V.Ashkenazy-Tchaikovsky: 6. Juin: Barcarolle | 田舎暮らしのブログ

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クラシック音楽鑑賞(ピアノ曲)を学習中です。

 
 
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))はロシアの作曲家である。
チャイコフスキーとは祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка; 伝統的なウクライナの苗字で、カモメを意味する)から改めた姓であり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。
 
チャイコフスキーはその親しみやすい作風から、クラシック入門の企画などで採り上げられることが大変多い作曲家である。叙情的で流麗・メランコリックな旋律や、絢爛豪華なオーケストレーションが人気の要因となっている。またリズムの天才と言われ、一つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。
曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚といわれる表情が見えたりする。作品は多岐にわたるが、とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
♪チャイコフスキー : 「四季」 6月 舟歌 ト短調
 
チャイコフスキー(1840-1893)の「四季」Op.37bis〔1876年〕は、ペテルブルクの月刊誌『ヌウェリスト(小説家)』上で“連載”された作品で、12ヶ月に対応した12の小品から成ります。季節の自然のみならず、民衆の生活をも生き生きと描写したユニークな作品で、その音楽には、祖国ロシアの自然と人々を見つめるチャイコフスキーのあたたかな眼差しがつねに息づいています。
 
音楽は、心あたたまる家の中の情景(「1月 炉ばたで」)で始まり、祭のにぎわい(「2月 ロシアの謝肉祭」)とともに、春が訪れ自然が目覚めると、自然の情景とそれに付随した人々の心の動きが描写されます(「3月 ひばり雲雀の歌」「4月 待雪草」「5月 白夜」「6月 舟歌」)。続いて、自然と結びついた民衆の生活が描写されます(「7月 刈入れ人の歌」「8月 収穫」「9月 狩り」)が、秋を迎え自然は枯れていきます(「10月 秋の歌」)。再び冬が訪れ(「11月 トロイカに乗って」)人々は明るい気分で1年を終えます(「12月 クリスマス週間」)。各々の小品の表題は編集者が与えたものですが、チャイコフスキーは、これらの情景を、過ぎゆく季節をいとおしむように優しい音遣いでえがき出しています。ほとんどの曲が前の曲の近親調で始められており、余韻から翌月の音楽が浮かび上がるような効果が、1年を通じた大きな流れを感得させる所以となっています。
 
ところで、「四季」は、特定の楽器を思わせる書法が散見されるなど、きわめて管弦楽的な発想で作曲されているので、そのオーケストレーションを意識して味わうと、鑑賞の愉しみも倍増するのではないでしょうか。実際、20世紀にソ連の指揮者・作曲家のアレクサンドル・ガウク(1893-63)が管弦楽編曲しており、スヴェトラーノフらによる録音で聴くことができますが、チャイコフスキー自身による管弦楽版が残されていればどんなに素敵だったことか、と夢想してしまいます。
 
「6月 舟歌」(ト短調)は、チャイコフスキーのピアノ曲のなかで最も親しまれているもので、穏やかに揺れる伴奏音型が波のメタファーとなり、揺れる小舟から見上げた夏の星空への陶酔がロマンティックに歌われる名曲です。
 
なお、「四季」の各々の小品には詩が引用されており、聴き手が想像力をふくらませる一助となっています。
 
舟歌―6月
岸辺に出よう。
僕らの足に波はくちづけ、
秘めやかな愁いの星が 
僕らの上に光るだろう。  ―プレシシェーエフ
(ピティナ・ピアノ曲事典より)
 
 
ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニ、マルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。
 
秀才ピアニストとして
 
1937年にソヴィエト連邦のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。父親はソ連軽音楽界で活躍したダヴィッド・アシュケナージ。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。
 
1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し、2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている。
 
同じ年にモスクワ音楽院に入学、レフ・オボーリンやボリス・ゼムリャンスキーに師事した。翌1956年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場して優勝を果たし、これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行してセンセーショナルな成功を収めた。EMIやメロディアからレコードも発売され、音楽院在学中から国際的な名声を確立した。
 
1960年にモスクワ音楽院を卒業、翌年にはモスクワ音楽院に留学していたアイスランド出身のピアニストの女性と結婚した。1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場しジョン・オグドンと優勝を分け合った。このとき共産党幹部から「あんなイギリス人と順位同着とは何事だ!」と叱責されたのがきっかけとなり、ソ連を離れることを決意。
 
亡命後
 
1963年にソヴィエト連邦から亡命のためロンドンへ移住、以後ソ連のあらゆる公式記録からその名を抹消された[2]。1968年には正式に妻の故国アイスランドのレイキャヴィークに居を移して亡命を申請、1972年にはアイスランド国籍を取得した。この亡命ニュースは世界中を駆け巡った。
 
1970年頃からは指揮活動にも取り組み始め、1974年には指揮者として初の録音を行った。指揮活動の初期に共演したオーケストラにはロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団などがある。
 
1987年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1994年までその座にあった。1989年11月にはロイヤル・フィルを引き連れて改革の進むソヴィエト連邦に26年振りの帰郷を果たし、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行った。そのほかこれまでにベルリン・ドイツ交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団の音楽監督、首席指揮者のポストを歴任している。
 
2010年、洗足学園音楽大学の名誉客員教授に就任。後進の指導にあたる。
 
現在はスイスのルツェルン湖畔に居を構え、シドニー交響楽団及びEUユース管弦楽団の音楽監督として主に指揮に重点を置きつつ精力的に活動している。
 
ピアノ
 
身長168センチと小柄な体格だが、演奏至難なパッセージも楽々と奏出してしまう卓越したテクニックの持ち主である。その洗練された音色と端正で中庸を得た解釈は彼の音楽を万人に親しみやすいものにしている。レパートリーは極めて広汎にわたり、クラシック音楽のスタンダードなピアノ曲の大部分を網羅しているといって過言でない。録音も膨大な量に上り、そのいずれもが高い水準を誇っている。こうしたことからアシュケナージは20世紀後半の最も重要で傑出したピアニストの一人と目されている。若いころはかなりテンポが速く弾き飛ばしともいえる表現を誇ったが、年齢を加えてからはそうでもなくなってきた。
 
ショパン・コンクールをきっかけに国際的な名声を確立した経緯もあってショパン作品には精力的に取り組んでおり、その評価も高い。音楽評論家の柴田龍一は彼の膨大なキャリアの中から特に重要な録音の一つとしてショパンの練習曲全集を挙げ、「このピアニストのテクニックの素晴らしさを最高度に浮き彫りにした演奏といえるが、ここに示された彼のテクニックは、凄みや冴えで聴き手を圧倒するものではない。彼は、この難曲を少しのごまかしもなく余裕をもって奏出し、そのスムーズな語り口や美しい仕上りによって、聴き手にエチュード集の各曲に秘められた音楽的魅力を満喫させてくれている」と評している。これはデッカの録音のことである。それとは別に「ヤング・アシュケナージ」と呼ばれる一連のソ連時代には十代の全曲録音というものがあり、ピアニストの低年齢化のさきがけのような存在であった。
 
またラフマニノフ作品に献身的ともいえる姿勢で取り組んでいることも特筆すべきであり、協奏曲全曲とピアノ独奏曲のほとんどをレパートリーとしている。特にピアノ協奏曲第3番はピアニストとして4度録音している(2種類のカデンツァを弾き分けていることも注目される)他、指揮者としても振ったこともある。アンドレ・プレヴィンとの共演による2台のピアノのための作品の録音や、ソプラノのエリーザベト・ゼーダーシュトレームとの共演による歌曲全集の録音も貴重な存在である。
 
室内楽にも積極的に取り組み、特にヴァイオリニストのイツァーク・パールマンやチェリストのリン・ハレルと数多く共演している。
 
指揮
 
チャイコフスキーやラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのロシアもののほか、ベートーヴェンやシベリウス、リヒャルト・シュトラウスなどの作品を主要なレパートリーとしている。モーツァルト及びベートーヴェンのピアノ協奏曲は弾き振りで全集を録音している。
 
指揮活動においてもラフマニノフ作品は重要な位置を占めており、彼の指揮者としての存在を世界に認知させたのは1980年代初頭にコンセルトヘボウ管と共演したラフマニノフの交響曲、管弦楽曲の録音だった。このうち合唱交響曲「鐘」は後にチェコ・フィル及びプラハ・フィルハーモニー合唱団との共演で再録音し、交響曲と交響詩『死の島』、交響的舞曲も2007年にシドニー交響楽団と再録音を果たしている。また協奏曲は指揮者としてもジャン=イヴ・ティボーデやエレーヌ・グリモーなどとの共演で演奏している。現在ラフマニノフ協会の会長の任にあり、世界各地で「ラフマニノフ・プロジェクト」と銘打った企画を開催するなど(東京では2002年暮れに開催)、ラフマニノフ作品の普及、紹介に努めている。
 
編曲
 
アシュケナージはムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」への思い入れが強く、原典版(ピアノ)の演奏ばかりでなく自身で管弦楽に編曲しており、フィルハーモニア管を指揮して1982年に録音している(London/ポリドール)。また翌1983年にはスウェーデン放送響を指揮してレオ・フンテク編曲の管弦楽版を録画し、自身のピアノ原典版演奏とあわせてレーザーディスクにしている(Teldec)。このレーザーディスクにはリハーサル風景を織り交ぜての曲解説も収録されている。
 
家族
 
夫人との間に四子があり、長男ヴォフカはピアニストとして、次男ディミトリはクラリネット奏者として活動している。ヴォフカとはショパンやシューマン、ラフマニノフ、バルトークの室内楽作品で共演している。ディミトリとはリヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーの協奏風の作品で指揮者として共演しているほか、2007年には二人の共演でシューマン、ベルク、ルトスワフスキなどのピアノとクラリネットのための作品を収録したアルバム「クラリティ」をリリースした。ラフマニノフの六手のピアノのための作品の録音ではヴォフカとともに夫人との家族3人による連弾を披露している。また2009年には長男ヴォフカとの初共演アルバムであるラヴェルとドビュッシーの2台のピアノのための作品集をリリースした。
 
妹のエレーナもロシア音楽コンクールやサンクトペテルブルク室内楽コンクールで第1位を獲得した経験のあるピアニストである。現在夫のヴァイオリニスト、グレゴリー・フェイギンとともに武蔵野音楽大学の客員教授を務めている。
 
彼が居住するルツェルン湖畔の自宅はラフマニノフがロシア革命後にヨーロッパでの活動の拠点としていたセナールと呼ばれる別荘の近くにある。作曲家の孫とは古くから親しい間柄で、現在は隣人同士としてのつき合いがある。
 
日本
 
初来日は1965年のことで、以後は頻繁に日本を訪れている。2000年10月に初めてNHK交響楽団の定期公演の指揮台に立ち、2004年から2007年までは音楽監督を務めた。退任後は桂冠指揮者に任じられている。
 
就任を記念して放送されたNHKの特集番組では、ルツェルン湖畔の自宅に和室がしつらえてあり、様々な日本の文物が飾られている様子が紹介された。
 
NHK大河ドラマでは、2005年の『義経』と翌2006年の『功名が辻』のサウンドトラックで指揮を担当した。
 
2007年公開の日本のアニメ映画『ピアノの森』にはピアノ演奏・ミュージックアドバイザーで参加した。
 
エピソード
 
亡命前のアシュケナージの写真には、しっかり共産党の諜報員がぴったりと寄り添っており、監視されていたことがわかる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』