森見登美彦の「桜の森の満開の下」に対するオマージュを読むために再読。作品自体は 1947 年のもの。ちなみに初めて自分が読んだのは35年くらい前になる。
学生だったわたしはデカダンが好きで、坂口安吾は結構読んだ、はずだ。とうのは、完璧に内容を忘れていたからだ。こんなに考えさせる話だったのか。あのころのワタシは何を読んでいたのだろう?なんかきっと、文字に慣れ親しむための、字面をただ負うだけのモジトレ?みたいな感じだったのだろうか。びっくりするな。
モチーフは、桜の森の満開の下は居心地が悪いってことだ。森見登美彦のレンズを通して読むとそれは、「気が散る」から。どういうことかというと、わたしたちはふだん、自分に集中して生きている。判断基準は、自分がよいかどうか。ところが、桜の森の満開の下は、その気持ちを迷わせる。絶対的な美が、自分という存在(アイデンティティ)を相対的に揺らがせる。
主人公にとっての「女」も、そんな存在だった。自分のありかたに満足し、己の自然に生きる彼に「女」は別の物差しを突きつける。その鏡に照らすと、主人公は途端に矮小化され、欲しくもないものも手に入れないと生きにくい状況におかれる。それを避けるために、彼は人の基準に従わされて自分をますます見失っていく。
恋は「他者」と向き合わせる。結果的にはそのコンフリクトが自分に新しい概念を獲得させる「成長」という褒賞を与えるとしても、それは自分と、他者の存在をかけた戦いだ。壊れるぎりぎりのところに甘い蜜がある。身体は壊れることで再組成され伸びしろをつくる。なんたる、アンビバレンツ。あなたを欲する魂からの希求が己を破壊する動力なのだから。
自己保存の本能がたしかに働くのなら、恋などに現を抜かさない。なにかの気の迷い、魑魅魍魎の悪戯なのだ、早々に目を覚ますのだ。
かくして、主人公は「女」を切り捨てて自分を取り戻す、かに思えたが、「女」を切り捨てたあとには彼には生きる理由は残っていないのだった。盛りの過ぎた桜は散るばかり、その一時的な熱狂がかならず失われるならば、むしろ孤独のままに狷介に生きることによって、ずっと充足した自分のままでいることもできたのに。
と、ラストは「女」も主人公も桜の森の満開の下に消え失せるのだが、まーそれはちょっとロマンチストすぎるというか、おはなしだからね、とわたしはまとめたい。なぜなら、ふつうは、お話が終わったって人は生きているから。思いがけず持つことになってしまった心のなかの「なまあたたかいもの」の扱いをもてあましながら、昨日終わったお話の明日を今日、生きている自分の絶対値を、ちょっと誇らしく思って前に進んだっていいんじゃない?
という感じで、また明日。
