「いじめ」に“中立”の立場は許されるのか | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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「いじめ」に“中立”の立場は許されるのか(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース

 

-------(以下、リンク先から本文転載)

 

 身近なところで「いじめ」が起きていても、自分とは無関係、他人のもめごとに関わらないという“中立”の立場でいることはできるのだろうか。学校のクラスの中でも、“中立”という名の無関心を装う「傍観者」はどうしても出てしまう。今回は、“中立”が「いじめ」に及ぼす影響を考えてみたい。(ダイヤモンド社教育情報)  

 

● いじめをかばって自分がいじめに  

 

 前回、目の前で「いじめ」が起こっている時に、周囲にいる誰かが被害者をかばって止めに入ることは、子どもたちにとってハードルが高すぎるというお話をしました。そこで今回は、「いじめ」を受けていた友だちをかばう行動に出て、逆に自分が「いじめ」の対象になってしまったAさんの事例を取り上げます。 

 

 元々は仲良しだったAさん、Bさん、Cさん。ある時、BさんがCさんを「ダサい」「一緒にいるのが恥ずかしい」などと言ったことに対し、AさんはCさんをかばってBさんを批判しました。これをきっかけに、BさんはAさんを無視するようになりました。 

 Bさんは新しい仲間のDさん、Eさんと一緒に、Aさんを「ダサい」「キモイ」などと言うようになります。AさんがかばったCさんも、それを見て笑っている様子。Aさんは居場所を失い、学校に行きたくないと思うようになります。 

 Aさんと同じクラスのXさんは、1人でぽつんと教室にいるAさんに気付き、そのことをYさんに話しました。Yさんは、AさんがBさんたちから「ダサい」「キモイ」などと言われていることをXさんに教えてくれました。 

 「Bさんたちのしていることは(Aさんへの)いじめでは? 注意したほうがいいよね?」(Xさん) 

 「AさんがBさんに何かひどいことを言ったらしいよ。だから、いじめって決めつけてBさんたちを責めるのは良くないと思うの。Aさんて、ちょっと正義感が強すぎるところがあるじゃない?頑固っていうか。私は“中立”でいたいから、何もしないことにするよ」(Yさん) 

 (出所)『教師もできるいじめ予防授業』より要約・一部改変 

 

 この事例には、これまで学んできた「いじめ」の「定義」や「構造」に関わる論点が含まれていますから、実際の授業ではこれらを復習することから始めます。ただし、ここでは新しいテーマである「中立」についてのみ取り上げたいと思います。

 

● 何もしないことが“中立”なのか 

 

 「いじめの四層構造」(前回参照)では、「いじめ」の場の周囲にいる「観衆」や「傍観者」が、加害者に「小さなNO」のサインを送り、その場の空気を変えていくことで「いじめ」の重大化を防ぐことができるとされますが、しかし、「実際に動く」ことは口で言うほど簡単ではありません。 

 Yさんのように、「私は“中立”でいたい」と言う人が現れると、その周囲にはたちまち、「自分が動くことは“おせっかい”ではないのか」「友だち関係に横から口出しするのは間違っていないか」「Yさんの言うことの方が“正しい”のでは?」といった疑念が広がっていきます。「中立」という言葉には、それほどの影響力があるのです。 

 授業ではまず、辞書に載っている「中立」という言葉の意味を紹介します。辞書によって書き方はさまざまでますが、概ね「誰の味方もしないこと」と説明されています。では、この場合の“中立”とは、どのような振る舞いを言うのでしょうか。果たしてYさんは“中立”なのでしょうか。これは、極めて難しい問いです。 

 確かに、「何もしない」と決めたYさんは、Aさんの味方もBさんたちの味方もしていませんから、“中立”と言えそうな気もします。法律の定義を手繰ってみても、例えば国際法における「中立」は「何もしないこと」を意味する場合があります。 

 先に結論を述べてしまうと、「何もしない」という意味の“中立”に関しては、私たち弁護士にも“絶対的な答え”は出せません。個々で意見は異なります。それでも、ここで言う“中立”の意味に正面から向き合ってみる価値はある、と私は考えています。 

 多くの生徒さんたちから出る意見は、「難しいことはよく分からないが、屁(へ)理屈のように感じる」「何もしなければ『小さなYES』と一緒。行動しないのを正しいことのように言うのはおかしい」「Yさんは、巻き込まれるのが面倒だからそれっぽいことを言っているだけ」といったものです。「確かに“中立”かもしれないが、“公平”ではないと思う」と鋭い指摘もあります。 

 Yさんの発言内容に注目する意見もあります。「Yさんは、Aさんを『正義感が強すぎる』『頑固』などと悪く言っている。これはBさんに味方しているのと同じ」「Bさん側の言い分しか聞いていない。不公平」「『ダサい』『キモい』などと言うのは明らかに『いじめ』」「Xさんは『いじめ』を『いじめ』と言っているだけなのに、『決めつけ』などと言うのはおかしい」――などです。

 

● 理屈に違和感を覚えたら、言語化し丁寧に伝える  

 

 こうした意見が出るのは、生徒さんたちが感覚的に「Yさんの意見はおかしい」と感じている、ということです。そして、どうにかして「Yさんは“中立”」という見方を否定するロジックがないかと、懸命に検討する姿勢を見せてくれます。 

 “中立”は、大人の世界でも都合良く曖昧に使われがちなマジックワードです。それだけに、子どもたちには、“中立”であるという“理屈”に違和感を覚えたら、それをきちんと言語化する強さを身につけてほしいと思うのです。 

 自分が思う“正しさ”や“信念”を貫くには、意志の強さが必要です。それは、一方的に相手を論破する力ではありません。自分の意見の根拠を根気よく“積み上げる力”です。でも、悲しいことに、議論をする過程では、時として“否定”や“破壊”の理屈の方が強い力を発揮することがあるのです。 

 実際、この事例に関しても、「Yさんの意見は間違っていないと思います。だって、何もしていませんよね?」「『おせっかい』は単なる自己満足だと思います」「わざわざ手間暇掛けて、他人のもめごとに首をつっこまなければならない理由は何ですか? そういう義務ってありますか?」といった意見も出ます。そして、これらを「絶対に間違っている!」などと断言し得る理由はありません。 

 それでも、「Yさんの意見はおかしい」と思うのであれば、相手を尊重しながら対話を重ね、自分の意見を理解してもらえるよう、丁寧に説明していくしかありません。その気力を保ち続けることこそが「強さ」なのです。いじめ予防授業を、自分の考えを丁寧に言語化する機会の一つにしてもらいたいと思います。

 

● 「いじめ」はクラスの平穏に対するルール違反 

 

 さて、ここでもう一度、事例に戻って考えてみましょう。私の意見としては、Yさんの振る舞いは“中立ではない”と考えます。  

 別の例で考えてみましょう。例えば、AチームとBチームのサッカーの試合で、Aチームの選手が突然ボールを手に持って走り始めました。にもかかわらず、審判が「私は“中立”だから何もしない」と言ったらどうでしょう。それは、Aチームのルール違反を見過ごすことに他なりません。つまり、Aチームに味方をしているに等しいのです。 

 クラス内の「いじめ」も同じではないでしょうか。クラスの平穏を阻害する「いじめ」という“ルール違反”を、「何もしない」で済ませることは、ルール違反をしている人たちの味方をするのと同じです。 

 「誰の味方もしない」と言うためには、ルール違反があった際には見て見ぬふりせず、「それはルール違反だ」と指摘したり、それを許容しない姿勢を見せたりすることも必要ではないでしょうか。 

 もちろん、クラスメートはサッカーの審判とは違います。他人同士のトラブルをジャッジする義務はありません。しかし、学校生活において「安全安心なクラスを運営していく」ことに関しては、クラス全員が“当事者”であることに間違いはありません。“観客”や”完全な第三者”ではないのですから、ルール違反に全くの無関心でいてよい立場ではないはずです。 

 このような観点から、私はYさんの振る舞いを”中立ではない”と考えるわけですが、これとは逆に、“中立である”と結論付けた上で、「中立だからといって、Yさんが取った行動が“正しい”とは限らない」と考えることなどもできます。 

 いろいろな視点で見てみると、「Yさんの振る舞いは“中立”か」という問いは、必ずしも結論そのものが重要なわけではありません。大切なのは、人の言い分に流されず、自分の良心に従うことです。そのためにも、子どもたちには、人の組み立てた“理屈”への違和感を言葉にするといった練習を、日々重ねていってほしいと考えています。 

 授業でも以上のような考えを述べた上で、「“中立”という言葉に惑わされず、自分なりの『小さなNO』を出すようにしてほしい」と伝えています。