●日本語の思い出
まずは、日本語の思い出を。
子供のころは、まだ戦後間もないころで貧しく、漫画を買うゆとりはなかったし、家族で漫画を読む習慣もなかった。
■子供のころから漢字が好き
母から一度も「勉強をしなさい」と言われたことはなく、がり勉だったという記憶はないが、当時、暇を見つけては学習百科事典や兄や姉の購読していた「中学コース」(写真左)とか「中学時代」(写真中央)を読んでいた。
そして、父親が定期購読をしていた、今年の5月30日に100年の歴史を終えた「週刊朝日」(写真右)を「密かに」読んでいた。なぜ「密かに」とわざわざ修飾語をつけたかというと、子供ながらに、これは大人の雑誌だと思っていたからである。
そのせいか、少しオマセだったようだ。そして、漢字や地名を覚えるのが大好きだった。自分は末っ子だったが兄や姉と漢字の競争をしていた。例えば、にんべんやごんべんの漢字を知っているだけ書いて行く。続けて漢字が書けなくなれば、しりとりのように、そのときが負けだ。おかげで当時、国語は大好きだった。
任→儀→価→侍→化→伯→件→健→仕→伊→作→偏→何→但→個→係→伝→代→伏→休
そして、小学校6年生のとき、いきさつは覚えていないが、先生から、「工場」は「こうじょう」と読むという話があった。思わず手を挙げた。「言葉の読み方には重箱読みとか湯桶読み*というのがあって、「こうば」という言い方もあるのではないでしょうか」。
*「重箱」の「重=ジュウ」は音読み、「箱=はこ(ばこ)」は訓読み。このように、音読み・訓読みの順で漢字を読む熟語のことを、重箱読みといい、逆に、訓読み・音読みの順番で漢字を読む熟語が、湯桶読みという。
こんなことを発言する生徒がいるとは想像していなかったようで、とても驚いた先生の顔を見て自分は内心「鼻高々」だった。ますます漢字が好きになったことは言うまでもない。
その後、大学受験までは国語は得意分野だったが、大学入学が人生のゴールみたいな燃え尽き症候群に陥り、「ただの人」になった。
それから、40年後、何とはなしに会社の教育研修の一環だった「日本漢字能力検定」(通称:漢検)の準2級に挑戦した。2006年、57歳のときである。もはや、最盛期の面影はなし。答えは喉に出かかっているのに出てこない。このもどかしさ。それでも150点/200点で合格。調べてみると高校在学程度だとか。まずまずではないか。もちろん、今では散々な結果だろうが、いい思い出になった。(写真は当時のものではありません)
余談だが、2009年、この時の理事長の大久保昇の不祥事(漢検協会事件)が大々的に報じられ、この研修はその余波で無くなった。
●外国語との付き合い
■受験英語
自分は国内の転勤を何度か経験し、当初は方言に戸惑いもあったが、すぐに慣れ、しゃべるようになった。
それで、外国語だろうが必要に迫られたら何とかなるだろうと表向き楽観視しているが、それは負け惜しみで、片言でもいいので、英語は喋れる方が良いに決まっている
我々団塊の世代では、外国人の名前を最初に覚えたのは、中学校の英語の教科書で、「Jack & Betty」と、「Tom& Susie 」である。どうやら開隆堂出版という会社が、戦後すぐに中学生用の英語の教科書として出版したものがあることが分かった。(写真)
学生時代、英語も国語と同様に比較的得意分野だった。英語の授業は読み書きが中心だから幸いしたのだ。
当時といっても半世紀以上も前のことだが、大学受験の勉強には次の辞書が欠かせなかった。団塊の世代では覚えておられる方も多いだろう、「受験生のバイブル」という存在だった、旺文社の英語辞典、通称「赤尾の豆単」(写真左)。
熟語辞典の通称「綜単」(写真右)も必携で、受験生の目標である両辞典にあるすべての単語と熟語を覚えたことが自慢だ。しかし、いわば大学受験のためだけの「一夜漬け」の勉強だったので、頭から消え去るのも早かった。
■社会人になってからの英語
以前いた会社で、イギリス駐在をして帰国した社員たちの報告会があった。彼らは短期とはいえ、自分たちが海外に駐在するとは夢にも思わなかったはずだ。そのときの質問に対して、「彼らとコミュニケーションを取るためには、英語がうまいかどうかはほとんど関係ない。気後れしないことが一番大切」と、印象的な発言があり、自分は、そうだろうなと納得したものだ。
「頭に残る音読英会話」(桑原功次著、2002年、ナツメ社、写真)にはこんなことが書かれている。
「あなたの英語はカタカナ英語だと言われても気にすることはありません。日本人は、相手に気を使う民族なので、他の人の言うことを必要以上に気にしがちです。
個人主義で、全ては自分の都合から始まる欧米人には、なぜそれほどまでに日本人が他人に気を使うのかは理解できません。
英語を話すのに、それを母国語とする人間の前で間違えるのが恥ずかしい、そういう日本人の気持ちは、彼らには絶対に理解できないでしょう。ほんのちょっとのコツさえつかめば、日本語なまりのカタカナ英語も多いに結構だと思います」。
●カラオケ
現在外国語との付き合いは、ほぼカラオケとYouTubeだけである。
カラオケについては、昔、いきつけのスナックに勤める外国人の女性から「日本語より英語の歌の方がうまい」とおだてられて以来、今でも調子に乗ると英語の歌を歌いまくる。
しかし、場の雰囲気を壊すこともあるので、歌うときは細心の注意を払っている。いい気分で北島三郎の「山」などの演歌を熱唱している人がいるときには間違っても歌わない。
なお、カラオケのレパートリーはもちろん「オールディズ」だ。
自分なりに英語で歌うコツを3つあげると、以下の通り。
1.発音など、間違えてもよいので大きな声で歌う。
2.早く音読する。「母音で始まる単語は、子音で終わった単語とくっつける」
3.【r】【l】の違い、【v】【b】の違い、【f】【h】の違い、thの発音など、日本語にない発音、日本人が区別をつけにくい発音をマスターする。
■カラオケの持ち歌(英語)
歌詞の意味を知らないで歌うのと、知って歌うとでは大きな差が出るはずだ。
例えば、次のトム・ジョーンズの「思い出のグリーングラス」と、エンゲルベルト・フンパーディンクの「リリース・ミー」は、一見いずれも甘いラブソングに聴こえるが、実は前者は、囚人が絞首刑の前にして過去の思い出に浸る歌であり、後者は、「もうあなたに飽きたので別れよう」と彼女を突き放す歌である。歌詞を訳すことができないと、感情を込めて歌うことはできない。
エンゲルベルト・フンパーディンク/リリース・ミー(Release Me、1967年)
ライチャスブラザーズ/アンチェインド・メロディ(Unchained Melody、1963年)
■カラオケの持ち歌(ハングル語)
離別(イビョル)(이별)は、唯一原語で歌える韓国の歌である。「吉屋潤 日韓のはざまを駆け抜けた男」(丸山 一昭 (著)、はまの出版) という本まで出ている、日本と韓国を舞台に活躍した吉屋潤(キル・オギュン、1995年、68歳で没、写真右)の作詞・作曲で、韓国歌謡界の女王パティ・キム(現在85歳、写真左)と、昔夫婦だった頃の名曲である。
これは、日本語のカバーでの歌詞も有名だ。
時には 思い出すでしょう 冷たい人だけど あんなに愛した 想い出を 忘れはしないでしょう 青い月を 見上げ 一人過ごす夜は誓った言葉を 繰り返し 逢いたくなるでしょう 山越え遠くに 別れても 海の彼方遥か 離れても…
パティ・キム/イビョル(1973年)
●日本の歌と欧米の歌い方の違い
彼らの日本の歌の分析力が鋭い。欧米は横隔膜を使った腹で歌うが、日本は鼻と喉を使っているという。