昨日は、「何でも思い通りになる」と言う誤った「思考の癖」が、コロナ禍のような「どうにもならない」現実に対して、より過剰な不安や不満を抱えてしまうものである。と指摘いたしました。
実は、「どうにもならない」状況の中で、もう一つ苦しみを倍加してしまう「思考の癖」があるのです。
それは、「分かろう」、「理解しよう」とする癖です。別の表現をすれば、「分からないままに放っておけない」癖と言い換えることも出来そうです。
例えば、次のような数列を考えます。
3.14159265358979323846264338327950288419716939937510・・
そうです。円周率ですね。でもこれが円周率だとすぐわかるのは、私たちがすでに学んでいるからです。
ではもし、円周率と言うものを全く知らない人が、この数列を見たらどう思うでしょう。
まずは、何の数列か知ろうとするでしょう。それには数字の並びに法則性を見つけようとしたり、少数の種類を特定しようとするかもしれません。つまり何とか「分かろう」、「理解しよう」と務めるのです。
もちろん義務感ではありません。「知的好奇心」と言うよりも、「分からなければ気が済まない」と言った強迫的心情に突き動かされるからです。
私たちのこうした「分かろう」、「理解しよう」と言う気持ちは、性格的なものではなく、すでに脳みそに組み込まれたものである。と言うのが定説になっています。
私たちは病気の苦しみや自然災害などに、何らかの意味付けをし、それを「分かったつもり」になって初めてすっきりすると言った心理も、脳の傾向性が下地になっているのです。
だから目の前に先の円周率のような、訳の分からない、不可思議なものに出会うと、脳は落ち着かなくなってしまいます。不安になります。そうした状態は不快なものですから、何とかそれに意味を見出し、とりあえず「理解しよう」とします。
ところがここに大きな落とし穴があります。とりあえず「分かったつもり」で得られる浅はかな理解では、そこで満足してしまい、より高次元にまで思考が発展しないのです。ましてやそれが誤った理解であれば、なおさら悲劇は深まります。
私たちは「分かりたがる脳みそ」を土台にして、それを「知的好奇心」などとおだてながら、学生時代、さらには社会を生きるうえでの「能力」にまで発展させてきました。
ここで言う「能力」とは、すぐに答えを出せる能力、すぐに理解でき、的確かつ迅速に問題に対処できる能力です。それはそれで素晴らしい能力だと思います。
しかし、コロナ禍のような「どうにも対処できない」、「先の見えない」、「混沌とした、不確実な」、「宙ぶらりんの中途半端」な状況に対しては、ほとんど無力です。
「すぐに答えを出せる能力」にたけた現代人たちは、こうした訳の分からない、手の下しようがない状況は、不愉快でしかありません。早々に浅はかさを承知した結論でお茶を濁してしまうか、早々に逃げ出したくなります。
でもどうでしょう。私たちの身の回りには、「どうにかなる」ものよりも、「どうにもならない」、「取り付く島さえない」ような状況の方が、はるかに多いのではないでしょうか。
こんな状況では、これまで述べてきたような「能力」とはまるで正反対の能力が必要とされるのです。それを精神科医の帚木蓬生氏は、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びました。
つまり、論理や思考に頼らない(頼れない)、どうにも変えることが出来ない、どうにも結論を出すことが出来ない、見守ることしかできない、そんな宙ぶらりんの不安定な状況を回避することなく、それに耐え得る能力。それがネガティブケイパビリティです。
例えば末期がんの患者さんがいるとします。
末期がんですから、もはや治療法はありません。患者さんは「苦しい、苦しい」とわめきます。痛み止めを点滴するも、吐き気がひどくて受け付けません。もはや手の施しようがないのです。
こうなると「迅速に問題を解決する能力」だけの医師にとって、どうにもならない患者さんの前では、苦痛のみを感じることになります。おそらく逃げ出したくなってしまうことでしょう。
現代の医療問題は、こんなところに端を発しているのかもしれません。
もし、ネガティブケイパビリティを身に着けた医師ならどうなるでしょう。
浅はかな答えに頼らず、宙ぶらりんの不安定な状況にあるがままの心で対峙するのみです。
誰でも一人で苦しむのは嫌なものです。そんな時主治医と患者の間で交わされる会話は、千鈞の重みをもつものになるのです。
医師だけでも自分の苦しみをわかってたくれる。見守ってくれている。そう思えるだけで、患者さんは救われるのではないでしょうか。
おっと、話が「コロナ禍」から随分飛躍しましたね。
昨日の話の続きになりますが、「人知を超えた大きな力」と同じ意味になると思いますが「サムシンググレート(命を生み出した偉大な存在)」と言う言葉を使って、遺伝学者の村上和男氏は、こんなメッセージを残していました。
「コロナウィルスを敵に回してはいけないよ。サムシンググレートは私たちの親だよ。親が私たちを苦しめるためだけに、コロナウィルスを用意するはずは、無いじゃないか。」
コロナを目の敵にするよりも、「なぜコロナが現れたのか」その大元の部分を見つめなおすことから始めたいものですね。そのヒントになるのが、いかに私たちは調和に欠けた生き方をしているのか、忘れかけていた大切なことを見直してみる時期ではなかろうか、そんなことを「サムシンググレート」は、私たちに期待しているのかもしれません。
参考・・・「コロナ禍を生きる」、「ネガティブケイパビリティ」、「サムシンググレート」