どうしよう! コロナ不安② | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

一見すると日本では、コロナ感染は小康状態のようにも見えますが、沖縄や東京でも感染者が100人を超えたという報道もあり、決して油断出来る状況ではありません。

しかし出来ることと言えばマスクを着用し、手洗いや消毒、不要な外出は出来る限り控え、三密を回避することくらいでしょうか。今まで以上に心がけていきたいですね。

 

 

さて、今回取り上げているのは、こうしたコロナ禍による心の不調です。感染者そのものよりも、コロナで心の健康を害した人の数の方がはるかに多いという指摘もなされています。いったいどうしたらよいのでしょう。

彼らの話を聴いていくと、ある共通した思いが隠されていることに気が付くのです。例えば「今までの価値観が通用しなくなった」ことに対する不満や不安、それは即「思い通りにならない」不満や不安に直結しているのです。

 

確かにコロナ前は、毎日会社に行って仕事をすることや、夜の飲み会、たまに旅行に出かけてリフレッシュすること、などは「当たり前」の事でした。しかしコロナ禍の現在では、これらは大きく制限されています。

なるほど、そういう理由でストレスを高めてしまったり、不満を増幅したりして、心の健康を害してしまうのですね。・・・

と、思わず納得しそうになります。しかしちょっと待ってくださいな。

「思い通りにならないことが増えてストレス」とありますが、コロナ前は何でも思い通りになっていたのでしょうか。そんなことはないはずです。この世はあなたのために作られたものでない以上、思い通りにならないことの方が圧倒的に多かったはずです。

 

それでも私たちは「何でも自分の思い通りになる」とか「現に私は自分の思った通りに会社を築き上げてきた」とおっしゃる方が多いのはなぜでしょう。例えば一代で会社を築き上げてきた社長さんなど、自分のやり方に絶対な自信を持っている方は、そう考えるかもしれません。

でも普通の人だって、ここまで何とかやってこれたのは、今までの自分の選択が間違っていなかったからだ。つまり、自分の思い通りに生きてこれたからこそ、今の私があるんだ。と考えるようです。

はっきり言います。これらは「思い上がり」以外の何物でもありません。こんな考え方をしていたら、思い通りにならなかったとき、ドーンと落ち込んでしまうでしょう。

 

 

アルコール依存症や、ある種の神経症者は、自分で何とかしようとしてますます泥沼に落ち込み、ついにどうにもならなくなって犯罪に走ったり、自死の道を選んだりしてしまいます。

自分で解決しよう。と言う考えは尊いものだと思います。しかしここにも『自分はやれば治せるはずだ』と言う思い上がりが見られます。もしこれで行き詰ってしまったとき、私たちはどのようにすればよいのでしょう。

一言で言うと、「無力な自分を自覚し、自力での解決を放棄すること」です。そうして自分以外の力「他人の力やハイヤーパワー」に自分を委ね切るのです。

 

私たちはこれまでの経験から、すべて自分の意志で選択し、行動しているように思っています。しかしこれは完全な思い上がりです。

こうした過剰な「思い上がり」がコロナのような「思い通りにならない、どうにもならない現実」に対する耐性を弱体化し、よりストレスフルになってしまうのです。

・・しかし、『自分以外の力』と言われても、ピンときませんね。

今皆さんは私のブログを読んでくださっています。なぜ私とあなたは出会うことが出来たのでしょう。もちろん「森田療法」を検索しているうちに、出会えたのかもしれません。しかし検索しても縁が無かったかもしれないのです。他のブロガーに勧められたのかもしれません。しかし誘われなかった可能性も大きいのです。

 

 

もし、あなたが「森田療法」を検索しなかったら?

もし、あなたが他の方に勧められなかったら?

そもそもあなたがブログをやっていなかったら?

それ以前に、あなたが心理療法に何の関心も無かったら?

出会えなかった可能性が高いですよね。私とあなたの出会いは、すべてお互いの意志ではありません。あなたが「ブログしてみたいな」と言う気持ちを起こさせたもの、「森田を検索してみようかな」と言う気持ちを起こさせたもの、これらは何者かわからないけど人知を超えた力によって、引き寄せられたとしか考えられません。

 

もしかすると私たちは自分で選択して行動したものなど、ほんのわずかなのかもしれないのです。それをいつもの癖で、何でも思い通りになるとして、「コロナ不安」を排除しようとするから、ますます苦しくなってしまうのです。そうではなくて、今私たちを覆っている「不本意な現実」に対して、「我がはからいにあらず」として、「どうにもならない」ものとして付き合っている方が、ずいぶん楽になれるのではないでしょう。

言葉を変えていうと、「諦める」ことかもしれないし、「コロナを受け入れる」ことなのかもしれません。

 

参考・・・「親鸞」、「コロナ不安に備える」