写経屋の覚書-なのは「先に言っておくけど、今回は退屈だよ」

写経屋の覚書-フェイト「え?」

写経屋の覚書-はやて「ひたすら史料テキストをあげるだけとか?」

写経屋の覚書-なのは「うん。しかも史料の存在自体も広く知られているだろし、内容もほぼ知られているだろうことの追認程度にしかならないんだよね」

写経屋の覚書-はやて「何についての史料なん?」

写経屋の覚書-なのは「金九の鴟河浦事件、土田譲亮殺害関係の報告書なの」

写経屋の覚書-フェイト「土田は軍人じゃなくて行商人、つまり金九はただの強盗殺人犯って獄長日記で証明された話だね」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回紹介するのは事件があった海州府の官吏が法部大臣に宛てて発出した報告書『海州府観察使署理海州府参書官金孝益報告』なの。発出日付は建陽元年(1896)6月30日だよ」

写経屋の覚書-はやて「事件発生から3ヶ月後の発出なんやね。えらい遅いんと(ちゃ)う?」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。でもそのおかげで、獄長日記で紹介されている3月31日付『公文第20号』と4月6日付『公第68号』が発出された時点では分からなかった金九逮捕までの流れと最初の取調べ、供述について書かれているんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「たしかに逮捕までの流れは獄長日記では触れられてなかったね」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、。まず画像をあげて、本文を適宜に区切りながら見ていくね。出典は『白凡金九全集3』(白凡金九先生全集編纂委員会 大韓毎日新報社 1999)だけど、『韓国独立運動史資料集 義兵篇』(朴成寿・孫承喆 韓国精神文化研究院 1993)にも同じものがあるよ」

写経屋の覚書-金孝益逮捕報告226
写経屋の覚書-金孝益逮捕報告227
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写経屋の覚書-金孝益逮捕報告229
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写経屋の覚書-金孝益逮捕報告231

海州府観察使署理海州府参書官金孝益報告

前次部訓令内長淵郡不軌白楽喜同党海州郡検丹坊柳学善金昌守와同郡墨坊青龍寺留金亨鎮마安岳大徳坊崔昌祚와文化遮墻洞名不知李哥와長淵薪花坊彬陽洞金在喜을刻期詗捉写経屋の覚書-ha17야府獄에厳囚写経屋の覚書-ha17고捧供馳報写経屋の覚書-ha17라신等因이읍기漏綱諸犯을多岐譏詗写経屋の覚書-ha17으뢰各散東南写経屋の覚書-ha17야形影没捉写経屋の覚書-ha17와一漢도弋獲치믓写経屋の覚書-han17由로巳為報告写経屋の覚書-ha17엿■오다該犯을期図詗捉写経屋の覚書-ha17写経屋の覚書-nan17写経屋の覚書-thai17安岳郡守柳冀大에報告内에本部安谷三所坊執綱文報로接写経屋の覚書-ha17은즉

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、強盗団の容疑者は白楽喜・柳学善・金昌守・金亨鎮・崔昌祚・李某・金在喜ってことだね」

写経屋の覚書-なのは「金昌守は、金昌洙つまり金九のことだよ。で、事件について供述を得られたので報告しますってこと」

写経屋の覚書-はやて「そやけど、捕まえたんは一人だけで後は逃げとるねんな」

三月初에日人一人이乗船来泊于本坊鴟河浦写経屋の覚書-ha17엿三니海州居金昌洙等諸漢이自龍岡渡来写経屋の覚書-ha17여自謂義兵所左統令写経屋の覚書-ha17고一見日人에抜剣即殺写経屋の覚書-ha17야投屍江中後에以日人銭七十五両으로買得驢子写経屋の覚書-ha17고余数八百両은任置於該浦主人李化甫処写経屋の覚書-ha17고受於音直向海州이라故르別遣耳目写経屋の覚書-ha17야使之採探이은즉回告内메海州青山白雲等地에所謂八峯接主金昌洙와全羅道東学魁首金進士亨振라本郡大徳坊匪魁崔昌祚等이自龍岡으로同渡鴟河浦이라이읍고日人被害時에自称海州居金昌洙之説이出於其時当場而金昌洙之姓名이如彼符合則此漢等之刺殺日人이明若観火이라写経屋の覚書-ha17읍기로

写経屋の覚書-なのは「まずは事件の簡単な内容だよ。3月初めに日本人が船に乗って鴟河浦に来た時、龍岡から来た自称「義兵所左統令」の金昌洙たちがそれを殺害して死体を川に投げ込み、75両を奪い驢馬を購入、残りの800両は宿の主人李化甫に預けて海州に向かったと」

写経屋の覚書-フェイト「事件の際に名乗った金昌洙と、東学党や匪賊の金昌洙たちの姓名が一致したので、金昌洙が日本人殺害犯ということは火を見るより明らかだ、って言ってるんだね」

写経屋の覚書-はやて「金昌洙の『八峯接主』って何なん?」

写経屋の覚書-なのは「金九が東学党の崔時亨から任命されたものってことになってるみたいなの。たしかに1894年10月から東学党の再蜂起が始まって、黄海道でも蜂起はあったんだけどね…そのへんについてはまた後で触れるよ」

以此転報于内部外部이을티니内部回指写経屋の覚書-nan17未承有写経屋の覚書-ha17음고外部回指写経屋の覚書-rar17承有写経屋の覚書-ha17은즉内開메此項命案으로日公使에照会가屡至写経屋の覚書-ha17写経屋の覚書-nan17写経屋の覚書-thai17平壌治下浦라写経屋の覚書-ha17엿기로平壌観察使의게已経訓飭写経屋の覚書-ha17야事由로詳探写経屋の覚書-ha17고■犯도詗捉写経屋の覚書-ha17写経屋の覚書-ha17엿르니現接貴報写経屋の覚書-ha17니破惑写経屋の覚書-ham17이爽豁写経屋の覚書-ha17니該犯等을尚未捉得写経屋の覚書-ha17여스니命案이綦重写経屋の覚書-han17리殊非事体타該犯等을刻即詗捉写経屋の覚書-ha17야法部로押上写経屋の覚書-ha17写経屋の覚書-ha17읍고又平壌府観察使署理参書官崔錫敏照会内에外部訓令内開現에日公使에来照写経屋の覚書-rar17写経屋の覚書-han17즉内開네書翰을以写経屋の覚書-ha17야啓者写経屋の覚書-ha17움고進者

写経屋の覚書-フェイト「この事件について内部と外部に報告したけど、内部からはまだ指示はなく、外部からは指示が来たんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。その指示には『日本公使から照会が何回か来たし、既に平壌の観察使に探索と犯人逮捕を命じた。海州府からの報告で事情もよくわかった。犯人はまだ捕まってないけど、重要案件だから即刻探索逮捕して法部へ押送するように』ってあったと。それと、平壌府観察使署理参書官崔錫敏からの照会にもその訓令と日本公使からの照会について触れられてたってことかな?あんまり自信はないんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「次からが本題っちゅうか詳しい報告やね」

写経屋の覚書-なのは「んー、そうじゃなくて、日本公使からの照会の内容っぽいんだよ」

戌二月頃事이요写経屋の覚書-rar17写経屋の覚書-han17즉長崎県平民土田譲亮이란者가朝鮮人一人平安道龍岡居林学吉노伴写経屋の覚書-ha17야仁川에帰写経屋の覚書-ha17写経屋の覚書-har17竟로黄州十二浦에셔韓船一隻을雇用写経屋の覚書-ha17야三月八日夜에治下浦에泊写経屋の覚書-ha17야翌九日午前三時量에発船을準備写経屋の覚書-ha17喫飯次로該処旅宿李化甫의게갓写経屋の覚書-thai17가帰船흘際에該家庭前에셔該家止宿写経屋の覚書-ha17든韓客四五名에게打殺写経屋の覚書-ha17믈被写経屋の覚書-ha17고同伴林哥로殺害훈境遇틀迯避写経屋の覚書-ha17야同十二日夜에平壌으로来到写経屋の覚書-ha17야該処駐留写経屋の覚書-han17平原警部에右事情写経屋の覚書-rar17写経屋の覚書-han17리該警部가巡査二名과巡検五名을引率写経屋の覚書-ha17고同十五日에其処에臨写経屋の覚書-han17즉右旅宿主人이警部等에来写経屋の覚書-ha17를聞写経屋の覚書-ha17고迯走写経屋の覚書-ha17야被害者에屍体写経屋の覚書-rar17이믜河中에投棄写経屋の覚書-han17故로屍体写経屋の覚書-rar17得지■写経屋の覚書-ha17고라以旅宿庭前에血痕이浪藉写経屋の覚書-ha17믈認写経屋の覚書-han17지라警部一行이郡吏等에게厳談写経屋の覚書-ha17後作害写経屋の覚書-ha17嫌疑者七名을伴帰写経屋の覚書-ha17야糾問写経屋の覚書-han17즉皆作害者가아니■라以右事情得聞写経屋の覚書-han17샐이라

写経屋の覚書-フェイト「長崎県平民の土田譲亮が平安道龍岡の林学吉を供に連れて仁川へ帰るために黄州十二浦で船を借りたんだけど、3月8日夜に治下浦に停泊して宿泊したんだね」

写経屋の覚書-はやて「ほんで9日の朝3時に出発の用意して李化甫の宿で朝ごはん食べて船に戻る時に、庭先で韓国人4、5人に殺されたんやな」

写経屋の覚書-フェイト「供の林は、殺されそうになったから逃げて、12日の夜に平壌にたどりついて平原警部に事件を報告したんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。平原警部は巡査2人と巡検5人を連れて15日に現地に行ったんだけど、宿の主人李化甫は警部の到来を聞いて逃げてしまったし、土田の死体は川に投棄されてたのでその検視もできなかったんだよ。でも庭にはまだ血痕が残っていたので暴行があったことは確認できたんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「警部は郡の官吏たちに話して容疑者7人を連れ帰って尋問したけど、その7人は犯人そのものじゃなかったんだね。一応事件の事情は聞けたみたいだけど」

写経屋の覚書-はやて「ん?このへんの説明って獄長日記で見たことがあるで。たしか『金九は誰を殺したか(二)』やったよ」

とりあえずそのアジ歴の史料を見てみましょう。
史料は、『公文雑纂・明治二十九年・第十一巻・外務省三・外務省三/在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件(レファレンスコード:A04010024500)』。
1896年(明治29年)4月6日付『公第68号』から、該当部分を抜粋。


二.平壌附近に於て日本人の被害

3月9日、黄州治下浦に於て長崎縣平民土田譲亮が韓人の為めに殺害せられたる顛末は、当時平壌出張中の京城領事館警部平原篤武に於て詳細調査の上、当館附警部新納英彦に該件を引渡せり。
今其顛末を、現場より逃れ来りたる同人雇韓人より、口頭を以て在平壌平原警部に届出でたるを以て、事実取調の為め、同警部は巡査田中仲之助、税所珪介及朝鮮巡検5名を引率し、翌13日和船に乗じて平壌を発し、15日治下浦着。
同村民及土田が宿泊せし旅店主に就て尋問するに、土田は同月8日、黄州十二峯より韓人1名と共に韓銭6俵其他の貨物を小舟に搭載し鎮南浦へ赴く途次、同夜治下浦に着し、翌9日午前3時上陸して、同所旅人宿李化甫の家に到り、朝飯を喫し、将に乗船せんとして前庭に出しに、同宿の韓人4、5名、突然鉄棍を以て其背部を打ち、終に之れを撲殺して死骸を江中に投じ、直ちに船に至りて其所持せる韓銭其他を奪ひ、韓銭は之を宿主に預け、其の携帯品を奪て海州方向に遁走したりとの事にて、当時血痕尚ほ土に印せりと。
依て嫌疑者宿主の妻(当時宿主は遁走して家に在らず)、村民其他を引致し、発見したる韓銭其他を携へて、16日平壌に帰り種々詰問したる末、右は全く同宿旅人の所為なること判然として、各地方官に加害者の逮捕方を依頼し置たりとの事なり。
右土田譲亮は、長崎縣対馬国下郡厳原のものにして当港貿易商大久保機一の雇人なるが、商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次、終に此厄に罹りしものなりと云ふ。
依りて、遺留財産は右雇主に引渡し、其他同人死亡に関はり親族への通牒方等は、右雇主に命じ置けり。


ええ。
彼、今で言う長崎県対馬市厳原町出身の商人とされてるわけです。
仁川の貿易商、大久保機一に雇われて、商用で鎮南浦から黄州を回って仁川へ帰る途中に殺されたんですね。
しかも、韓国人4、5人に鉄棍で撲殺。
で、金は宿主に預け、所持品を奪って逃亡、と。
義挙?

単なる複数犯による強盗殺人じゃね?

写経屋の覚書-フェイト「内容としてはほとんど同じだね。日本公使からの照会文の引用になるから当然だろうけど」

写経屋の覚書-なのは「そうだよねぇ。じゃ、ちょっと中途半端になるけど今回はここまでにして、続きは次回にするね」

写経屋の覚書-はやて「今回は、李東暉の逮捕が官報に出なかった理由と処分もされてない理由の解答やね」

写経屋の覚書-なのは「うん。前置きなしで言うと、逮捕したのが日本の官憲で、軍法に触れる犯罪の現行犯じゃないし、取調べ段階で釈放つまり起訴もされてないわけだから、軍法に照らした処分の対象でもないし、何の処分もされてない、だから官報に載せるような事態じゃないってことだよ」

写経屋の覚書-フェイト「ああ、そういうことかぁ…ってことは、丸山重俊警視や長谷川好道統監代理は『暴徒の首魁李東基』なんて言ってたけど、結局関与も認められなかった程度の人間を暴徒の首魁って即断したってこと?」

写経屋の覚書-なのは「反乱を起こした江華島分遣隊の関係者だから、なんらかの関係があるかは不明だけどとりあえず緊急に身柄を拘束したってことかもしれないし、あるいは本当に関係していたけど取調べ側が立証できなかったのかもしれないね」

写経屋の覚書-フェイト「黒幕かどうかはともかく、関係したことをうかがわせるような証拠はあるのかな?」

写経屋の覚書-なのは「うーん。7月30日に鎮衛隊江華島分遣隊の前で排日のアジ演説をしたっていう話は出てくるんだけど、現時点で作者はそれを直接証明する史料は発見できてないんだよね…」

写経屋の覚書-はやて「結果的には関係してへんかったとしても、反乱に呼応してなんらかの策動をしたり、反乱軍に推戴される可能性もあるし、拘束つか身柄を確保するんは当然かもしれへんね」

写経屋の覚書-なのは「あとね、1909(明治42)年の統監府の『韓官人の経歴一般』には李東暉についてこんな紹介がされてるの」

一一一、李東暉
 咸鏡北道明川の人なり曽て江華島鎮衛隊参領たりしか辞官退去して専ら教育に熱心し学校を江華島と開城に設立す熱心と正直を以て人の尊敬を受く年四十四

写経屋の覚書-はやて「休職処分を受けた事件を見ると、正直っちゅうか、直情径行っぽいところはありそうやなぁ。まぁ、それがええ方向に向いたら熱心で正直な教育者になるってことなんかもしれへんね」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?ってことは統監府は李東暉が辞官したって考えてるの?李東暉が韓国軍解散時まで軍籍に在ったってことは証明したじゃない」

写経屋の覚書-なのは「これは韓国軍解散時の退官を指していると見る方がいいんじゃないかな?ただ、本人は休職処分後に辞表を出して、実質上は退職してても、軍の方が辞表を正式に受理しないか処理しないかで名簿上は在籍扱いのままになっていたって可能性もあると言えばあるんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「それはそれでありそうな気もするわw ま、実際、休職処分後は無任所で予備役同然の身やったから、本人の意識では軍を辞めたというつもりで、世間的にもそう思われとったんかもしれへんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「そうそう、姜徳相の書いた『かれがいかに無関係を主張しても、日帝はかれを反乱事件の黒幕とみて仁川沖の大舞衣島に配流した』っていうのは明らかに間違いなんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「12月に釈放されてるもんね」

写経屋の覚書-なのは「うん。姜徳相のあの文章は『季刊 三千里』第9号(三千里社 1977)に掲載された「李東輝の思想と行動」を加筆して『朝鮮独立運動の群像』(姜徳相 青木書店 1984)の一章として収録したものなんだけど、雑誌掲載時は少し文章が違うんだよ」

 反乱軍の蹶起に一挙一動を監視されていた李東輝が直接指揮するのは困難だったろう。
 しかし江華の兵士たちが、長年李東輝らの薫陶をうけて勇敢で愛国的気概をもった部隊になったことを考えるとなんらかの連絡があったとしても不思議ではない。李東輝がのちに軍隊の同志延基羽、金東秀らと江華島伝燈寺で義兵組織の謀議をおこなったとして日本の憲兵に逮捕され、仁川沖の大舞衣島に流配されたのは、反乱事件の報復とみることができよう。(後略)

写経屋の覚書-はやて「つまり1977年の時点やと『朝鮮独立運動・第一巻』の李東基逮捕っちゅう記述の存在を知らんかったってことやな。ほんで単行本にする時にはその知識を得てたから加筆修正したんか」

写経屋の覚書-フェイト「もともと、李東暉がいつかどこかで逮捕されて配流されたってことだけは知ってたから、それと李東基逮捕という記述を短絡的に結び付けて『かれの逮捕の理由は江華鎮衛隊の延基羽、金東秀らと江華島伝燈寺で義兵組織の謀議をおこなったというのである。かれがいかに無関係を主張しても、日帝はかれを反乱事件の黒幕とみて仁川沖の大舞衣島に配流した』って修正したんだろうね」

写経屋の覚書-はやて「結果的には、李東基=李東暉で、姜は正解やったんやけど、そやからいうて手順や思考経路が正しいわけやないしなぁ」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだろうね。大韓毎日申報と皇城新聞を調べていればそんなことはしなかったのかもしれないけど…いや、知っていても変わらなかったかもしれない…」

写経屋の覚書-フェイト「え?どういうこと」

写経屋の覚書-なのは「あ、それは後で言うよ。一応、2年後以降に別件で大舞衣島に流罪になったという話はあるみたいなんだよね」

写経屋の覚書-開闢_第62号(19250801)

『開闢』第62号 1925年8月1日発行
凛凛丈夫의李東暉氏    崔麟
(前略)내가 그를 対面하기는 卒業을하고帰国하든 그때엿슴니다 (隆熙三年)나를곳챠자왓습듸다 一面如旧로当場에肝胆을吐하고 将来를서로期約햇슴니다
그後그는保安法違反이란嫌疑로 舞衣島(江華附近)로流配를갓섯슴니다 얼마만에舞衣島로부터解放이되야(後略)

写経屋の覚書-はやて「うーん、流罪になったのが隆煕3年つまり1909年より後のことやいうことしかわからへんね。つか姜徳相がこれを知ってたかどうかすらわからへんしw」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよねぇ。基本的に『季刊 三千里』第9号にも『朝鮮独立運動の群像』にも、記述の典拠とした史料に対する言及がないから、姜徳相がどんな史料を把握して書いたかもわからないしね」

写経屋の覚書-はやて「なんせ姜徳相のやることやしねぇ。さっきなのはちゃんが口ごもったように、史料を把握しとっても平気でそれを改竄したり記述を捏造しよる可能性があるしなぁw」

写経屋の覚書-なのは「なにしろ姜徳相のやることだからねぇw 第一、この流罪が事実かどうか自体の確認がまだ取れてないんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「ねぇ。さっきからなのはちゃんもはやてちゃんも姜徳相のことをボロクソに言ってるけど、そんなにひどい人なの?」

写経屋の覚書-なのは「結論に合わせて史料を読むことで有名と言えば有名な人だよ。ネットでわかりやすいのをあげれば嘗てのNAVERで、こんな例があるんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「あー、そういう人なんだね…どの貼り紙にも井戸に毒をまいたからとかいう内容なんて書いてないのに…」

写経屋の覚書-はやて「日本語をちゃんと読めるくせにこういうことやるんやで。たち悪いやろ。韓国人が喜ぶようなモノを提供しておもねっとるんや。つか、ある意味韓国人をもっともコケにしとるんよ」

写経屋の覚書-なのは「韓国人を釣るというか、バカにはバカの喜ぶ程度の餌でもあげればいいってやり方だからねぇ…で、姜の影響を受けたのか、前に出てきた『朝鮮革命運動史1』を書いた高峻石も、7年後に書いた1990年の『朝鮮革命家群像』では韓国軍解散時に逮捕、大舞衣島へ流罪としてるの」

写経屋の覚書-フェイト「やっぱり、在日界の歴史学者としての影響力があるんだろうねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「みたいだね。しかも困ったことに、李東暉の前半生、大韓帝国時代の行動についてまとめた記述を最初にしたのが姜徳相らしいんだよねぇ…それまでは満洲移動後、上海臨時政府での活動しかまとめられてなかったらしいの」

写経屋の覚書-はやて「高麗共産党でコミンテルンからの資金を横領して内部抗争になったたり、臨政で李承晩と対立して失脚したりという流れだけが知られとったんやね」

写経屋の覚書-フェイト「絵に描いたような典型的な『独立運動家』だね…」

写経屋の覚書-なのは「ついでに言っておくと、姜徳相は、李東暉が国債報償運動関係者の横領疑惑の調査を請願したことについても触れてないんだよ。これも本当に知らなかったのか、知ってて無視したのかはわからないんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「前者なら不勉強、後者なら不誠実ってこっちゃな。どっちでもええでーw」

写経屋の覚書-なのは「で、まとめると、李東暉は韓国軍解散時に逮捕はされた。だけどそのときに処罰はされてない。姜徳相はいい加減なことを書いてた、って結論づけるよ」

写経屋の覚書-はやて「KJCLUBの質問スレッドでもも蔵さんとのうみんさんが予想しとったんがいっちゃん正解に近かったいうことやね」

写経屋の覚書-なのは「うん。ネットで見る限りだと、韓国軍解散時に流罪とか105人事件でも流罪とか書いている所もあって、けっこうバラバラなんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「みんな何を根拠にして書いてるのかなぁ?それはそれで興味がわくよ」

写経屋の覚書-なのは「新聞記事や公判・予審記録を見るとわかるんだけど、105人事件のときも逮捕されて取調べは受けたけど結局釈放されてるんだよねぇ」

写経屋の覚書-はやて「2回も流罪にしてまうなんて扱いひどいやん。丁卯・丙子胡乱の両方共に仁祖が清皇帝ホンタイジに土下座したって『韃靼疾風録』で書いた司馬遼太郎なみにひどいでw」

写経屋の覚書-フェイト「…そのツッコミ、作者は『三田渡への道』を書いた後にエンコリでやったんだけど、ほぼ同時期に荒山徹も『柳生大戦争』でやってたんだよねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「流罪になったとすれば、1907年12月の釈放後――さっきの『開闢』が正しいという前提なら1909年、ひょっとすると3月15日のエントリーで触れた憲兵報告『憲機第1949号』の作成された10月6日以降――から1911年9月の105人事件取調べまでの間になるんだろうけどね…作者は1907年12月から1910年9月までの新聞を調べたけど、今のところ流罪を証明できるものは見つけられてないんだよ」

写経屋の覚書-はやて「まぁ、逮捕や流罪のニュースが新聞に必ず載るいう保証もないんやけどね」

写経屋の覚書-フェイト「そうだね。そこは注意しないといけないよね」

写経屋の覚書-なのは「作者の見落としがあるって可能性もね。あと、これはおまけになるけど、李東暉は朴斗星という人の研究関係で名前が出てくるかもしれないよ」

写経屋の覚書-フェイト「朴斗星?どんなことをした人なの?」

写経屋の覚書-なのは「朝鮮総督府に勤務してハングルの点字を考案したりして日本統治時代・韓国の盲人教育の導入普及に尽した人なの。李東暉は彼の漢城師範学校入学を支援したりして親交があったんだよ」

写経屋の覚書-はやて「教育者として直接の功績を残したと言えるかどうかはわからへんけど、教育史にはいちおう関与したってことやね」

写経屋の覚書-なのは「そうだねぇ…韓国では『誠斎李東輝一代記』(潘炳律 범우사 1998)って本が出てるらしいから、読む機会があればいろいろ確認してみたいよね」

李東暉(1)
李東暉(2)
李東暉(3)
李東暉(4)
李東暉(5)
李東暉(6)

写経屋の覚書-はやて「今回が本題って言うてたね。なんでなん?」

写経屋の覚書-なのは「韓国軍解散時の李東暉についてだよ。まず李東暉(2)のエントリーでふれた記述をもう一度あげてみるね」

・独立記念館
日本の侵略が加速されると軍人を辞任して普昌学校などを建て、民族教育運動を展開した。西北学会ㆍ新民会などで、国権回復運動を展開していたのを被逮されて亡命生活を経験したりした。

・ウィキペディア 李東輝
1907年に日本により韓国軍解散命令が出されるとこれに反発し、江華鎮衛隊の蜂起とともに逮捕された。

・『朝鮮人物事典』(大和書房)
一方、1907年韓国軍解散に反対して同志とともに逮捕され、11年には寺内総督暗殺未遂事件に連座した。

写経屋の覚書-なのは「これらの記述を全部信じるとしたらどうなるか?って考えてみて」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、軍人を辞任して学校建設などをしていて、韓国軍解散に反発して逮捕されたってことになるよね。あれ?韓国軍解散時まで軍籍にあったし、逮捕なんかされたかな?」

写経屋の覚書-なのは「韓国軍解散時に、江華島に分駐してた鎮衛歩兵第一大隊で暴発が起きたのは事実なんだけどね…劉明奎が兵卒といっしょに武器庫を破って暴徒になったんだけど、これを止められなかった第一大隊の閔完植参尉と閔泳洛参尉が裁判にかけられてるんだよ」

写経屋の覚書-19070921官報_判決1
写経屋の覚書-19070921官報_判決2

*隆煕1(1907)年9月21日付官報 9月17日付判決
 第一大隊副尉 閔完植 士卒の武器庫破りを止められず。笞刑80

写経屋の覚書-19070926官報_判決

*隆煕1(1907)年9月26日付官報 9月23日付判決
 第一大隊参尉 閔泳洛 士卒の武器庫破りを止められず。笞刑80

写経屋の覚書-フェイト「陸軍法律第234条の『軍人が検束を不厳にするか撫馭が方無くして軍紀を解弛せし者』で笞刑80かぁ」

写経屋の覚書-はやて「もし、ほんまに李東暉が韓国軍解散時の反乱に関係して逮捕されたんやったら、この二人と(おんな)しように軍事上の裁判にかけられて、解散時の通常の解職やなくて軍籍剥奪とかの処分を受けとる蓋然性が高いはずやね」

写経屋の覚書-なのは「それでね、韓国軍解散と義兵関係をいろいろ調べたら、『韓国現代史3 民族의抵抗』(新丘文化社 1974)って本にこんな記述があったの」

写経屋の覚書-韓国現代史3

원주 진위대의 봉기에 이어 8월 9일에는 수원 진위대(水原鎮衛隊) 강화 분견대(江華分遣隊)의 병사들이 궐기하였다. 그들은 지 홍윤(池弘允)・유 명규(劉明奎)・이 동기(李東基) 등을 선두로 무기고를 습격하고 무기를 주민들에게도 나누어 주고나서 동문(東門) 밖에서 군수(郡守)와 일진회(一進会) 수령 정 경수(鄭景洙)를 처단하였다. 이어 강화의 일본 순사와 일본인을 사살하고, 강화를 완전히 장악하였다. 이때 병사들의 의거를 말리던 소대장 민 완식(閔完植)과 참위(参尉) 민 영락(閔永洛)은 도망치고 말았다.

原州鎮衛隊の蜂起に引き続き 8月9日には水原鎮衛隊江華分遣隊の兵士らが決起した。彼らは池弘允・劉明奎・李東基などを先頭にして武器庫を襲って、武器を住民たちにも分けてから、東門外で郡守と一進会首領鄭景洙を処断した. 引き続き江華の日本巡査と日本人を射殺して、江華を完全に掌握した。この時兵士らの義挙を止めた小隊長閔完植と参尉閔永洛は逃げてしまった。

写経屋の覚書-フェイト「ひょっとして、ウィキペディアと『朝鮮人物事典』で、韓国軍解散時に江華鎮衛隊の蜂起とともに逮捕されたっていうのは、この李東基が李東暉と同一人物だって判断したからなのかな?」

写経屋の覚書-はやて「水原鎮衛隊江華分遣隊っちゅうんは鎮衛歩兵第一大隊の分駐隊やね。李東暉が休職処分受けるまで隊長やっとったから、江華分遣隊のリトウキいうたら李東暉に違いないって考えたんかもしれへんね」

写経屋の覚書-なのは「もしそうだとしたら、暉(위)と基(기)は韓国人だったらまちがえないだろうし、最初は日本人がまちがえたと思うんだけどね…なんて思ってたら『朝鮮独立運動の群像』(姜徳相 青木書店 1984)p34・35に李東基を李東暉と同一人物とする言説があったの」

写経屋の覚書-朝鮮独立運動の群像34
写経屋の覚書-朝鮮独立運動の群像35

すでにのべたように、かれは一九〇七年七月旧韓国軍の解散当日まで現役の陸軍参領(少佐)として江華鎮衛隊の幹部であった。かれのひたむきな啓蒙運動への参画は軍幹部の任務と並行したものであったが、それと同時に火花のように散ったもう一つの愛国の激闘、義兵闘争にも参加したとみられる。みられるというのは参加したたしかな証拠をだすことができないからであるが、日本軍の記録『朝鮮暴徒討伐誌』(朝鮮駐箚軍司令部編、一九一三年)は軍隊解散当時の「江華分遣隊ハ比較的軍紀整ヒ気概ヲ有セリ」と他の鎮衛隊より志気の高い部隊だったことを特記している。この鎮衛隊が解散命令を峻拒して反乱を起こしたのである。『梅泉野録』(黄玹著)は反乱の状況を次のように書きとめている。
(中略)
 反乱軍の蹶起に一挙一動を監視されていた李東輝が直接指揮するのは困難だったろう。
 しかし江華の兵士たちが、長年李東輝らの薫陶をうけて勇敢で愛国的気概をもった部隊になったことを考えるとなんらかの連絡があったとしても不思議ではない。「暴徒の首魁李東基(輝)は昨日京城に於て逮捕す、目下軍隊と協力敗兵及暴民捜索中、同島の秩序は漸次恢復せらる」(一九〇七年八月十四日、丸山警視、国分秘書官宛電文、金正明編『朝鮮独立運動・第一巻』二一ページ)との日帝資料がある。かれの逮捕の理由は江華鎮衛隊の延基羽、金東秀らと江華島伝燈寺で義兵組織の謀議をおこなったというのである。かれがいかに無関係を主張しても、日帝はかれを反乱事件の黒幕とみて仁川沖の大舞衣島に配流した。(後略)

写経屋の覚書-はやて「よりによって姜徳相かいな…OTZ…『かれは一九〇七年七月旧韓国軍の解散当日まで現役の陸軍参領(少佐)として江華鎮衛隊の幹部であった。かれのひたむきな啓蒙運動への参画は軍幹部の任務と並行したものであったが』って休職処分後無任所やん。ちゅうか、ほんまに『朝鮮独立運動・第一巻』にそんな記述あるん?」

写経屋の覚書-なのは「そういう次元から疑っていかないといけないんだよねぇ…で、たしかに該当史料は『朝鮮独立運動Ⅰ 民族主義運動編』(金正明 原書房 1967)のp21に収録されていたよ」

写経屋の覚書-朝鮮独立運動Ⅰ_21

28 江華島の韓国軍兵士等日本軍隊討伐の件
  明治四十年八月十四日午前十一時     京城発
                 午後 〇時五七分 馬関着
 国分秘書官                 丸山警視
 江華島の残兵及暴民は去る十日の夜我か軍隊の攻撃を受け忽ち四散したり人民は避乱して家にあらず邦人の被害は軍人五名の外理事庁巡査一戦死他未詳同島郡守斬殺せられ一進会支部長重傷を負ふ外国宣教師は我か警察の手に保護せられて異状なし暴徒の首魁李東基は昨日京城に於て逮捕す目下軍隊と協力敗兵及暴民捜索中同島の秩序は漸次恢復せらる

写経屋の覚書-フェイト「でも、李東基と李東暉を同一人物と判断した根拠は何なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「そこまでは知る由はないんだけど、たしかに8月13日に李東暉が逮捕されたっていう史料はあるんだよ」

写経屋の覚書-19070815大韓毎日申報

隆煕元(1907)年8月15日付 大韓毎日申報
●리氏被捉 江華郡普昌学校長리東暉씨写経屋の覚書-nan17有何事件인지再昨日警視務庁에被捉되얏다더라

写経屋の覚書-フェイト「李東暉も李東基も同じ13日に逮捕されてるんだね。同一人物っていう蓋然性は高いんじゃないかな?」

写経屋の覚書-なのは「そこで韓国統監府の電文を収録した『統監府文書』を調べたら、『統監府文書4』(国史編纂委員会 1999)のp84にこんな電文報告があったんだよ」

明治四十年八月十六日 午後 一時二五分 京城発
                午後一一時一五分 大磯着
                           長谷川 統監代理
    伊藤 統監
 江華島暴徒の首魁李東暉は十三日京城に於て逮捕せられたり
(後略)

写経屋の覚書-はやて「ちゅうことは、李東基=李東暉ってことで確定やね」

写経屋の覚書-フェイト「姜徳相はこの史料を見て判断したのかな?」

写経屋の覚書-なのは「それはないんじゃないかな。もし見ていれば、『朝鮮独立運動Ⅰ 民族主義運動編』じゃなくこっちを引用紹介しているだろうしね。ともかく、丸山重俊警視が李東暉を李東基と誤記したってことで確定だね。その後、李東暉は12月にお咎めなしで釈放されてるんだよ」

写経屋の覚書-19071204皇城新聞

隆煕元(1907)年12月4日付 皇城新聞
●権李蒙放 江華郡普昌学校長李東暉前郡守権国顕両氏가警視庁에多月被囚写経屋の覚書-ha17고얏다가再昨日에無事蒙放写経屋の覚書-ha17고얏더라

写経屋の覚書-19071207大韓毎日申報

隆煕元(1907)年12月7日付 大韓毎日申報
▲李東暉姜윤희両氏가警視庁애無罪被捉写経屋の覚書-ha17얏다머니日前에李氏는教育上에熱心写経屋の覚書-ha17며姜씨写経屋の覚書-nan17李東暉와李儁와相知与否를一問写経屋の覚書-ha17고倶為放釈写経屋の覚書-ha17얏다니(後略)

写経屋の覚書-はやて「江華郡の前郡守と一緒に釈放されてとるんやし、鎮衛隊江華島分遣隊の反乱に関係しとるん(ちゃ)うかって容疑で取調べ受けとったんやろね」

写経屋の覚書-フェイト「でも、大韓毎日申報の記事だと、取調べ側が姜윤희って人に李東暉と李儁の関係について質問したように書いてるよ。ハーグ密使事件への関与も疑われたんじゃないかな?」

写経屋の覚書-はやて「まぁ、これらの新聞がほんまのことを書いとるいう前提での話やけどね。大韓毎日申報は排日機運を盛り上げるために、李儁の病死を抗議の自決って書いた前科があるさかいなぁ」

写経屋の覚書-なのは「とりあえずちゃんと書いてるというのを前提にして話を進めると、最初は鎮衛隊反乱への関与を調べられてて、その過程でいろいろ叩けば埃の出そうな人物ってことだってことでハーグ密使事件への関与の方も調べられたんじゃないかな?ま、最終的にはお咎めなしの放免だから両方とも関与が確認できなかったんだろうけどね」

写経屋の覚書-はやて「拘留されて別件でも事情聴取を受けたけど嫌疑不十分で釈放ってとこかな?」

写経屋の覚書-なのはこのサイトで『1907年光武皇帝の強制退位と軍隊の解散に大韓帝国がジュンシク植民地化しよう、グンドンジヨトドンヨンギオ(延基羽)·金東聖(金东洙)などと一緒に江華島で義兵を起こし闘うことを模擬したが、光武帝のヘア密使事件(海牙密使事件)に関連した容疑で日頃のピチェ·島流しされて獄中生活を払った』って書いてるのはそのへんが根拠なんだろうね。ともかく、これで、李東暉の逮捕が官報に出なかった理由も、処分もされてない理由もわかったね」

写経屋の覚書-フェイト「え?どういうこと?」

写経屋の覚書-なのは「それは次回のお楽しみにするよ♪」

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