僕を認めて!! | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

再度『自己受容』の話しに戻ります。

この記事は、出来れば自己肯定感の低い人に読んでもらいたいのですが、そういう人たちは幼いころから自己肯定感が低くなるような生き方が習慣づいていますから、その考え方を変えるのは、非常に難しいのです。

 

 

主な理由は今まで述べてきましたが、自己肯定感が低く、自己受容が出来ていない人は、自分の考えや感じ方が信頼できないので、勢い、他人や教条的なものを自分の考えとして摩り替えてしまうのです。もちろん本来の自分とはそぐわないものなので、心は常に不協和音を発しています。けれど心の安定を図るための良い方法を他に知らないのですね。

 

ですから、彼らにいくら『自己受容』してください。『あるがまま』に生きてください。と言ってもダメなんです。彼らの頭の中ではことごとく『自己受容するべきである』、『あるがままに生きるべきである。』という風に変換されてしまいます。そして、何とか理屈で自己受容しようと頑張ります。何とか意志の力で『有るがまま』になろうとします。けれどそれは不可能な事なんです。

 

なぜなら、『自己受容』しなければならない。

と考えること自体が、すでに『自己受容』していないのです。

『あるがまま』でなければならない。

と頑張ることは、すでに『あるがまま』から遠く離れているのです。

彼らに言葉で説明するのがいかに難しいか、お分かりいただけると思います。

 

 

仕方がないので、私はこのような説明の仕方をしています。

自分のあるがままの姿から、目を背けてしまうのなら、それも良い。

生きる力の強情なる事の、裏返しでも有るからだ。

自分がどうしても受け入れられないのなら、それで良い。

受け入れられないで苦しんでいる自分を、そのまま丸ごと受け入れれば良いだけの話しだ。

何か、分かったような分からない話しで恐縮です(笑)。

 

とは言うものの、やはり有る程度は自己肯定感を上げてもらわないと、いろいろな不具合が出てきてしまいます。

自己肯定感が低い人は、自分で自分が認められない分、他人からの承認欲求が異常に肥大してしまいます。

もちろん誰でも他者からの承認欲求は有るのですが、自己肯定感の低い人にとってそれは『渇望』と呼べるほど強烈なものになってしまうのです。

 

他人から有る程度認められていれば、曲がりなりにも生きていくことが出来るでしょう。しかしそれが満たされない場合、ますます自己肯定感が下がり、ますます他者の承認を欲しがるようになってきます。

しまいには、『自分の欲求を満たすには、他者からの承認だけが唯一の頼みである。』と言ったとんでもない認識を持つに至ってしまうのです。

神経質症でなくとも、このような人が多くなっているような気がしませんか?