なぜ善人は悪人に負けるか ― 善人の〈常識〉と悪人の〈投影〉 ― - 歪んだ心理空間における精神的被害 (hatenablog.com)
-------(以下、リンク先から本文転載)
正義、潔白、善良、誠意、公正、愛、信頼、人情、正直、事実、真実、常識、良識 ―― そういったものは、邪悪な人々には通用しません。
普通の人は、相手に理解や良心や反省や謝罪を期待してしまいます。
「少しくらいは良心があるだろう」、「事実は明らかなのだから、分かってもらえるだろう」 ―― そういった気持ちがあると、被害が深刻になります。
そういう事が通用しないのが、邪悪な人々だからです。
常識が通用しない人の事を、常識で判断すると間違えます。
常識が通用しない人に対する時、常識で対応しようとすると、被害に巻き込まれます。
善人がもつ良識や常識は、被害を深刻化させます。
邪悪な人々に「良心」がないかと言うと、必ずしもそうではありません。
M.スコット・ペックは『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学――』(M. S. Peck, People of the Lie: The Hope for Healing Human Evil, London: Arrow. Books Limited, 1990)の中で、人間の邪悪性の本質は、良心や罪悪感の欠如よりも、むしろ「自分の罪悪を認めることの拒絶」にあると指摘しています。
自分が悪いと思わなくて済むように、彼らは「投影(projection)」(=「自己紹介」)や責任転嫁により、自分の罪を相手に擦り付け、相手を攻撃します。
「投影」の結果、彼らは、相手を「悪者」だと思い込むだけでなく、その「悪者」を懲らしめるのを「正義」だと感じるため、残忍な攻撃をやめようとしなくなります。
それで、一見「良心」がありそうに見える人が、恐ろしい攻撃をしながら、決して反省せず、考えが変わることもないのです。
彼らとの「話し合い」は成り立ちません。
「話し合い」をすればするほど、事態はますます悪化するでしょう。
彼らは事実が明らかであれば、それを認められるような人間ではありません。
むしろ、自分に不都合な事実が明らかになってくればくるほど、そこから目を背けようとして、攻撃を激化します。
つまり、邪悪な人々は自分の中にある汚い「泥」を、相手に擦り付けてくるのです。
まさに自分が相手に対してしている事を、相手が自分にしていると言って騒ぎ立てます。
悪人になればなるほど、とんでもなく汚い「泥」を擦り付けてきます。
「自分が相手を攻撃するのは、相手が悪いからだ」という話にしなくてはならないため、自分の残虐な攻撃が「正義」に見えるのに必要なだけの罪を、相手に擦り付けなくてはならないからです。
これに対し、善人は自分の中に汚い「泥」がないので、このような攻撃ができません。
善人が悪人に対して弱いのは、自分の中に「泥」がなく、常識や良識で悪人を計ろうとするところにあると思います。
では、善人が悪人に対抗するには、どうしたら良いでしょうか。
第一に、常識が通用しない人々がいるのを知る事、そして「投影」のシステムを知る事だと思います。
まさに自分がしている事を「相手が自分にしている」と言って大騒ぎする人たちがいるということを、一般の人々が「常識」として知るようになることが必要です。
そして、そういった事が行われている時、誰もがすぐに「また、邪悪な人たちの、いつもの遣り口だ」と、判断できるようになると良いと思います。
周知のことになってしまえば、彼らのこの攻撃は、実質的に無力化されていくからです。
【追記:1.12】
悪に勝つには、悪を知ること。
「邪悪な人たちは、光――自分の正体を明らかにする善の光、自分自身をさらけだす精察の光、彼らの欺まんを見抜く真実の光――を嫌う」(ペック, 前掲書, p.102)。
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(「ヨハネによる福音書」3:20)。