初出は 2007 年。

 

京都の没落した名門狸一家こそが本作品の主人公「有頂天家族」。不倶戴天の政敵と京都狸界の覇権を争うドタバタコメディ。三男坊矢三郎の視点から、師匠の天狗と半天狗の弁天、年に一度の狸鍋に舌鼓を打とうと待ちかまえる金曜倶楽部の人間をめぐる冒険が描かれる。

 

文庫版は上田誠という人が解説をしていたけれど、まとめるところ、「答えを導き出そうとするのがそもそもの間違い」という。そりゃ上等なエンタメだと思うが、それは匙を投げすぎではなかろうか。わたしだったらこうまとめる。「詭弁が尽くされた荒唐無稽アニメの原作」

 

先ごろ読んだ村上春樹の「壁の街」でもそうだったけれど、世界がはじめに生み出されるのは場面設定。その世界に信憑性を持たせるために、筋道を立ててやるとそうでなくてはならない嘘の上に嘘、旗弁の上の旗弁、フィクションの上のフィクションという楼閣が姿を現し、読者はその遊園地に楽しく遊ばされることになる。

 

森見登美彦の作品の楽しいところは京都の土地名が詳細に記され道を脳内で立体的に辿れる身体性に、衒いもなく奇想の上に奇想が広がるストーリーテラーの自信なのではないだろうか。聞き手が続きをせがんできた歴史のある、ホラ吹き男爵の冒険に類を見る、絶対ウソだろと思うこの系譜の物語世界は誰にも紡げるものではない。

 

一方で、この冒険譚の核にあるのは「家族」のありかた、特に「父の不在」である。親を失ってからが1人前のこの世の中、失ってなお、家族を結束させて守り導くのは父親の後ろ姿である。

 

こういう、兄弟の姿が現代で描かれることはあるだろうかと頭を巡らせる。兄弟の確執、ではなく、助け合う兄弟の呼吸を。協力できる兄弟になるかどうかは親の力もあるんだな。

 

「アニメの原作」と示したのは、決してアニメ化したからではない。登場する人物たちのキャラクター、背景となる街の風景が見せる光景は明らかに実写よりアニメに映える(京都の街を偽叡電電鉄が走る実写版を想像できるだろうか)だろう。

 

ともあれ、この話の楽しみ方は、広がる大風呂敷をロジックに変えていく芸の細やかさではないかと思う。個人の妄想世界はなかなか言葉では伝えきれないものだが、よくもまあ描ききったと思う、詭弁とは、ユーモアだったのである、とにかく、極上のエンタメであった。