儀式化とばかばかしさ | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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最初は、『玄関の鍵をかけ忘れたかもしれない、泥棒に入られてしまう』と言った具体的な不安に対処するために確認行動をしていたのだが、回数を繰り返すうちに、当初の目的を忘れ、ただ確認するための確認になってしまう。

 

これを『儀式化』と言う。もはや泥棒とか火事とかはどうでも良くなる。確認行為は、不安を紛らわすための儀式に成り下がってしまうのである。こうなると強迫行為にかける時間はますます長くなり、精神的にも肉体的にも疲れはててしまうのだ。

 

 

何も知らない人は、なぜそんなにも執拗に行為を繰り返すのかわからない。『考えなければいいのに』などとも平気で言う。そんなこと火を見るより明らかな事は、患者自身が一番良く知っている。

最もその行為を辞めたいと思っているのも、患者自身なのである。けれどその行為をやめることは、地獄に落ちるよりもはるかに苦しいことなのだ。

 

昨日も説明したとおり、強迫性障害の裏には、『自己防衛システム』が関与している。自分を守るためのシステムだから、行為をやめることは即"死"に繋がってしまうのだ。文字通り"必死"なのである。

 

だから周囲の対応の仕方も問題となる。

強迫行為を目撃すると、周囲の人はほぼ例外なく『そんな馬鹿な事はやめなさい』となる。だが自分の命がかかっいるのだ。

『辞めろと言われたら、ますます燃え上がる』

と言う歌もあった。周囲から静止されるほど、ますます行為をしたくなってしまうのだ。

 

周囲からいくら働きかけてもほぼムダである。

これは本人自身が自分の行為を如何にばかばかしく、如何に無意味なものであるかを悟らなければならないのである。

 

よく言われていることだが、『本人の気のすむまでやらせれば良い』と言った考え方がある。一理ありそうだが、これは危険だ。

本人が行為の必要性を確信している限り、行為はエンドレスとなる。

確認すればするほど心配になってくる。

と言うのが私達の心であるので、結果永遠に『気はすまなく』なってしまうのだ。

 

道路標識を何度も確認してしまうAさんに、さまざまなアドバイスがなされたが、そのうちのひとつに『標識をスマホで撮影すれば?』と言うのがあった。そうすればいちいち戻る必要も無いし、家に帰ってゆっくり確認することも出来る。なるほど名案である。私がこの意見を"良い"と思ったのには、もうひとつ理由がある。それは最後にお話しする。

 

 

『そんな馬鹿な事はやめなさい』と言ってまずいのなら、なんと言えばよいのか。こう言えば良いのではないか。

『もっもっと、確認を続けなさい!』

手洗いを繰り返す人には、

『もっとちゃんと手を洗いなさい!』

とやるのである。

少しでも休もうものなら、『なぜ休むんだよ!』と急き立て、確認行為や手洗いをやめさせないようにするのである。

 

そう言われると本人は、何となく確認や手洗いがむなしいものに思えてくるらしい。さらに自分の行為が愚かしく、ばかばかしいものと思えるようになってくる。そうなればしめたものだ。

標識確認組も、撮影した標識の写真がたまってくるにつれ、次第に空虚感とか無意味さに気づいてくるようになる。それが行為のばかばかしさに気づく糸口になるかもしれない。と踏んだからなのだ。

 

参考・・・『悩む人ほど強くなる』