●「男はつらいよ」と倍賞千恵子
前作で映画「男はつらいよ」を投稿したが、これを国民的人気映画にのし上げたのは、何と言っても、渥美清(1996年、68歳で没、写真左)が演じる車寅次郎の妹の「さくら」こと倍賞千恵子(写真右)の存在が大きい。
彼女の、血がつながらない兄の寅さんに対する優しさと包容力の大きさは驚くべきである。至るところでトラブルを起こす寅さんを何もなかったように収められるのは、彼女以外にありえない。
多くのマドンナは、寅さんだけが好きになったのではない。彼を理解する、全く違うタイプの彼女がそばにいてくれたおかげだと思う。
山田洋次監督の信頼も厚く、今回の22年ぶりの新作は、倍賞千恵子が健在だったから作成する気になったんだろう。
「男はつらいよ」シリーズは、全48作の配給収入が464億3千万円、観客動員数は7,957万3千人を記録した。
倍賞千恵子も78歳になった。映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」を観ると老化は隠せない。それでもそれを隠さないところが、また彼女の評価を高める。
「男はつらいよ」の出演者の多くは鬼籍に入った。渥美清の死去は山田洋次から1996年8月6日の夜に電話で聞き、「しばらく信じられなくて、(作品は本人が)動いているから見るのがいやだった」と振り返っており、8月13日に開かれた「寅さんとのお別れの会」では、弔辞の後に「さくらのバラード」を献歌し、山田監督には「話が支離滅裂になったって、かまわない、途中で泣いてしまっても構わない。とにかくあなたにとっての渥美さんへの思いを話せばいいんだから」と言われている。また、全48作で共演したおばちゃんこと、三崎千恵子が2012年に死去した際には弔辞を読み、三崎が病床で聴いていたという「忘れな草をあなたに」を歌った。さぞや、みんな感動に涙したことだろう。(Wikipedia 参照)
倍賞千恵子/さくらのバラード(1972年)
倍賞千恵子/忘れな草をあなたに(1971年)
●下町の太陽
彼女が最初に人気を得たのは、映画「下町の太陽」(1963年公開、写真)である。元々1961年に、題名と同タイトルの歌を歌い大ヒットとなったことから映画化された。
「下町の太陽」の舞台は、東京スカイツリーに近い、東京都墨田区の曳舟駅(京成線・東武線)(青印)付近にあった、資生堂の石鹸工場などの工場群だ。
●山田洋次監督と倍賞千恵子の関係
それにしても、88歳で監督の、この若々しい映画、人間は年齢では測れないことを教えてくれる。年を取ったとため息ばかりついてはいられない、勇気を与えてくれる映画だ。
東に山田洋次(88歳、写真左)、西にクリント・イーストウッド(89歳、写真右)、ここにありという感じである。
倍賞千恵子は、1969年から1997年の49作・「男はつらいよ」シリーズの合間を縫って、「家族」(1970年)、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)「遥かなる山の呼び声」(1980年)をはじめ、山田が発表したオリジナル大作にも出演。「キネマの天地」(1986年)まで、延べ60本以上の作品に渡って、全て彼女が主役や準主役として出演、海外でも殆ど例のない長期の監督・女優コンビである。生涯を通じて「家族」をテーマにした映画を世に出してきた山田洋次監督。倍賞千恵子は、「家族」、「故郷」(1972年)、「遙かなる山の呼び声」に登場するいわゆる「民子」3部作ではその「民子」を演じた。
なお、山田監督が柴又を知ったのは、「下町の太陽」を監督する際、作家の早乙女勝元(現在87歳、写真左)に教授してもらうために早乙女宅を訪問。すぐそばにあった柴又帝釈天(写真右)を、案内されたのがきっかけだという。(Wikipedia 参照)
倍賞千恵子は、歌謡曲からポピュラー、スタンダードに童謡・唱歌まで幅広いジャンルを歌いこなせることに加え、日本語の発音の美しさから歌手としての評価も非常に高い。2001年に乳がんを患いながら克服し、現在でも精力的に音楽活動を続けている。
倍賞千恵子/さくら貝の歌
左より第1位樫山文枝『おはなはん』、第2位田中裕子『おしん』、第3位国仲涼子『ちゅらさん』、第4位沢口靖子『澪つくし』、第5位松下奈緒『ゲゲゲの女房』だった。
倍賞千恵子は日本の宝だね。