寄り添うこと | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

月並みなタイトルでごめんなんしょ! ←反省してない。

さて、以前読んだ本の中で、『ビフォー・アフター理論』なるものがあった。どういうものかと言うと、有る出来事が起こる前と起こった後では、論旨を変えるべきだ。と言う主張のようであった。

 

 

たとえば、『自殺はいけない。』と言う主張が有る。

ところが自殺してしまった人に対して『自殺はいけない』と言ったところでどうにもならない。遺族の気持ちを逆なでするばかりだ。

では、どう言うべきか。

私なら『自殺してよかったですね』と言うかもしれない。

 

『本当に死ぬほどつらかったのでしょうね。今頃は仏様に出会って安らかに暮らしているかもしれませんね。本当に良かったです。』

と言っても勿論本人の耳には届かないが、遺族は慰められるのではないか。

 

不登校も同じ。

ちゃんと通えているうちは、『休まず学校に行きましょう』と言ったメッセージは有用だろう。しかし不登校や引きこもりになった後で、『休まず行きましょう』と言ったところで子供を傷つけるだけである。

こういうときは、『不登校になってよかったね』とか『しばらく引きこもっていようよ』で良いと思う。必要があってそうなった事であるから。

 

 

認知症も同様である。

誰でも認知症にはなりたくない。だから認知症になる前の論理(ビフォー論理)で対応してしまいがちなのだ。

この論理で対応すると、どうしても『認知症は良くないもの』、『物忘れは改善すべきもの』と言う前提で、患者と接することになる。

これでは患者は追い込まれるばかりである。

 

だが、認知症になってしまってから、『認知症にならないように』とか、『物忘れを防ごう』と言っても意味は無いのだ。

ならば、認知症を受け入れた上で、その日その日を楽しく過ごせるよう支援していく事が、もっとも大切な事ではなかろうか。

 

誤解を恐れずに言うと、患者本人も介護する側も、『認知症になってよかったね』と思える支援こそが、本当の意味で患者の立場に立った『寄り添う介護』なのではないかと思うのだ。

 

参考・・・『死に方上手』