アー・ユー・エクスペリエンスト?

 

目次

 

1976

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カメラとコンピュータ

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 コンピュータの定義を辞書で調べると次のようになっている。

 

スーパー大辞林より


 電子回路を用い,与えられた方法手順に従って,データの貯蔵検索加工などを高速度で行う装置。科学計算事務管理自動制御から言語や画像の情報処理に至るまで広範囲に用いられる。電子計算機。


 

 そのコンピュータが、なぜカメラの自動化に必要かというと、写真が、光による化学反応を利用しているからだ。

 当時のカメラは、フィルムという透明な膜の上に、光に反応して黒くなる素材を塗布したものを使って、レンズを通した光景を写し取っていた。

 撮影したフィルムは、後処理によって、光がより沢山当たったところはより黒くなり、当たらなかったところは透明になる。これがネガフィルムと呼ばれるもの。

 このネガに光を当てて、ネガを通った光を、フィルムの代わりに紙の上に反応材を塗布した印画紙に当てて化学反応させると、ネガの透明なところがより多く光が通過するので印画紙は黒くなる。

 これが完成した写真プリント。

 カラーフィルムも原理は同じ。

 

 ↓詳しく知りたい人はここを読もう

 

http://web.canon.jp/technology/s_labo/light/003/01.html

 

 当たる光を適切な量にするには、光の取り入れ口の大きさを調整するか、光をあてる時間を調整するしかない。

 取り入れ口の大きさを調整するのがレンズの絞りで、光をあてる時間を調整するのがシャッター速度だ。

 どのシャッター速度を使うかは、シャッターダイアル、どの絞りを使うかは、絞りダイアルで選択する。

 

 絞りとシャッター速度、どちらを調整しても、適正な光量がフィルムに当たるのだが、絞りはボケ具合に影響し、シャッター速度はブレ具合に影響する。当時のカメラマンは、絞りとシャッター速度、どちらを優先するかを先に決めて、残りで光量を調整するようにしていた。

 自動化では、このカメラマンが決定していた調整をカメラが代行する必要があるのだ。


 

 最初に適切な光量がいくらなのかを測定し、これに見合った絞りとシャッター速度を決定することになるのがフルオートなのだが、AE-1ではそこまでのことはできずに、シャッター速度だけはカメラマンに決めてもらうことになっていた。残りの絞りを自動調整するわけだ。

 

 ちなみに、この年にさくらカラーが24枚撮りフィルム缶を、従来の20枚撮りフィルム缶の値段で発売。CMでの、欽ちゃんが言う「どっちが得かよーく考えてみよう」というキャッチコピーが流行語になった。

 

 適切な光の量は直射日光の下、曇りの日、室内、電灯の下というように、写真を写す場所で変化する。

 そのため、シャッター速度優先の自動化では、測定した光量と、決められたシャッター速度から絞りの量を計算する必要があった。

 この計算を含め、光量測定、シャッター速度確認、絞り値決定、決定した値にレンズ絞りをを調整、シャッターを指定された時間で開閉する、といった各ステップを、AE-1ではマイクロコンピュータを使って集中管理したということになる。

 ただし、2年後に発売されるCanon A-1が完全デジタル制御カメラとして完成したと書いたように、AE-1はコンピュータによる中央集中制御といってもデジタル制御ではなかったようだ。

 AE-1はシャッター速度データをデジタルで記録していた以外は、基本アナログ制御という内容がアサヒカメラのニューフェース診断室で書かれているらしい。

 参照)https://www.ssplusone.com/canon-collection/フィルム一眼レフ/canon-ae-1/

 

 その点では、ホーム・ブリュー・コンピュータ・クラブの連中が熱中していたコンピュータとAE-1のそれは大きく異なる。

 Altair 8800にせよ、Apple Iにせよデジタルコンピュータだ。

 そして日本のTK-80もそうだ。

 そもそも1976年当時でも、コンピュータといえばデジタル方式だった。戦後すぐの1946年に発表されたコンピュータENIACにしたってデジタル方式だ。

 

 ↓ENIAC

 多分、ここら辺のチカチカするイメージが、〜80年くらいまでの映画やTVで登場するすっごいコンピュータのビジュアルとなってる。

 

 

 じゃあ、そのアナログコンピュータとデジタルコンピュータの違いって何なのか?

 

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1976

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 1976年4月、マイクロコンピュータが中央集中制御する方式を採用した一眼レフがキヤノンから発売された。

 Canon AE-1

 50mm f1.4 レンズとケース付きで85000円。

 

 

 同年同月1日エイプリルフール、ジョブズとウォズニアック、二人のスティーブがApple Computer社を設立し、Apple Iを666.66ドルで販売している。

 

 ここでジョブズが言ってる、クラブとはホームブリュー・コンピュータ・クラブのこと。

 Wikiより:電子工学の愛好家や技術系ホビーストが集まって、コンピュータ機器をDIYで製作するための電子部品、電子回路、情報などを交換する非公式な場として始まった。

 

 クラブで流行ってるアルタイルってのは、Altair 8800と呼ばれるコンピュータをさす。前年1975年に、個人が所有可能なコンピュータ(パーソナルなコンピュータ、略してパソコン)の組み立てキットとして発売されていた。

 

 この時代、コンピュータはビルの1フロアを丸々独占するような大きさのメインフレームと呼ばれるものや、メインフレームよりはミニだけど、それでも大型冷蔵庫数台分のミニコンピュータと呼ばれるものがほとんどで、お値段うん億円からうん千万円、とても個人が所有できるものではなかった。

 そこに、5年前の1971年に産声をあげたマイクロプロセッサと呼ばれるLSIチップを利用して、たったの397ドルでミニコンピュータ(自称)を作れるよと登場したのがAltair 8800だった。

 

 だったんだけど、こいつは今の自作パソコンのような、部品をソケットに挿せば動くといったものではなく、配線図見ながら溶かしたスズとナマリの合金で電線と装置を繋いだり(ハンダ付け)しなくちゃならなくて、作るのがとっても大変。ていうか、素人には作れねーよ。

 それに目をつけたジョブズが、組み立てまで終わったコンピュータを売ったらいんじゃねとウォズに持ちかけて実際に会社を作って売ったのがApple Iだった。

 

 いずれのコンピュータも貧弱な性能だったが、そんなことはマニアにはどうでもよかった。自分だけのコンピュータを持てることが重要だったのだ。

 このアメリカの西海岸で起こった「コンピュータを個人所有しちゃおうぜ」という小さなさざ波は日本まで到達し、この夏8月にはNECがTK-80を88,500円で販売している。

 そして、このパーソナルコンピュータの心臓部として大活躍のマイクロプロセッサは、2年後、Canon AE-1の発展系であるCanon A-1 83,000円(ボディのみ)を、完全デジタル制御カメラとして完成させ、やがては炊飯器、ビデオカメラ、電話とあらゆるところに浸透していくことになる。

 

 現在50前後の初老のおっさん、おばさんが小学生だった時代の話。

 ちなみに、その頃の日本の小学生が知ってる電子関係グッズといえばTK-80ではなく電子ブロックだった。

 

 

 もはや戦後ではなく、大卒の初任給は9万円で、大島渚監督はわいせつ物頒布罪で愛のコリーダされ、犬神家の一族の池には逆さの足が伸びていた。

 一方のアメリカではロバートデニーロが流しのタクシー運ちゃんで、ジャックニコルソンはカッコーの巣から転げ落ち、キングコングが今はなき貿易センタービルによじ登っている。

 

 ロッキードは黒いピーナツを配って回り、日清製粉からは焼きそばUFO、どん兵衛が発売されていく中、ピンクレディがペッパー警部でデビューし、テレビでは、まんが日本昔ばなしの放映が開始され、金田伊功が大空魔竜ガイキングで金田光り、金田パースを炸裂させ、なんか週によって絵柄変わるんだけどと当時の小学生に制作スタッフの名前を覚えるというきっかけを提供していた。

 そんな1976年から始めよう。

 

流行っていた音楽

 イーグルス:ホテル・カリフォルニア

 ABBA:ダンシング・クイーン

 川橋啓史/斎藤こず恵:山口さんちのツトム君

 イルカ:なごり雪

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