というものはない」「悪いのは宗教が権力と結びついた時だけ。権力と結びついた宗教は残酷なものだ」と言う場面があります。
 ここで言われる「権力」というのは現世の政治的権力という意味に解釈すべきと思います。
 「火の鳥 太陽編」はいつの世も繰り返される「宗教戦争」、人間はいつの時代も「神」や「宗教」の名の下に果てしなく暴力を振るう存在である現実を描いた作品です。
 「」付きで書くのは、あたしは宗教と暴力というのは本当は絶対に結びつかない組み合わせだという信念があるからです。宗教の名の下に暴力を正当化する人間をあたしは宗教者とは認めません。どんな位の高い聖職者であってもです。

 

重要参考記事

宗教戦争~侵攻と信仰のただならぬ関係~ | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~ (ameblo.jp)

 あたしは十三年前のイースターに受洗して、あまり熱心ではないという自覚のあるクリスチャンですが(他人からは熱心に見えるかも知れません)、数ヶ月前、あたしの通っている教会でちょっとした議論が起こりました。
 あたしの通っている教会は「日本基督教団」(以下日キ)という会派に属しています。日キでは建国記念の日(旧紀元節)を「信教の自由を守る日」と定めています。
 うちの教会には五十代のK牧師と三十代のU牧師という二人の牧師がいます。二人とも男性です。
 K牧師が「信教の自由を守る日」について教会の週報にエッセイを書いた所、物議を醸したというのです。

 以下、全文を引用します。
 

 「二月十一日は日本では『建国記念の日』として祝日とされていますが、明治から戦時中までは『紀元節』でした。紀元節とは日本書紀において初代の天皇である神武天皇が東征を果たして橿原宮で天皇に即位した日を明治政府が明治五年に日本の国の紀元と定め、近代の暦に直して二月十一日を紀元節として祝日としたことに由来します。神武天皇とは古事記・日本書紀に登場する神話上の人物であり、科学的歴史的根拠によるものではないとして、信教の自由を謳った日本国憲法が発布された戦後、廃止されていました。その後、紀元節を復活させようとの機運が保守の立場から起こりました。このことについてはキリスト教会だけでなく様々な立場の人々からの反対がありましたが、1966年に元の『紀元節』であった二月十一日を『建国記念の日』として国民の祝日とすることが定められました。そのことを受けて、日本基督教団では二月十一日を『信教の自由を守る日』として毎年この問題について考える機会としています。戦時中は天皇の名の下に侵略戦争が行われ、多くの人々のいのちが失われてきました。天皇を神とする国家神道の下でキリスト教や他宗教の中にも弾圧が行われました。二月十一日を日本の建国記念の日とする考え方の中には、『神道は宗教にあらず、日本固有の文化であり伝統であるから国民が皆守るべきもの』という国家観・宗教観を強制しようとの意図が働いています。そのような考え方は、私たちキリスト者の信仰の自由を侵すものであり、決して見過ごしにすることはできません。教会は日本の国では少数者です。だからこそこのことをしっかりと見据えていきたいと思います」

 

 あたしはこの文章を読んで何の違和も感じませんでした。全て書かれている通りだと思います。

 しかし、教会内では否定的な意見もあったようです。

 

 まず、「そのような政治的な話題を信仰の場である教会に持ちこむべきではない」という意見。

 これに関してあたしは、この記事の最初に言った通り、「そんなことは切り離して考えられる問題ではない」と思います。
 

 次に、「天皇制に関しては私はどっちでもいいと思う」「クリスチャンでもノンクリスチャンでも、神社も大切にしたいって人はいるし・・・・」「ほとんどの人はあまり気にしてないんじゃないかな」という意見。
 実際にそういう言葉が耳に入ってきたわけではありませんが、「名倉やK牧師みたいなのは思想的に先鋭的すぎる」という感想を持たれているんだろうな、とも感じました。

 でも、「どっちでもいい」はないだろう、とあたしは思い出す度にイライラします。天皇制に些かも疑問や違和を感じない、存廃に関して何の意見もない、あってもなくてもどっちでもいいものだと本気で思うのであれば、宗教者としてあまりにもセンスがなさすぎるとしか言えない。
 「神社も大切にしたい」という個人の気持ちは全く否定しないが、これはそんなかわいらしい話ではない。国家権力と結びついた宗教というものが時にどれほど残忍な態度を剥き出しにするか知らないはずないだろう。知らないなら知るべきだろう。正にそれを思い出すための「信教の自由を守る日」ではないか。キリスト教会が加害者の立場になったことだって歴史上ごまんとあるのだから。

 もちろん仮の話ですが、じゃああなたは維新の連中が政権取って、戦前や戦中みたいに礼拝で君が代を演奏することを強制されても「どっちでもいい」のか!?と内心で怒り狂っている今日この頃です。

 自分の教会内のことなので、これでもかなり慎重になりつつ書いています。特定個人への好き嫌いとか、悪意ある攻撃と受け取られないように。
 あたしもK牧師も、天皇制は即刻廃止すべきだと考えています。一人の個人、即ち世襲の宗教者(男系男子)を国及び国民統合の象徴と定め、政治的制度の中に組みこむ構造の存在そのものが信教の自由の侵害です。憲法一~八条は十四条や十九条、二十条などと明確に矛盾しますし、皇室典範は憲法十四条に明確に違反します。

 

 

 

 天皇制は人間性に対する暴力そのものであり、天皇制があることで傷ついている、苦しんでいる人たちがいるのです。

 恐らくは、天皇や(元)皇族自身も含めて。

 

 「神社も大切にしたい」「神道の大神官としての天皇家を大事にしたい、存続させたい」というなら、国の制度として定めず、税金を使わないで、そうしたい人たちの献金だけでやればいいと思います。他の宗教はみんなそうしているように。