思春期から青年期・・② | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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思春期も後半になってくると、本当の友人を求めるようになってきます。自分の好き嫌い、例えば趣味しかり、進路しかり、生き方しかり・・がはっきりしてくるのですね。したがって友人にも求めるものが変わってくるのです。依存する部分も変わってくることでしょう。

それまではいろいろなことを合わせなければ友人としてやっていけない関係でした。しかしこれではお互いを束縛するだけです。

趣味や生き方が合わなくても良いんです。それでも分かり合える関係が望ましいのです。言ってみれば、表面的ではなく、心の奥底で結ばれている関係でしょうか。

両親には言えないようなことも、友人には打ち明けられます。本当の意味の信頼関係が芽生えてくるのです。

 

 

エリクソンの発達段階説では、青年期の危機は「アイデンティティの混乱」だと言っています。だから『自分は〇〇である』と思えるような「何か」をつかみ取るべきだと言っているのですね。

青年期は「自分とは何か」という本質的なところと同時に、他人との違いについても、目覚めてきます。つまり、アイデンティティの確立です。

自己を認識するのに必要なのは、自分を理解し、評価してくれる友人です。自分の個性を生かし、やりたいように振る舞いながらも、「君らしいね」と仲間から認められることで、「そうなんだ、自分はこういう人間なんだ」と自覚でき、自分らしく生きようとする力を獲得できるのです。

ちなみにお互いの個性や違いを認め合い、それでも仲良くやっていける付き合い方を、チャムグループに対し、ピアグループと言います。

 

大人の3条件と言うのがあります。

まずは「身体的成長」、次に「精神的成熟」、そして「社会的自立」です。

最初の「身体的成長」は問題ないでしょう。問題なのは残りの二つです。

青年期は未熟だけれど、向上心を秘めていると言いました。実際の青年は3条件に照らし合わせてみると、非常にアンバランスです。

エリクソンは青年期の危機として、アイデンティティの混乱と言いました。実際青年期は最も自我が分裂しやすい年代です。

「理想の自分」を作ったかと思うと、それに至らない現実の自分に失望し、劣等感を味わいます。同時にプライドを持つようにもなります。

 

背が低いことに悩んでいる男子がいました。家族も何となく察していたので、本人が傷つかなように、こっそりと「背が伸びる方法」と言うパンフレットを男子の机に置きました。

すると男子、それを喜ぶと思いきやも家族に向かって「お節介するんじゃねぇ!」と怒鳴り、そのパンフレットをビリビリに破いてしまったのです。

やはり本人が気にしていることは、本人が家族に言いだすまで待つことが大切ですよね。本人にもプライドがありますもの。

さて、その晩、くだんの男子は夜中こっそりゴミ箱に行き、そのパンフレットをつなぎ合わせたのだそうな。

 

 

近頃の青年は栄養状態が良いので、「身体的成長」は半端ありません。身長なんか一年で10センチ以上伸びるかもしれません。それと同様に思考力なども一年で10センチ以上伸びると考えた方がよさそうです。したがって考え方もころころ変わったりします。

「うるせえなぁ」は、「話を聴いているよ」の合図かもしれませんし、「勝手にしろ」は、「やってもいいよ」と言う合図かもしれません。

この時期の子供が良く屁理屈ばかり言うのも、思考力が発達したおかげです。決して反抗期に差し掛かったわけではありません。

 

しかし屁理屈は達者なものの、問題解決までは至りません。親の話の中の矛盾は指摘できるものの、ではどうすればよいか。と言うところまでは発達していないのです。

こういう子供に対しお母さんは、「また屁理屈ばかり言って!」と叱ります。けれどせっかく矛盾を指摘してくれたのですから、それを認め、褒めて差し上げたらいかがでしょうか。

 

母親に対し、何かと「うるせぇなぁ」と言う男子。そんな男子がクラブの先輩にすごまれて、すごすご帰ってきました。そこで母親への一言。

「かぁちゃん!」

自立できているときと、出来ていない時(依存)の落差が大きいんですね。

「かぁちゃん!」 「なんだい?」

「ううん、なんでもねぇ」

本当は不安な気持ちを母ちゃんに話したかったのだけれど、母ちゃんの顔を見たら落ち着いたんですね。

こういう子供には、こんな風に言ってあげてください。

「誰にも言わねぇから、私にできることがあったら、話してみな」