山本潤さんという女性をご存じでしょうか。
少女の頃、七年間に亘って実父から性的虐待を受けた経験を持ち、先々月実現された刑法の性犯罪に関する規定の改正に向けた取り組みで中心となって動かれた方です。
遅まきながら、彼女の著作「13歳、『私』をなくした私」を拝読致しました。
以下、最終盤から引用します。
「目の前に、アートセラピーで作った二つのハート形をした紙が置かれている。
一つは真っ二つに裂かれ、半分残った左側は焼け焦げたように、黒ずんでいる。右側は3分の1しか残っていなくて、ほとんどハートの形を成していない。
このハートは、この章の初めの部分で書いた私の心を表している。
こんなにも砕かれダメージを受けていたら、些細な言葉にも傷つき、ずたずたになってしまうだろう。
こんなにも真っ黒に染まっていては、怒りや苦しみや憎しみしか感じられないだろう。
こんなにも小さい欠片になってしまっていては、人とつながり、社会とつながることは難しいだろう。
もう一つのハートに目を向ける。
裂かれた傷や損なわれた部分は変わらないけれど、傷は金の糸で縫い合わされ、損なわれた部分は私を支えてくれたたくさんの人の笑顔の写真で埋まっている。その下から覗く色は柔らかなピンク色を取り戻している。
金でつなぎ合わされた縫い目は、金継ぎという国宝指定の茶碗の修理にも使われている技術を思い起こさせる。
割れたり欠けたりした焼きものを漆で接着し、繕った部分を金で装飾していくという手法は、修復するだけでなく以前より価値のある味わい深いものになることもある。
つなぎ合わされ多くの人の笑顔の写真で埋まっている私の傷だらけのハートを見下ろして思う。
つなぎ合わされたから強いんだ。
痛みを知っているから優しいんだ。
失ったから、得られたんだ。」
この箇所を読んで、作者はSANE(性暴力被害者支援看護師)、講演家、活動家として優れているだけではなく、大した詩人だと思いました。
つまり、本書は優れた啓発書であるだけでなく、第一級の文学でもあるということです。
人間としても書き手としても、いつかこういう言葉が紡げるようになりたい、とあたしも思います。
一人の性暴力サバイバーであり看護師の思いと勇気と行動力が、
あたしも大したことはできませんでしたが、
百十年前といえば明治四十年のことです。明治四十年といえば、あたしが九歳の時に亡くなった曾祖母が生まれる前のことです。まだ男性、しかも一部のごく裕福な男性にしか参政権がなく、女性の体(人格)は父親や夫や国家のものであると考えられていた時代に作られた法律が先々月、やっと改められたのです。
他に好きな人がいたのに、親が勝手に決めた顔も知らない相手と結婚させられて毎日泣いてた若き日の大きいおばあちゃんの思いも背負うつもりで、国会議事堂まで足を運びました。
それと共に、「女性の性的被害=恥ずかしいこと、
恥ずかしくありません。
本当に、山本潤さんや詩織さんたちの勇気、二次被害、
それに伴って、「男性の性的被害=大したことではない、
これはなかなか理解してもらうのが難しいことですが、
「女性の性的被害=恥ずかしいこと、誰にも言えない、
という認識のままだと、その他の女性の被害(
誤解を招く言い方かも知れませんが、そういう意味で性暴力は決して特別視されるべきではないと思います。
「世の中には、
という発想です。これは実際にあたしが言われた台詞です。