王女と画家と鏡の城 | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 三が日は京都の実家で過ごしました。

 この間から、ある本の一節をどうしても読み返したいと思っていたんですが、その本を実家に置いてきていた為に叶わなくて、やっと心ゆくまで読むことができました。

 本筋とはあんまり関係のないサイドストーリーなんですけどね。

 

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 「しかし、深い森には、何か神秘的なものがある。私は、好きですよ。キラップさん、深い森には、人を真面目にさせるものがある。だから、怖いのです。真面目になるというのは、どうかすると、とても怖く感じられるものですよ。(中略)ニャートス王女は、なぜ、こんな森の奥に自分の城を造らせたんだろう?」

 「それは、大変な人嫌いだったからだよ。ヤットカさんのように」

 「キラップさん、私は、ニャートス王女というのは、単なる人嫌いの変人でもなければ、少女趣味の感傷的な憧れから、こんな森の中を選んだのではないと思うよ。さっきも言ったように、深い森の中の孤独というのは、どんな人間をも恐ろしく真面目にする作用がありますからな。そこで、ね、キラップさん。私はニャートス王女という人物に非常に興味を持っているんだな。世間では、王女は美貌を鼻にかけた高慢ちきな女で、ちょうど白雪姫の継母のように自分の美しさを楽しむ為に鏡だらけの居間を造ったとか、病的なほどの臆病者で、警戒心が強すぎて誰も寄せつけなかったとか、様々に言われているが、私の研究では違うんだな。臆病者ならば、こんな深い森の奥で暮らすことはできないし、高慢な器量自慢なら、どうして華やかな王宮暮らしを捨てることができようか。また、あの城の造りの質素で、殆ど何の装飾もない建築ぶりはどうだろう。あれは王侯の館というよりは、修行者の隠遁生活にこそ相応しい。

 王女は、とても宗教的な人だった、と私は思う。或いは、哲学的と言ってもいいかな。王女は、自分が一人になる必要があった。それは、キラップさん、自分とは一体何者なのか、という疑問を抱いたからでしょう。王女は自分の姿を正しく見る為に至る所に鏡を取り付け、鏡の間を造った。八方の鏡に、自分のあらゆる姿、後ろ姿から頭の天辺まで、余す所なく映し出して、自分とは何かを問い続けた。王女の日記には、そんな観察が記されていたそうですな。そして、彼の、有名な言葉、――自分とは、自分によって見張られている自分である。――という台詞が生み出された。しかし、王女の迷いは、やはり解けなかった。

 王女は、当代一の肖像画家、ギジャート・イコウを呼ぶことになる。彼の眼力によって自分が何者であるかを、解き明かさせようとしたのです」

 「成程」と、キラップ女史は頷いて、「それで、王女はイコウの描いた自分の肖像画を、どう見ただろう。ヤットカさん、王女はその絵で満足したろうか」

 「それは、わからん」

 ヤットカ爺さんは首を捻りました。

「イコウ自身は王女について、こう言ったそうだ。百歳の老熟した心が二十歳の美少女のお面を被っている、と。王女はとても精神的な人だった。二つ年下の妹がいたが、妹の方は、あまり美しくなかった。王女は、自分が美しい為に、人々にちやほやされる、ということについて、非常に深い痛みを感じていたらしい。それを誇ってもよいものが、逆に彼女を苦しめたんだ。

 イコウの絵は見事な出来映えだが、どこか空恐ろしい印象は拭えない。そして、イコウは王女を知れば知るほど、その深い影響を受けていく。いつの間にか、彼自身も、王女の発する問いかけの毒素に侵されていく。即ち、彼もまた、自分は、一体何者なりや、という問いに苦しめられるようになる。これが、王女の肖像画を最後として、ギジャート・イコウが、絵筆を折ってしまった原因なんだよ、キラップさん」

 「成程」

 「しかも、イコウは、直ちに城を去ろうとはしないで、尚一年近く滞在していた。彼もまた何百という自分の映像に毎日取り囲まれて」

 

(福永令三「クレヨン王国月のたまご PART8)