2023.05.02 小田原・熱海1泊2日旅行:難攻不落の小田原城① | Wuxi-chanの雑記note "~なるようになるさ~(「無錫note」から変更)

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2018年1月に20数年勤めてきた会社を辞め、翌2月に無錫での生活へ。ここでの生活、自分専用のノートとして書き留めることにしました。

2020年1月末、春節で一時帰国から本帰国となる。
5月末に本帰国辞令。9月末に主人が帰国となる。2021年から日本で新生活をスタート。

 
 
5月2日(火)
 
ゴールデンウイーク、どこに行くのか?
 
旦那さんからの候補で、
  1. 小田原・熱海
  2. 那智勝浦(那智の滝・那智大社)
  3. 伊豆?
の3つ候補。3つ目の候補は覚えておらず、長野・善光寺、北陸方面も候補に挙がっていたので記憶が定かではない。
 
 
5月2日から1泊2日の小田原・熱海旅行。
 
ゴールデンウイーク前半のため新幹線は空いていた。
 
旦那さんが予めネット予約した新幹線チット。これをトイカと紐づけ。
 
トイカを改札で翳すとチケットが出てくる
 

 

イラスト:プリプラさんによるイラストAC

 

 

 

荷物(スーツケース)は、4月29日にヤマト運輸にてホテルに配送済なので、リュックのみで移動。

 

 

 

10:38
小田原駅

 

 
 
駅前には「蒲鉾鈴廣」さんの店舗がある。
 

 

日向屋敷(ひゅうがやしき)

 


地名の由来は、慶長19年(1614)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。
江戸時代末期には約十四軒の藩士の住まいがあった。

 

 

 

ミナカ小田原

 

 
 
ここは、あとで寄ることに。
 
 
 
おっと、足元を見ると、
 
 
可愛らしい標示が。
 
 
 
ちなみに小田原市のマンホールは
 

 

 

 

藪幸田(やぶこうだ)

 


この地名は、小田原北条氏時代、
北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。
下幸田(しもこうだ)上幸田(うわこうだ)の両方に位置し、幕末には藩士の住まいが十六軒あった。
 
 
実はこのような石碑がいたるところにあり、歴史を感じる街。
 
 
 
 
 
小田原御用邸は、小田原城の二の丸御殿跡に明治34(1901)年、創設された。現在の「二の丸広場」にあたる。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で大破し、昭和5年に廃止された。
 

 

 学橋

 

小田原城址公園のお堀にかかる赤い「学び橋」は、市民のシンボル的存在。

この橋が最初にできたのは昭和4(1929)年のこと。市立の城内小学校が二の丸に移転した際に竣工した。城址公園内の二の丸広場に平成4年まであった城内小学校への通学橋として利用されていたことから、「学橋」と名付けられた。

 

 

 

 

 

10:50

 

  小田原城

 

小田原城は、戦国時代には小田原北条氏による関東支配の中心拠点として、拡大を続け、戦国時代末期には日本最大規模の城郭となりました。江戸時代には、近世城郭として生まれ変わり、江戸幕府の西の守りを固める防衛上の要衝として、また、幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担いました。

明治時代になると廃城となり、大正12年(1923)の関東大震災では壊滅的な被害を受け、一部の堀などは埋め立てられました。
(市のホームページより拝借)
 
 
 
 

 

 馬出門

(うまだしもん)

 
馬出門は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門で、二つの門には、控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。
馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます(平成21年復元)
 
 
 
馬出門:高さ約6.3m、幅約4.7m
内冠木門:高さ約5.3m、幅約3.6m
土塀:高さ約2.7m、地上高約4.3m、延長約88m
桝形内部:約500平方メートル
前庭部:約700平方メートル
 
 
 
 
 

 

 内冠木門

 

 

 

 
 

 

 住吉橋 

 

 
江戸時代に整備された二の丸と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間の住吉濠に架かる。
 
 
史料に初めて現れるのは1644年~1645年頃に記されたと考えられる小田原城絵図「正保図」で、当初は木橋であった。その後1672年(寛文12年)に石垣のかさ上げが行われ、1703年(元禄16年、元禄地震)・1843年(天保14年)・1853年(嘉永6年、嘉永小田原地震)には地震に見舞われており、修理あるいは架け替えが行われたと考えられる。
 
1901年から1923年にかけては御用邸として使われ、宮内庁の図面にも土橋の様子が記されているが、1923年の関東大震災で崩落した石垣とともに埋め立てられた。
 
 
 
 

翌日にお祭りがあるなんて全く知らなかったので。2日に来館してよかったと思った。

 

 

 
 
 
 

 

 銅門

(あかがねもん)

 
銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。
 
 
現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
 
 
 
見上げてごらん~
 
 
 
石落とし!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 

 

 

 

 施設情報

小田原城

住所 : 神奈川県小田原市城内6-1
電話番号 : 0465-22-3818
開館時間 : 午前9時から午後5時
休館日 : 12月第2水曜、12月31日~1月1日
入館料 : 一般510円 / 小・中学生200円
常盤木門SAMURAI館: 200円 / 60円
NINJA館(歴史見聞館): 310円 / 100円
2館共通券(天守閣・SAMURAI館): 610円  /  220円
 

 
 
 
 
 
再见!