本題に入る前、少しスペインとポルトガルの勉強を。
●大航海時代と日本
スペインとポルトガルの国民にとって、一緒くたにされては迷惑だろうが、日本にとって両国は1万キロも離れていて、距離は遠くても、身近な国である。なお、1581年から1640年までは同君連合と呼ばれ、スペイン王がポルトガル王を兼ねており、初期の日本との関係においては重複する。
スペインとポルトガルは中世が終わる15世紀から17世紀まで、大航海時代(大探検時代)の両雄であるが、主に東方の開拓はポルトガル、西のそれはスペインと、住み分けをしていた。
大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略。インドとの交易は喜望峰周りで航海したヴァスコ・ダ・ガマ(1469年~1524年)により達成された。
■日本への渡来とキリスト教布教
日本に関しては、1543年、種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来(画像)から始まったポルトガルと日本との交流。
誰もが知るスペイン人宣教師、フランシスコ・サビエル(1506年~1542年、画像左)は、スペインの使節ではなく、西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王ジョアン3世に依頼されて1541年にインドのゴアへ赴いた。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人・弥次郎(1506年~1552年、画像右)の話から日本とその文化に興味を覚えて、1549年に彼と二人の従者を伴って鹿児島に上陸、二年滞在して困難な宣教活動に従事した。
しかし、彼の布教はほとんど実らなかった。彼が会った有力者の中でキリスト教に関心を持ったのは、府内(現在の大分)の大名、大友宗麟(1587年、57歳で没、画像)だけであった。彼は、当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。
1582年、イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案により、九州のキリシタン大名の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として4名の少年を中心とした、天正遣欧少年使節団が派遣された。一行は1584年にリスボンに到着。ローマ等を訪問して1590年に帰国。この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。
天正遣欧少年使節GO!/天正遣欧少年使節(2010年)
しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。
日本でのイエズス会事業はその後、優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。鎖国までの主な年表は次表の通り。
■起源がスペイン語かポルトガル語の日本語
南蛮貿易のおかげもあり、驚くほどたくさんのスペイン語とポルトガル語が日本語化された。見ての通り、スペインよりもポルトガルの方が圧倒的に多い。それにしても、「ピンからキリまで」の「ピン」と「キリ」がポルトガルから来た言葉だとは知らなかった。なお、起源がスペイン語かポルトガル語なのか不明な言葉もある。
■スペイン・ポルトガルの栄光と没落
太陽の没することなき帝国と呼ばれた「スペイン帝国」は1492年から1898年まで続いた。最盛期は、ハプスブルグ家出身のフェリペ2世(在位期間1556年~1598年、1598年71歳で没、画像)。 ちなみにフィリピンの名は、フェリペ2世に由来する。
図の通り、スペイン帝国は黄金の世紀と呼ばれた最盛期の16世紀中盤から17世紀前半には南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカの幾つかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた。また、植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。(赤はスペイン、青はポルトガル)
しかし、栄枯盛衰。1588年のアルマダ海戦(画像)にて、スペインの無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると、スペインの衰退は顕著になっていった。
その後イングランドは急速に国力を高め、17世紀後半には史上最大の帝国であるイギリス帝国へと発展していった。そのイングランドの栄光も永遠ではなかった。
そろそろ両国のご当地ソングを聴いてみよう。
●スペインとポルトガルのご当地ソング
小柳ルミ子/スペインの雨(1979年)
チェウニ/リスボンの雨(2010年)
■スペインのご当地ソング。
フランク・プウルセル/遥かなるスペイン(LE COEUR GRENADINE)
■グラナダ
グラナダ(写真左)は、人口24万人、スペイン南部の都市。アンダルシア州グラナダ県の県都で、かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都であり、シエラネバダ山脈が抱える「ベガ」と呼ばれる肥沃な平野を基盤にして栄えた。壮麗なアルハンブラ宮殿(写真右)が有名。宮殿と川をはさんで向かい合う丘の上にはアルバイシンの街並みが広がる。
ジェームス・ラスト/グラナダ(Granada)
「アルハンブラの思い出」は、スペイン・バレンシア州・ビジャレアル出身のフランシスコ・タレガ(1909年、58歳で没、写真)による作品。高度なギター演奏テクニックであるトレモロ奏法を活用した曲としても名高い。
村治佳織/アルハンブラの思い出(Recuerdos de la Alhambra、1896年の作品)
■アランフエス
アランフエスは、スペインの首都マドリードから南に48kmの都市。タホ川に沿って広がり、ハラマ川との合流点がある。スペイン王室の宮殿(写真左)と庭園が有名で、16世紀にフェリペ2世の命で建設が始められ世界遺産にも登録されている。ホアキン・ロドリーゴ(1999年、97歳で没、写真右)の楽曲アランフエス協奏曲は1939年に作られたが、第2楽章はポピュラー・クラシックとして編曲されるなど広く知られており、ムード音楽の分野では「恋のアランフエス」の他に、「我が心のアランフエス」などの通俗名が付けられている。
ポール・モーリア/恋のアランフェス(Concierto de Aranjuez 、1939年)
■セビリア
スペイン南部、アンダルシア地方の中心都市セビリア(人口70万人)は 闘牛やフラメンコの本場で、スペインを代表する観光都市。セビリア大聖堂(写真)、アルカサル、インディアス古文書館は世界遺産に登録されている。
また、ドン・ファン伝説の舞台であるとともに、いくつものオペラの舞台となっている。モーツァルトの『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』、ロッシーニの『セビリアの理髪師』、ビゼーの『カルメン』など。
毎年3月末から4月にかけて「聖週間(セマナ・サンタ)」と呼ばれるキリストの復活祭が開かれる。聖週間では、セビリアの町のあちこちの教会ごとから、キリストやマリア等身大の像をのせた「パーソ」と呼ばれる大きな山車が担ぎ出され、トランペットや太鼓などの楽隊たち数百名に先導され市内を繰り歩く。それらの行列の中でひときわ人気が高いのが、銀色の涙を頬に光らせ、宝石をちりばめた美しいマリア像(写真)を山車にのせたマカレーナ教会の行列で、この若きマリア像はマカレーナの乙女(写真)とも呼ばれ、闘牛士の守り神とされているそうだ。
その数週間後には、スペイン3大祭りの一つである「春祭(フェリア)」が行われ、スペインの諺で「セビリアを見たことがないものはこの世のすばらしさを見たことがない人だ」とその美しさを賞せられ、多くの観光客が訪れる。
ロッシーニ作曲/セビリアの理髪師
靴屋で働くアントニオ・ロメロ・モンへとバルで働くラファエル・ルイスが友人たちに勧められデュオを組み、1993年に発売された『恋のマカレナ』は1996年に世界的な大ヒット。セクシーに腰を動かす『マカレナダンス』もアメリカを中心に世界的に話題になった。NBA等では自身の応援するチームがポイントを取った時などにチアなどが披露する事が多いとのこと。
ロス・デル・リオ/恋のマカレナ(Macarena、1993年)
ペレス・プラード/マカレーナの乙女(闘牛士のマンボ)
■カナリア諸島
カナリア諸島は、アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上にある、7つの島からなるスペイン領の群島である。カナリアス諸島ともいう。諸島全体でカナリア諸島自治州を構成する。大陸で最も近いモロッコ王国からの距離は100km~500km程度である[1]。 カナリア諸島は、大西洋のハワイといわれている。グラン・カナリア島のラテン語名「Insula Canaria(「犬の島」の意)」に由来する。のち複数形「Insulae Canariae」として諸島全体を意味することにもなった。州の紋章には、7つの島々をはさんで一対の犬が描かれている。
大滝詠一/カナリア諸島にて
■ポルトガルのご当地ソング。
パーシーフェイス/ポルトガルの洗濯女(The Portuguese Washerwomen)
ジェームス・ラスト/ポルトガルの四月(April in Portugal)
■リスボン
ネルソン・リドル/懐かしのリスボン(Lisbon Antigua)
(Wikipedia参照)