自分の限界を知れば・・ | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

最近神経質者の会でも、『理解しよう』とか『共感しよう』と言う呼びかけがなされる場合が多くなりました。勿論それ自体は素晴らしい事です。しかし症状に捉われている神経質者は自分の考えよりも他人や世間、常識などに依存した考え方をしているため、なかなか『理解』とか『共感』が難しいんです。

やはり自分の生き方や考え方をちゃんと自覚すること、つまり自分の足元をしっかり固め、自分の視点で他人を見ない限り、『理解』も『共感』もありえないと思います。

『他人が自分をどう評価するか』を考えるよりも、自分の中の自然な欲求をしっかり自覚できたとき、初めて他人の気持ちが理解出来るのです。そして共感も可能になるのです。

 

 

どうしても他人や世間に合わせてしまう。

『自分の感覚』よりも『人の意見』を尊重してしまう。と言うのは神経質の大きな特徴です。これで悩んでいる人も沢山おります。ここで言われる『人に合わせる』と言うのは、実は『他人を通した自分』を見ているに過ぎないのです。そういう意味では、

『人に合わせる』 = 『自己中心的』

なのですね。そこからの転換がなされない限り、『自分の本当の気持ち』はつかめません。逆に『自分の気持ち』がつかめてくると、それを人に伝えることで、自分は他の人と『違う』のか、『同じ』なのかと言う事が理解されてきます。そこで初めて『他人の気持ち』と言うのが見えてくるのです。

 

自分はこうしたい、

イヤなものはイヤ、

こんな風に、好き嫌いははっきりさせた方が良いのです。(ただし、是を押し通すのは違います)  自分の好き嫌いを知れば、

自分と意見が合う人とはすぐに打ち解け、肩の力を抜いて話し合えるでしょう。けれどイヤなやつとは付き合いたくありません。けれど仕事上必要があれば、イヤだけれども必要だから仕方なしに付き合う、と言う芸当も出来るわけです。私たちは大人ですからね。

これからは中高年こそ、自分の感覚や感性を磨きながら、生きていく事が必要となってきます。これが今まで言っていた『自分の欲望に乗った生き方』と言う事になるんです。

 

森田先生は、死を恐れないようにしようと言うはからい、それで苦しまれました。しかし私たちはどんなに長生きしようとも、いずれは死にます。つまり『限りある存在』です。

『死』と言うものは常に私たちに区切りを付けてくれるわけですから、恐れるのは当たり前ですよね。

『人は死を恐れるものである。』

と言うことをそのまま認めれば、自分は『限界のある存在』と言う事が理解されてきます。それが理解できれば、

『じゃあ、自分がやれる事をやるしかない』

と、覚悟が決まります。ここで初めて、今までのような行動ではなく、『自分の欲望に沿った行動』が出来るようになるのです。

 

 

森田療法では、行動が重要視されます。それは勿論大切なものなんですが、誤解されることもあります。

特に中高年における行動は、特に欲求、欲望に裏付けられたものであるべきなのです。それこそが『その人らしさ』、つまり『個性』となるからです。

この転換が行われず、今までのように他人や世間に合わせたり、ひたすら完全を求めていたりすると、個性は無くなります。

不安を打ち消そうとして、失敗しないようにはからう事は、その人らしさを失わせます。守りに入ってしまうんですね。

ただ周囲に戦々恐々とするばかりです。『その人らしさ』はまったく見えてきません。

 

つまり、自分の不安をどうするか、ばかりに気持ちが行ってしまいますと、『自分は意外と激しい気性である』とか、『強い達成欲求を持っている』と言う事が、まったく見えてこないのです。

したがって不安や抑うつと言う問題も、とにかく自分で背負うしか無いのです。不安を背負えたとき、自分のものとして引き受けたとき、初めて欲求や欲望が見えてくるのです。

勿論ここにいたるためにはある時期『一緒に歩いてくれる人』が必要です。それは家族かもしれませんし、友人かもしれません。神経質者の会の仲間かもしれません。

本来の自分が育ってくるまで、一緒に伴走してくれる人の存在が、神経質症の立ち直りにはとても重要になるのです。

 

参考・・・『中年期うつと森田療法』