満月の光は冴え冴えと降り注ぎ、煌めく夜の海は人生そのもののように茫漠として謎めいていた。
正義を貫き、勇気に溢れ、灯台のように人を導くヴェスタ、風変わりでもの静かな中に類稀な知性と滾るような情熱を秘めたフォーリャ、飢える者、痩せる者、震える者に仕え、伝える光の旅人T.カチオ、崇高な意志と共に己が使命の道を歩むオルソ、どんな時にも苦難に雄々しく忍び耐え、幸せを望み続けるシャン、ワレース、セーヤー、アリシア・・・・彼らのことを、彼らの闘いを、彼らと過ごした幾つもの夜を、俺は決して忘れないだろう。
そして、不屈の魂を持つリュシオル。
「今まで一生懸命黒蟻連の為に尽くしてきたのに、こんな扱いを受け、罵声を浴びせられて、とても・・・・悔しかったです・・・・」
いつも落ち着いて話しているのに、ヴェスタを含め、今日その場にいた誰にとっても思いがけなく、陳述の途中で少年のように泣き崩れた、あの姿。
オレンジの聴衆の中にも涙ぐむ人も少なくなかったが、ボウ・ディーは涼しい顔で、唇にはまたあの憎々しい薄笑いを浮かべていた。
その主張は一貫して、私は誰も荒い言葉で脅したり、人格を傷つけるようなことを言ったりしたりしたつもりはない、「罪状書き」を貼り出したのも、リュシオルを書類切り刻み係に配転したのもみんな正当な処置であり処遇だというものだった。
しかし、判事自ら、
「あなたが書類を切り刻む係に配転されたらどう思いますか!?制裁だとは思いませんか!?幼稚な嫌がらせだとは思いませんか!?」
とボウ・ディーを厳しく咎める異例の場面もあり、その時の彼のポカーンと呆気に取られた表情も忘れることができない。まるで、他人に心がある、ささやかながらも掛け替えのない、大切な暮らしがあるなどとは生まれてから一度も考えたことがなかったというように。
終盤、リュシオルがしっかりとした態度で判事へ自分の思いを述べ、「公平な判決を求めます」と結んだ。拍手が起こったので、俺も手を叩いた。判事が「静粛に」と木槌を叩いて遮られたが。
全面的勝利の予感を確固としたものにしながら、俺たちは裁判所の建物を出た。
「裁判の打ち上げと、勝利判決の前祝いと、ダイヤとシャルギエルの歓送会をこれから事務所でしましょう。明日出航でしょう?」
ヴェスタが提案した。
「そうか~、淋しいなあ~。お手紙寄越してよ」
とセーヤー。
出発の準備があるのであまり長くはいられそうにないですが、と言いながら、彼らと過ごす最後の夜、最後の食事を共にした。
アリシアが故郷で仕込まれた香草を漬けこんだ酒を飲み、料理の得意なアレティとシヴィルがこの場で作った鶏の唐揚げと明太子のパスタを食べた。歌ったり踊ったりする姿が想像もできない、そんなことは絶対にしないだろうと思われたヴェスタが意外にも、ギターを掻き鳴らして情感たっぷりに愛の歌を歌う声に聞き惚れた。
ノンナ・ベルラが作り置きしておいてくれたチーズケーキを食べていると、T.カチオの家から急ぎの使いがあった。今、彼の妻が無事に、女の子を出産したということだった。
酒宴の席は沸き返り、「お祝いが四つになったね~」という声も上がったのだが、カチオはやはり、このまま急いで産院に向かうとすぐにすっ飛んで行ってしまった。
シルクはずっと、ラミタの膝の上で丸くなって寝ていた。
貞淑で気丈な妻ラミタは猫の背中を撫でながら、言葉少なに、安らいだ面持ちで、様々なことを全て心に納めて、思い巡らしているようだった。
翌日の昼、船に乗る前、一人でヴェスタの事務所に立ち寄った。
彼女は不在だったが、執務机の上にオレンジと白のガーベラの花束を置いておいた。
ガーベラの花言葉はオレンジが「忍耐」、白が「希望」だということは何かで知っていた。母が教えてくれたのかも知れない。
「輝ける白銀の鎧の騎士たちへ」と書いた小さなカードを添えて、赤い革表紙の分厚い法律書と、黒い、無骨な文鎮の間に置いておいた。
一週間と少し、あちこちの港に寄りながら船旅をした。
チュンディーという港町に上陸して一旦宿を取り、暫く滞在していた所にフォーリャから手紙が届いた。T.カチオの新聞記事の切り抜きと、半年後に封切りが決まった舞台「蟻地獄天国」の呼びこみチラシが入っていた。
フォーリャの文面とカチオの記事によると、ポタカ地方裁判所は原告リュシオルの全面的勝訴を認める判決を出した。黒蟻連に対し、リュシオルを元の業務、元の賃金に戻し、不当な配置転換と名誉棄損に対する謝罪文を全会館に掲示し、また全ての雇い人にも配布するよう命じた。
リュシオルは晴れて、書類切り刻み係から荷馬車業務に復帰し、毎日元気に働いている。弁償金の返還、未払い分の支払いを求める集団訴訟は現在も継続中だが、それも年内には解決する見通しだ。
何よりも、この件がポタカや付近の町の働く人々、虐げられた人々に如何に大きな勇気と希望を与えたことか。
予てからラミタと相談していた猫を飼おうという計画も実現し、黒い猫を一匹引き取って飼い始めたそうだ。エンニャと名付けたらしい。
ラミタさん、随分とよくシルクの面倒を見てくれていたし、別れるの相当辛かったみたいだもんな。遊んでほしそうに足元にまとわりついてくるシルクを見ながら思った。手紙を読むのを中断して、身を屈めて頭や背中を撫でてやった。
「きれいな花束ありがとうございました。ヴェスタさんもお礼を伝えてほしいと言っています」というフォーリャの文章を見て、「何のことですか?」とダイヤが問うた。彼には黙ってしたことなのだ。
仕方がないので全てを話した。喋ってしまってから、カードに書いた文字のことは言わなければよかったと後悔した。
「へえ?詩人じゃないですか」
と、ダイヤは真顔で言ったが、今でも、ついうっかり口を滑らせたことは一生の不覚だと思っている。