タイトルを書いていて、果たして「はっきりとした不安」って、何なんだろうと考えてしまいました。
そして「これだ!」と思うものを一つ選びました。それはずばり・・
「死の恐怖」です。これ以上分かりやすい不安はありません。
画像 田町三田こころみクリニック 全般性不安障害
この「死の恐怖」と言う逃げようのない不安にとらわれてしまった人は、普通のありふれたのんきな人たちと違い、薄々ではありますが、「死」と言う、人生最大の問題に気付いてしまった人たちと言えます。
気づいてはいるけれど、まだそれをどのように解決してよいかわからない状況ですので、非常な苦痛恐怖を感じるものなんですね。
そのあまりの苦痛のために、まだ人生最大の問題に気付いていないのんきな人たちをうらやましがると言ったことも起きてきます。具体的に言うと、「心臓神経症」、「パニック障害」などは、典型的な「死の恐怖」を味わいます。もちろんここで問題なのは、「三人称の死」や「二人称の死」ではなく、まぎれもない『自分自身の死』であります。
しかも、「いつ死ぬかわからない」と言った極めて切迫した「死の恐怖」です。まさしく『自分もいつかは死ぬ、しかもいつ死ぬかわからない』と言うのは、動かすことのできない、人生最大の、根本的苦しみであると言えるかもしれません。
毎日の新聞を見ても、事故死する人の多さに驚かされます。いつ、わが身に降りかかってくるかわかりません。どんなに車に気を付けていても、地震や津波で、命を落とすかもしれません。こんな状況の中では、誰もが『自分だけは大丈夫』と言うわけにはまいりません。
画像 note うえ田ポピ夫 生の欲望と死の恐怖
一旦「死の恐怖」にとらわれた人は、何とかそれを忘れようとあれこれ策略を講じます。ある人はお酒を飲む、ある人は安定剤を飲む。ある人は酔狂に講じる。しかし、たとえ一時忘れることが出来ても、すぐまた「死の恐怖」は心の底からよみがえり、思い出されてきます。
一人でいる時、夜中に目が覚めたときなど、身の凍るような恐ろしさとともに、「死の恐怖」が襲ってきます。もうどこにも逃れられません。
どうすればよいのでしょう。森田先生はこう述べられています。
「ひとたび自分の"人生の根本問題"を知ってしまった以上、これをすっかり忘れ去ることは不可能である。
ならばこれを事実として、私たちははっきり認めなくてはなりません。そしてぼんくらでのんきな人のようになるのではなく、神経質の特徴を発揮して、心の底で感じたことをごまかすことなく、意識の上に浮かび上がらせ、その問題について、いつかは正しい解決を見出すべく、真剣に努力していくことである。」
普通の人々は日常生活に紛れて、「人生の根本問題」に気づかない。または「気づこうとしない」。そんなのんきな人たちを私たち神経質はうらやましがりますが、とんでもないことです。
普通の人たちのこの状態を仏教では、「無明」と言います。つまり「迷いの生活」です。これではいつになっても悟りを開くことは出来ません。
それに対して神経質は真面目ですから、人生の根本問題について、真剣に考えないわけにはいかないのです。それだけでも神経質は悟りの一歩手前にいるのです。
今は、どうしていいのかわからないかもしれません。しかし「死の恐怖」を頭の片隅に据えながらも、それを解決すべく努力を続けなさいと、森田先生は仰います。
言い換えれば、「死の恐怖」から逃げることなく、「死の恐怖」を見据え、「死の恐怖」と向き合うことだと思います。
「死の恐怖」と真剣に向き合うことが出来れば、いつの間にか「死の恐怖」は消えてなくなると言われています。
参考・・・「あるがままに生きる」、「森田療法のすすめ」