「先に言っておくけど、今回は退屈だよ」
「え?」
「ひたすら史料テキストをあげるだけとか?」
「うん。しかも史料の存在自体も広く知られているだろし、内容もほぼ知られているだろうことの追認程度にしかならないんだよね」
「何についての史料なん?」
「金九の鴟河浦事件、土田譲亮殺害関係の報告書なの」
「土田は軍人じゃなくて行商人、つまり金九はただの強盗殺人犯って獄長日記で証明された話だね」
「うん。今回紹介するのは事件があった海州府の官吏が法部大臣に宛てて発出した報告書『海州府観察使署理海州府参書官金孝益報告』なの。発出日付は建陽元年(1896)6月30日だよ」
「事件発生から3ヶ月後の発出なんやね。えらい遅いんと
「そうだね。でもそのおかげで、獄長日記で紹介されている3月31日付『公文第20号』と4月6日付『公第68号』が発出された時点では分からなかった金九逮捕までの流れと最初の取調べ、供述について書かれているんだよね」
「たしかに逮捕までの流れは獄長日記では触れられてなかったね」
「じゃ、。まず画像をあげて、本文を適宜に区切りながら見ていくね。出典は『白凡金九全集3』(白凡金九先生全集編纂委員会 大韓毎日新報社 1999)だけど、『韓国独立運動史資料集 義兵篇』(朴成寿・孫承喆 韓国精神文化研究院 1993)にも同じものがあるよ」海州府観察使署理海州府参書官金孝益報告
前次部訓令内長淵郡不軌白楽喜同党海州郡検丹坊柳学善金昌守와同郡墨坊青龍寺留金亨鎮마安岳大徳坊崔昌祚와文化遮墻洞名不知李哥와長淵薪花坊彬陽洞金在喜을刻期詗捉
야府獄에厳囚
고捧供馳報
라신等因이읍기漏綱諸犯을多岐譏詗
으뢰各散東南
야形影没捉
와一漢도弋獲치믓
由로巳為報告
엿■오다該犯을期図詗捉
옵![]()
安岳郡守柳冀大에報告内에本部安谷三所坊執綱文報로接
은즉
「えーっと、強盗団の容疑者は白楽喜・柳学善・金昌守・金亨鎮・崔昌祚・李某・金在喜ってことだね」
「金昌守は、金昌洙つまり金九のことだよ。で、事件について供述を得られたので報告しますってこと」
「そやけど、捕まえたんは一人だけで後は逃げとるねんな」
三月初에日人一人이乗船来泊于本坊鴟河浦
엿三니海州居金昌洙等諸漢이自龍岡渡来
여自謂義兵所左統令
고一見日人에抜剣即殺
야投屍江中後에以日人銭七十五両으로買得驢子
고余数八百両은任置於該浦主人李化甫処
고受於音直向海州이라故르別遣耳目
야使之採探이은즉回告内메海州青山白雲等地에所謂八峯接主金昌洙와全羅道東学魁首金進士亨振라本郡大徳坊匪魁崔昌祚等이自龍岡으로同渡鴟河浦이라이읍고日人被害時에自称海州居金昌洙之説이出於其時当場而金昌洙之姓名이如彼符合則此漢等之刺殺日人이明若観火이라
읍기로
「まずは事件の簡単な内容だよ。3月初めに日本人が船に乗って鴟河浦に来た時、龍岡から来た自称「義兵所左統令」の金昌洙たちがそれを殺害して死体を川に投げ込み、75両を奪い驢馬を購入、残りの800両は宿の主人李化甫に預けて海州に向かったと」
「事件の際に名乗った金昌洙と、東学党や匪賊の金昌洙たちの姓名が一致したので、金昌洙が日本人殺害犯ということは火を見るより明らかだ、って言ってるんだね」
「金昌洙の『八峯接主』って何なん?」
「金九が東学党の崔時亨から任命されたものってことになってるみたいなの。たしかに1894年10月から東学党の再蜂起が始まって、黄海道でも蜂起はあったんだけどね…そのへんについてはまた後で触れるよ」
以此転報于内部外部이을티니内部回指
未承有
음고外部回指
承有
은즉内開메此項命案으로日公使에照会가屡至
여![]()
平壌治下浦라
엿기로平壌観察使의게已経訓飭
야事由로詳探
고■犯도詗捉
라
엿르니現接貴報
니破惑
이爽豁
니該犯等을尚未捉得
여스니命案이綦重
리殊非事体타該犯等을刻即詗捉
야法部로押上
라
읍고又平壌府観察使署理参書官崔錫敏照会内에外部訓令内開現에日公使에来照
接
즉内開네書翰을以
야啓者
움고進者
「この事件について内部と外部に報告したけど、内部からはまだ指示はなく、外部からは指示が来たんだね」
「うん。その指示には『日本公使から照会が何回か来たし、既に平壌の観察使に探索と犯人逮捕を命じた。海州府からの報告で事情もよくわかった。犯人はまだ捕まってないけど、重要案件だから即刻探索逮捕して法部へ押送するように』ってあったと。それと、平壌府観察使署理参書官崔錫敏からの照会にもその訓令と日本公使からの照会について触れられてたってことかな?あんまり自信はないんだけどね」
「次からが本題っちゅうか詳しい報告やね」
「んー、そうじゃなくて、日本公使からの照会の内容っぽいんだよ」
戌二月頃事이요
接
즉長崎県平民土田譲亮이란者가朝鮮人一人平安道龍岡居林学吉노伴
야仁川에帰![]()
竟로黄州十二浦에셔韓船一隻을雇用
야三月八日夜에治下浦에泊
야翌九日午前三時量에発船을準備
喫飯次로該処旅宿李化甫의게갓
가帰船흘際에該家庭前에셔該家止宿
든韓客四五名에게打殺
믈被
고同伴林哥로殺害훈境遇틀迯避
야同十二日夜에平壌으로来到
야該処駐留
平原警部에右事情
告
리該警部가巡査二名과巡検五名을引率
고同十五日에其処에臨
즉右旅宿主人이警部等에来
를聞
고迯走
야被害者에屍体
이믜河中에投棄
故로屍体
得지■
고라以旅宿庭前에血痕이浪藉
믈認
지라警部一行이郡吏等에게厳談
後作害
嫌疑者七名을伴帰
야糾問
즉皆作害者가아니■라以右事情得聞
샐이라
「長崎県平民の土田譲亮が平安道龍岡の林学吉を供に連れて仁川へ帰るために黄州十二浦で船を借りたんだけど、3月8日夜に治下浦に停泊して宿泊したんだね」
「ほんで9日の朝3時に出発の用意して李化甫の宿で朝ごはん食べて船に戻る時に、庭先で韓国人4、5人に殺されたんやな」
「供の林は、殺されそうになったから逃げて、12日の夜に平壌にたどりついて平原警部に事件を報告したんだね」
「うん。平原警部は巡査2人と巡検5人を連れて15日に現地に行ったんだけど、宿の主人李化甫は警部の到来を聞いて逃げてしまったし、土田の死体は川に投棄されてたのでその検視もできなかったんだよ。でも庭にはまだ血痕が残っていたので暴行があったことは確認できたんだよね」
「警部は郡の官吏たちに話して容疑者7人を連れ帰って尋問したけど、その7人は犯人そのものじゃなかったんだね。一応事件の事情は聞けたみたいだけど」
「ん?このへんの説明って獄長日記で見たことがあるで。たしか『金九は誰を殺したか(二)』やったよ」
とりあえずそのアジ歴の史料を見てみましょう。
史料は、『公文雑纂・明治二十九年・第十一巻・外務省三・外務省三/在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件(レファレンスコード:A04010024500)』。
1896年(明治29年)4月6日付『公第68号』から、該当部分を抜粋。
二.平壌附近に於て日本人の被害
3月9日、黄州治下浦に於て長崎縣平民土田譲亮が韓人の為めに殺害せられたる顛末は、当時平壌出張中の京城領事館警部平原篤武に於て詳細調査の上、当館附警部新納英彦に該件を引渡せり。
今其顛末を、現場より逃れ来りたる同人雇韓人より、口頭を以て在平壌平原警部に届出でたるを以て、事実取調の為め、同警部は巡査田中仲之助、税所珪介及朝鮮巡検5名を引率し、翌13日和船に乗じて平壌を発し、15日治下浦着。
同村民及土田が宿泊せし旅店主に就て尋問するに、土田は同月8日、黄州十二峯より韓人1名と共に韓銭6俵其他の貨物を小舟に搭載し鎮南浦へ赴く途次、同夜治下浦に着し、翌9日午前3時上陸して、同所旅人宿李化甫の家に到り、朝飯を喫し、将に乗船せんとして前庭に出しに、同宿の韓人4、5名、突然鉄棍を以て其背部を打ち、終に之れを撲殺して死骸を江中に投じ、直ちに船に至りて其所持せる韓銭其他を奪ひ、韓銭は之を宿主に預け、其の携帯品を奪て海州方向に遁走したりとの事にて、当時血痕尚ほ土に印せりと。
依て嫌疑者宿主の妻(当時宿主は遁走して家に在らず)、村民其他を引致し、発見したる韓銭其他を携へて、16日平壌に帰り種々詰問したる末、右は全く同宿旅人の所為なること判然として、各地方官に加害者の逮捕方を依頼し置たりとの事なり。
右土田譲亮は、長崎縣対馬国下郡厳原のものにして当港貿易商大久保機一の雇人なるが、商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次、終に此厄に罹りしものなりと云ふ。
依りて、遺留財産は右雇主に引渡し、其他同人死亡に関はり親族への通牒方等は、右雇主に命じ置けり。
ええ。
彼、今で言う長崎県対馬市厳原町出身の商人とされてるわけです。
仁川の貿易商、大久保機一に雇われて、商用で鎮南浦から黄州を回って仁川へ帰る途中に殺されたんですね。
しかも、韓国人4、5人に鉄棍で撲殺。
で、金は宿主に預け、所持品を奪って逃亡、と。
義挙?
単なる複数犯による強盗殺人じゃね?
「内容としてはほとんど同じだね。日本公使からの照会文の引用になるから当然だろうけど」
「そうだよねぇ。じゃ、ちょっと中途半端になるけど今回はここまでにして、続きは次回にするね」
















