平和を実現する | 沈黙こそロゴスなり

沈黙こそロゴスなり

The Message from the stars that illuminate your life.

昨今のチベット情勢を思うと複雑な気分になります。
というのも私の前世の一つが13世紀に活躍したチベットの高僧であると思われるからです。
このことは自分でも部分的に思い出しているのですが、全く関連のない二人のチャネラーからも同じことを言われたことがあるので、多分そうなのかも知れません。
ダライ・ラマやパンチェン・ラマはその後登場するわけですが、宗教指導者が政治的に影響力を及ぼすスタイルの基礎づくりに関わっていたということになります。
まあ、そのことに責任を感じてみてもそれは全く意味のないことなのですが、ちょっと気になってしまうのは、私の傲慢のせいでしょうか。


さて、国家というものは、そこに住む人々の意識の集合の単位でもあります。
その国で起きていることは、その国民の内的なものを反映しているといっても過言ではありません。
国境は自他の境を意味し、そこに属する人々はその中で起きている様々の側面を意味します。
同様に、ある特定の国のことが気になるのだとすれば、それはその国が自分の内的なものを反映しているからに他なりません。
そういう意味で、世界地図を広げて、気になる国について調べることは、自分の内面を知るためのよい材料にもなり得ます。

チベットの歴史を見れば、そこに幾度もの他国による侵略と、そこからの独立、また分裂や統合の経験があることがわかります。
また正統的な仏教の継承や、それを軸にした政治、思想の存在、そしてそれらを守ろうとする人々の営みを見ることができます。
そこには平和的なものもそうでないものもあります。
人の集合が紡ぎ出すものには様々な側面があり、多面的に見ていく必要があります。

私はチベット自らの独立運動に反対も賛成もしません。なぜなら魂とは自由に融合と分離を繰り返すものであり、単にそう見えて一つであることに変わりはないからです。
むしろ憂慮するべきは、この世界においてそれが戦いや対立、あるいは略奪といった方法によって引き起こされることです。戦いの先に平和はありません。戦いによって平和を勝ち取るなどということは、単なる幻想に過ぎません。恐れから愛は生まれないのです。
しかしながら、平和を求めて戦う人のなんと多いことでしょうか。国家を一個人と捉らえるなら、外からの干渉は一方的な価値観の押し付けになる可能性があります。価値観の押しつけが人を変えることがないことは、経験的に知っているはずです。
イラクで起きたことから、何を学ぶことができたのでしょう。たとえどんな崇高な目的があったとしても、暴力は暴力でしかありません。正しさの主張は対立を生むだけなのです。
しかしある人々はイラクで起きたことは必然だと言うかも知れません。「あの状況を打ち破るには力による介入が必要だったのだ、今暫くは混乱が続くだろうが、やがて落ち着いて平和が実現するだろう」と。
それはそれで確かにそのようになるかも知れません。しかし戦争によって生じた傷が癒え、平和が回復するまでの時間の長さを考えた時、同じ時間をかけるなら、平和の実現に暴力以外の方法も選択できたはずです。
ではなぜ暴力という手段を用いてしまうのでしょうか。それは実に多くの人々が、暴力こそ自分の願望を実現するのに最も手っ取り早い方法だと信じているからに他なりません。そしてその意識の集合が、国家単位の戦争を生み出すのです。

では暴力に訴えることなく、平和を速やかに実現させるにはどうしたらよいのでしょうか。

自分が今体験している世界は、自分の意識の反映です。私たちは自分は自分の外にあるものよって影響を受けていると誤解しています。しかし真実は逆です。私たちは自分の周りの世界に自分自身の内面を投影しているに過ぎません。
もしそこに争いを見るなら、それは自分の中に争いがあることを意味し、また平和を見るならば自分の中に平和があることを意味します。醜いものは自分の醜さを表し、美しいものは自分の中にある美しさを表しているのです。
これは最もシンプルでパワフルな原理です。
もし一人一人が自らのうちに平和を実現するならば、それぞれの体験する世界は平和に満たされたものになります。そして個という単位が集合することで平和の輪が広がっていきます。個から家族へ、あるいはそれぞれが属するグループ、地域、社会、そしてそれが国家という規模に至る時に、国家レベルの平和が実現します。
その平和は、集合する人々の内面が反映されたものですから、外からのいかなる影響も受けることはありません。この平和の前では、暴力も恐怖も全くの無意味なのです。
それを実現する方法が、内観であり内省です。内観を持って平和を実現する者は、世界を創造しているのだと説いたのはキリストです。自らを見、知り、ありのままに受け入れること、そこに救いと平和があります。

救いと平和をもたらすもう一つの方法が、過去を許すというものです。
私たちの多くは過去に経験した苦い経験が、未来にも起きるのではないかと恐れています。そのため過去と未来は同じものとなってしまいます。
しかし今、あるいは未来が過去と同じであることはありません。過去を許す時、今この瞬間から未来は解放され自由となります。
しかしながら、多くの人々はいまだ怒りと恨みを握りしめています。
それは、暴力と同様、怒りと恨みこそが自らの願望を達成するための効果的な方法であると信じているからに他なりません。
怒りと恨みの根底にはなんとかしてこの状況や現実をコントロールしたいという思いがあります。
許せないという思いは、コントロールしたいという思いの裏返しに過ぎません。

ではどうしてコントロールしたいと思うのでしょう。
それは自分の体験している現実は、自分の回りにあるものによって影響を受けていると誤解しているからです。
現実を変えるには、自分の周りを変えなければならないと思い込んでいるのです。
しかし実際には、周囲をコントロールしたいと思えば思うほどコントロールされてしまうような状況に陥るのではないでしょうか。そしていつまでも怒りと恨みとコントロールの渦の中をぐるぐると回り続けてしまうのです。

そのような馬鹿げた遊びは終わりにしましょう。
怒りと恨みを手放し、過去を許すだけでよいのです。
もし可能なら過去を書き換えてみるのもよいでしょう。
過去の苦々しい経験を、愛と平和の経験へと書き換えるのです。
そうすれば未来はもっと違ったものになるはずです。

許しとは、自分の周囲をコントロールしようとすることをやめることです。
許しとは、過去を捨て、怒りや恨みの感情を手放すことです。
許しとは、今、自分がいる世界をありのままに見ることです。
許しとは、具体的に、愛の行為をもって相手に近づいていくことです。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」

世界を創造するのは、私たち一人一人の中にある意識なのです。
今ある世界は私たちの意識を反映したものでしかありません。
自らのうちに平和を実現することこそが、世界に真の平和をもたらす最もパワフルな手段なのです。