薬が売れないのにつぶれない薬局? | 神経質逍遥(神経質礼賛ブログ)

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何のとりえもない平凡で臆病者の神経質者が語る森田的生き方ブログです。

「たーちゃんおはよ! あら、学校はどうしたの?」

「・・・なんか頭痛くて・・・」

「あららどうしたのかな? おかぜ? ちょっと見せて・・・お熱はないみたいだねぇ」

「じつはおばさん、ぼく・・・いじめられてるんだぁ、だから本当は学校には行きたくないの・・・」

「そうだったの、私もちいちゃい頃は良くいじめられていたのよ」 


私が子供の頃、近所に小さい薬局がありました。学校の行き帰りいつもその店の前を通っているうち、いつしか店の方と顔なじみになりました。とくにおばさん(たぶん30代だったはずですが、子供の私にとってはずいぶん大人に思えた)とは親しくなり、薬を買うというより話を聞いてほしくて良くその店を訪れたものです。

その恩恵にあずかっていたのは私だけでなく、ほかの同級生何人かもお世話になっていたらしく、たまに店内で友人と遭遇することもありました。なぜか罰が悪かった思い出が残っています。

薬局2


あれから40年以上の歳月が流れました。

かつての通学路の商店街はほとんどが閉店し、いわゆる「シャッター通り」となってしまいました。にぎわっていたその道も大手のデパートが撤退してから急に寂れてしまい、平日などほとんど人通りも途絶えています。ところがそんな中でも件の薬局だけはしっかりと営業を続けています。

今では息子さんに店の切り盛りを任せていますが、かつてのおばさん(今は本当のおばあさん)も健在で、主に来客の健康相談などに応じ、時には薬の調合なども行っているようでした。


経営は火の車だそうです。何せ来客はひところの10分の1。薬局なのに市販の薬はほとんど売れないようです。一日まったく在庫が減らないときもあるといいます。何せ仕入値段よりも安い価格で大手のドラッグストアが安売りをしているので、細々と小売を続けているような弱小薬局ではとても太刀打ちできないそうです。

では、薬がほとんど売れないのに何故存続できているのでしょうか。

その要因の一つが例のおばあさんにあるような気がしてならないのです。


お店には古くからの常連客がやってきます。最近は年のせいで新たに漢方のお客さんは取らなくなりましたが、おばあさんの処方は慢性疾患に良く効き、「やっぱりここの薬でないとだめだ」という長年の熱心な常連客に支えられているのです。その中には学校の行き帰りにお店によって話を聞いてもらったかつての悪ガキたちも含まれています。

お客さんは確かに薬を求めて薬局にやってきます。しかしそれだけではないようです。

おばあさんはどんなに忙しくてもそれを顔に出さず、お客さんが話をしたいと言われたときにはきちんと対座して、あれこれと話を聞いていたのです。


薬局1


もちろん症状や病気、痛みに対する不安、恐怖。そればかりではありません。家庭や職場の不満、愚痴、人間関係の軋轢、嫁と姑の問題、あるいはかつての私のように、いじめ、学校や勉強の問題など。まさに人の数だけ、おばあさんに聞いてほしいこと、話したいことがあったわけです。

これは薬局と言う商売柄、お客さんの症状を正確に聞き取らないと、その人に体質にあった薬剤を選択できず、ひいては薬効につながらない薬剤を調合してしまうと言うことから、お客さんの話を聞くということ商売上必要なこととして培われてきたのかもしれません。


しかしこれだけでは、たくさん話をしてその店で市販薬を買って嬉しそうに店を出て行くお客さんの姿は、単に商売上の理由だけで説明がつくとは思えません。

お客さんは、話をするためにこの店を訪れているのです。そして薬を飲む前に、すでにおばあさんの暖かさによって癒されているのです。つまりおばあさんの癒しの効果とその人にあった調合薬剤のダブル効果をお客さんたちは体験しているのです。

話を親身になって聴いてくれる人が居るからこそ、大手のドラッグストアには真似の出来ない、このような芸当が可能になるものと思うんです。


これが『傾聴』のあるべき姿ではないでしょうか。

かつておばさんに癒された恩返しが少しでも出来るように、私もこれから傾聴の勉強に行ってまいります。

それでは!


参考・・・傾聴力(大和書房)