2019.08.03 蘇州No.2_北寺塔② | Wuxi-chanの雑記note "~なるようになるさ~(「無錫note」から変更)

Wuxi-chanの雑記note "~なるようになるさ~(「無錫note」から変更)

2018年1月に20数年勤めてきた会社を辞め、翌2月に無錫での生活へ。ここでの生活、自分専用のノートとして書き留めることにしました。

2020年1月末、春節で一時帰国から本帰国となる。
5月末に本帰国辞令。9月末に主人が帰国となる。2021年から日本で新生活をスタート。

 
8月3日(土)
No.2
 
※百度翻訳を使って翻訳しているため、解釈が間違っているかも知れません
 
 
◆ 七佛殿
 
 
 
七仏殿(元大殿と略称する)は康熙十年( 1671年)、光绪 33年( 1907年)に再建されている。
 
 
 
 
◆ 张士诚记功碑
 
張士誠( zhāng shì chéng :  ちょう しせい )( 1321年~ 1367年)は、元代末に泰州白駒場(現在の江蘇省塩城市大豊区)の人で、
製塩場の一つ白駒(はっく)場に籍を置く塩の仲買人の出身。
13年( 1353年)まで塩丁(えんてい)を率いて泰州・高郵(こうゆう)を攻略し,張士誠は「誠王」と称し、国名を「大周」と号した。
次いで同 16年には江南に進出し平江府(現在の江蘇省蘇州)を占領し、隆平府と改めて、国都に定めた。平江府を隆平府と改め、呉王と名乗った。後は元朝に降参し、至正 26年( 1366年)から翌年にかけては朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)により落とされ、張士誠は縊死(いし)した。享年 47
 
張士誠紀功碑は、名陵平の像碑、張呉王紀功の画像石刻であり、また報恩寺の石造像とも呼ばれ、石家堂と俗称されている。
 
石碑の高さは 3.06メートルで、幅は 1.46メートルで、厚さは 0.4メートル
 
 
 
◆ 観音殿(俗称、楠木観音殿)
 
 
内の柱はすべてクスノキを使っているため、俗称の“クスノキ観音殿”。現殿は明万暦二十九年(1601年)に建てられた。
 
 
 
 
 
 
 
8体の仏様が鎮座している
 
 
 
◆ 盛世滋生图
 
 
報恩寺塔の観音殿の南側には長い回廊があり、巨大な漆彫刻「姑苏繁华图」は「盛世滋生図」としても知られている。
全長 32メートル、高さ 2メートルで、清代の「乾隆盛世」蘇州の繁華を再現している
「姑苏繁华图」は蘇州呉県の出身の画家、徐 揚によって、清朝乾隆年間、蘇州古城区の西半分と城西、城の西北にある蘇州の庶民の日常生活を描かれている。
 
 
 
 
 
 
 
中文名称 : 报恩寺塔
住所 : 江苏省苏州市姑苏区人民路 1918号
 
 
 
 

 

 

 

再见