みんな未熟者! | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

はい、それでは皆様のご期待にお答えして、再度U君の体験講話を掲載いたします。 ←誰も期待してないんだけど・・

 

U君もそうでした。神経質症状の強いときは、周りの様子を気にかけることや、対人的な配慮がほとんど出来ず、周りの人たちから顰蹙を買うこともしばしばです。ところが当人はそんな周囲のよそよそしさを、自分に対する非難、あてつけだと受け取ってしまうのです。自分の取った自分勝手な態度は棚に上げておいて。

 

 

このような心理状態を『差別観』と言いました。自分と他人は違う。自分だけ特別に劣っているのだ。自分の悲しみ、辛さなんて誰にもわかろうはずは無い。ああ、自分は一人ぽっちだ。誰も助けてくれない。私は不幸の星の下に生まれた哀れな存在なんだぁ・・

←てめぇのジコチューな態度を棚に上げといて、何抜かすねん(笑)!

ところが神経質症が良くなっていくにつれ、このような『差別観』少しずつ弱まってまいります。

 

その代わりに強くなってくるのが、『平等観』です。『平等観』とは、自分が辛い時は他人も辛い。自分が嬉しいときは他人も嬉しい。自分がして欲しくないことは、他人もして欲しくない。と言った普通の人が持っている当たり前の人間観のことなんです。

『差別観』とは、自分が辛いときは、他人は楽をしている。と言ったものですから、考え方がまったく逆になるわけですね。

 

『平等観』に目覚めると、自分も欠点だらけの人間で有るように、他人もまた欠点だらけの人間であることが理解できるのです。すると自分の欠点や弱点を隠したり防衛する必要が無くなるため、対人的緊張はずいぶん楽になると思われます。

これがもっと徹底してくれば、自分から進んで弱点や欠点をさらけ出すことが出来るようになります。ここまでになれば、すでにその人は対人恐怖とは言えないですよね。

 

U君もまた対人関係において赤面したり、緊張のあまりしどろもどろになってしまうのは自分だけだと考え(差別観)、その失態を出来るだけ他人に見せないように自己防衛していました。ですから対人場面になるとますます赤面や振るえを意識するようになり、結果として失態を皆に公表してしまうと言う悪循環に陥っていたのです。

そんな状況の中、神経質者の会の先輩のアドバイスどおり行動した結果。少しずつですが、『平等観』が芽生え始め、それに伴い少しずつですが、自分の赤面を受け入れられるようになってきたのです。

 

『差別観』とは、自分だけ劣っていると言った感覚で、一見『謙虚』な姿勢にも思えます。ところが反対なんです。とても『傲慢』で『自惚れた』態度なんですね。

それは無意識の中で、『自分は完全無欠のスーパーマンだ! だから自分にとって赤面だの緊張だのは、有ってはならないことなのだ』と考えているのです。だから赤面や緊張を感じる自分が受け入れられず、症状を何とかしようと焦りまくるのです。

 

 

『平等観』に目覚めたU君は、もう赤面が起きてもあわてません。しどろもどろになっても2~3度深呼吸をすれば落ち着きます。

なぜなら、そんなことで悩むのは自分だけではないことが理解できたからなんです。

人は、自分や他人の中に有る『欠点』や『弱点』を認めることによって、初めて『謙虚』な心が生まれるようですね。

『平等観』に気づくと、そんな『弱点』や『欠点』を持ちながら、曲がりなりにも人並みの人生を歩んでこられた自分自身を褒めてあげたくなるそうです。

 

自分を褒めると、ますます図に乗ってしまうのではないか。

と心配する向きも有るようです。けれど安心してください。

褒める対象を増やすと言うことは、自分の中の『プライド』と言うハードルを下げることです。具体的には自分の中の弱点を認めることですよね。ハードルを下げると言うことは、自分に課している要求水準を下げることです。弱点が有っても良いんです。そう考えれば、弱点を持ちながらも健気に生きている自分が、いとおしく思えてくるから不思議です。

 

自分をいくら褒めても、決して傲慢にはなりません。

むしろますます謙虚になり、より小さな幸せにも感謝できるような優しい人になれるのです。

信用できないかもしれませんね。

でも神経質者の会で回復した人を多く見ている私ですから、上記の内容に嘘偽りは無いと、自信を持ってお伝えできるのです。