表演会
かなり更新サボってました(^^;
表演会が無事終了しました♪
朝、会場に行くと、会員の大半は既に来ていて、何かと準備をしていた。
私も、荷物を置くと、準備を手伝うことに。
次第に会場がそれらしくなっていく。
準備が終わると、午前の部が始まる。
師匠による開会の挨拶に始まり、午前中は、師匠による太極拳の推手の講習会であった。
会員はもちろん、一般参加が可能とあって、たくさんの人が参加されていた。
ビデオを回す事になっていた私は、ビデオカメラをセットし、視点を固定すると、途中から講習会に参加。
推手は、太極拳の、武術としての攻防を学ぶ上で欠かすことのできない練習である。
相手の攻撃を、いかに無力化するか・・・ただ受け流すだけではなく、相手の力を利用して攻撃をする、
と言った事までを明快に説明していく。
普段から練習している会員でもうまくできないのに、一般参加の人は戸惑うばかり。
それでも、師匠自らが参加者の間を回って、直に手を取って誘導していくと、面白いように相手が崩れて
いく・・・・・・普段見慣れていても、やっぱり魔法のように見えるのだ♪
内容は高度であっても、独特の語り口で、的確な指導をしていく師匠に、次第に参加者も練習を楽しむよ
うになっていく。
当初予定していた一時間など、あっという間に過ぎてしまった。
次は、太極拳の剣の講習会だった。
こちらは、やはり太極拳の指導員をなさっている、師匠の奥様が担当されていた。
こちらも、多数の参加者があり、和やかなムードで進められた・・・・・と思う。
・・・・・・残念ながら、午後の表演会に向けて、カメラのセッティング等の段取りがあり、私は参加できませ
んでしたので(^^;
こうして、午前中の2本の講習会は、大盛況のうちに終了したのだった。
(表演会の模様は、後日・・・・・・)
見え方
表演会に向けて、ぼちぼち練習していますよ。
表演とは、もちろん、人に見せるためにやるのだ。
かっこよく見せるために、余分な動きを付ける事は、もちろんNGだが、見た目は重要である。
見た目といえば。
人から見てどうか、と言うか、自分の動きが「人にどう見えているか」は、対人においても重要ではないか?
相手が、万全の体勢にある場合、そのままでは有効な攻撃を加えることは難しい。
そこで、フェイントを掛けたりして、相手を揺さぶるわけである。
例えば、左のロングフックを打つと見せかけて相手の注意を顔面に集中させて、左ボディに一発叩き込む作戦に出たとする。
この場合、自分が仕掛けることによって「ああ、コイツは左で顔を殴ってくるんだな」と思ってくれなければ意味が無い。
相手が反応しないフェイクは、ただの無駄な動きである。
逆に言えば、実際に手を出そうが出すまいが、相手が自分の期待通りに反応さえしてくれればいいのだ。
そう、自分の動きがそう見えれば目的は達成である。
この例では、攻撃に関して言及してみた。
防御に関しても同様で、逃げていると見せかけて、相手の打ち気を誘ったり、右にかわすと見せかけて左へ・・・・組立て次第で、攻防の幅が広がっていく。
そう考えると、攻防の際に、自分をどう見せるか、どう見られてるか、は重要な気がしてくるのだった。
散手
表演会まで日にちがない(^^;
実は、あとひとつネックになってるものがありまして・・・
散手
まあ、一般的には組手とかスパーリングとか言うんでしょうけど。
うちの会のセオリーに従って、攻防を行うというもので、中国武術の打撃系競技としての「散打」と区別する意味もあってか、もっぱら「散手」と呼んでいます。
(他の団体の事はあまり知らないので・・・・・)
今回は、”攻撃”・”防御”に分かれ、互いの技術を評価する、という形式になってまして。
途中で攻守交替して、それぞれ1分づつ行うらしい。
まずは「塔手」と呼ばれる、互いに右手を差し出し、手の甲を合わせた状態から開始する。
攻撃側は「開門」・・・つまり、相手の、両腕(場合によっては足も)による防御をいかにかいくぐり、もしくは無効化するかの技量が評価される。
防御側は、相手の攻撃をいかに無効化するかがポイントである。
開始姿勢だけが限定されているだけで、以降は足を使っての移動もOKである。
ネックなのは、「殴り合いではない」点。
うちの会での応敵の目的は、敵の「破壊」ではなく「制御」である。
「殴って勝つ」ではダメで、「殴る前に勝負は決している」状態を最上とするのである。
師匠に言わせると「隙は作るもんだ。初めから在る隙は、ワナだと思え」となる。
サッカーに例えると、開いてるから打つ、という行為は、キーパーが自陣のペナルティエリアから相手ゴールにシュートするようなもの、だそうだ。
相手のレベルが低ければ成功するかもしれないが、お互いの技量が上がってくると、文字通りカウンターを食らう危険が少なからず存在する。
そうした危険を回避するために、相手との接触点から相手に干渉し、相手を崩し、行動を制約し、相手を「攻撃不能・回避不能」の状態に追い詰める、そういう技術を身につけろ、と。
「殴り合い」に慣れた私の頭は、切り替えにかなりの時間を要しそうである(^^;
荒療治
日々の練習も充実はしているのだが、日にちが無い。
表演会はもうすぐである。
・・・・・・念のため申し上げると、表演会の企画、参加意思の有無等は、去年のうちに既に話は頂いていた。
その際、表演する拳種・套路も決めた。
練習してないのは、おいらのせいさ♪
いや、開き直ってもしょうがないので、自分の今の動きをチェックすることに。
鏡で見ても何かしっくりこないから・・・・・・・ビデオだな・・・。
日ごろ能天気な私も、アレは嫌なものである。
何が嫌かって、下手なのがバレるから・・・誰に? もちろん、自分に。
認めたくないだけかYO!!
その通りです(^^;
私が今回表演するのは、陳家太極拳(簡易式)と、小八極拳。
両方撮って、さあ、確認・・・・・・
!!!((( ゚Д゚)))!!!
・・・・・よくわかった^^;
まあ、努力はするが、なるようにしかならないな(苦笑)
唯一の救いは、団体表演じゃなさそうなコト。
ひとりなら・・・・・・。
さー、練習だ♪
表演会
今度、うちの会の主催で、表演会を開催するらしい。
日にちは決まってる。
自分も、出ることになっている。
・・・・・正直、実感が無い。
人前で表演することは、これまであまり考えてこなかったので、そういうことになっても、そのためになにをしよう、という考えが浮かばないのだ。
日程? 2月12日。
一ヶ月無いんだYO!!
師匠は、武術に対して、飽くまで「実用」を強調するスタンスを崩すことは無い。
その中で、型に対する姿勢は、ひときわ厳しいものがあり、師範代といえど、手放しでほめられることは殆ど無いといった有様である。一般の我々など、言わずもがな、である^^;
師匠は常に、型の動作には「機能美」が備わってしかるべきと、指導の際に口にしている。
例えば、人を斬る為に創り出された日本刀の、芸術的とも言うべき美しさ。
そういうものが、優れた武術にはすべからく備わっていると。
それを学ぶ者は、そういったモノも身につけるように努力すべきだ、と。
今回の表演会においては、各々の動作を衆目に晒すことによって、武術というモノを知ってもらう、と同時に、型をやることに対する”緊張感”を、学生各人に持ってもらう、という目的がある。
・・・・・私見ですが。
以前、自分の型をビデオに撮って、自分で見た時のショックは今も忘れていない。
今度の表演会では、あんなモノをお見せするワケにはいかない(;´Д`)
そのためには。
師匠の動作をよく見る。
師匠の動作の通りに動く、動けているか、常に確認しながら、型を練る。
・・・・・なんだ、いつもやれって言われてる事じゃないか。
護身
急に、殴られる。
突然、刺される。
いきなり、撃たれる。
近年、冗談ではなく、身近なものになりつつある、危険な状況。
自分の身は自分で守りましょう、というのか、そういった話題が後を絶たない。
そういえば、最近、護身術の講習会を学校主体で行った、という話をあまり聞かないな。
あまりに一般的になったんで、話題性に乏しいからなのか、または、個人で個人に対する”護身術”なるものに期待できない状況になってきたのか。
・・・・・・後者だったら、寂しい話である。
師匠は時々、護身術の話をする。
殴ってきたり。
蹴ってきたり。
自分が座ってるところに襲ってきたり。
相手も、二人だったり三人だったり。
実にさまざまな状況を設定し、身を守る練習をしていく。
さまざまな方向、角度、武器での攻撃を体験していく(勿論、手加減してである)
いろいろやるが、ひとつひとつにそれほど時間をかけない。
一人ひとりにアドバイスをしながら、でも、一つの技に多くの時間を割くことはない。
師匠は言う。
「例えば、ナイフで切ってくる奴を捌いてやっつける技があるとするだろ。」
「1日100回練習して、一週間でできるようになるとするわな。」
「そのときに、通り魔が来てナイフで突かれて刺されました、と。」
「それじゃあダメなんで、突いてくる奴捌くのを1日100回やりましょうか、と。」
「・・・・時間がいくらあってもたりないだろ?」
要するに。
相手がこう来たら、こうする」的な発想では、状況が複雑になりすぎてどうしようもなくなってしまう。
まずは、相手が何かしてきたときに、反応できる体を作る(反射とは違う)。
相手の攻撃をよける。(逃げるのとは違う・・・”避ける”より”除ける”と言った方がしっくりきそうな気もする)
だから、やること全て”体作り”と”脳のキャパシティを増やす”ことなんだそうだ。
師匠に言わせると、理屈は単純だそうである。
・・・・・・そんなに単純にできれば、誰も苦労はしないのだが・・・・・・。
武術と格闘技
今日、師匠が、型を「人に見せる」事について話してくれた。
実は、とても珍しいことなのだ。
うちの会は、中国武術を練習しているけれども、いわゆる「表演」を目的としているわけではなく、まして、師匠は表演するのが好きではない。
もっとも、型稽古を否定しているわけでも、師匠が型が嫌いなわけでもない。
むしろ、「学ぶべきは全て型の中にある」というスタンスで研鑽を積み、学生にも型の重要性については折に触れて説いてきている。
指導の際には自ら率先して動作を実演する。模範として演じる型は大変見事である。
それでも、型を”見せる”ということについて言及されることはあまりないのだった。
本来、武術は人に見せるものではない。
この点が、一般の格闘技と異なる点であると思う。
「格闘技には、観客が必要である。」
これは、私個人の意見であるが、それほど的外れではないと思っている。
観客を意識しているからこそ、ルールを設け、危険な技を廃して、スポーツとしての発展をしていく。
(スポーツだから甘い、武術だから実践的であるといった議論は、よくある話だが、あまり意味がないと思う。最近、優れた身体操作法としての古武術が注目されつつあるが、いわゆるスポーツ格闘技に勝てない武術家が数多くいることも事実なのだ)
そこには、やはり”見せる”ことが前提条件としてあるように思えるのだ。
その価値観は、実践する側ではなく、見る側のニーズに左右される。グレーシー柔術が「あんなのは技とは呼べない」と非難されていたのはそんなに昔の話ではない。
見る側のニーズで、ルールが決まる。ルールが、技を作る。
話を戻して・・・・
武術は、人に見せなくてもいい。というか、見せないほうがよい。
何故なら、相手が知らない技は良く掛かるから。
言い換えると、技を知られると、対応されてしまうから。
したがって、流派毎に門外不出の「秘伝」がある。必殺技のことですな。
必殺技とは、効果が大きい技、というわけでなく、掛けた相手は殺しておかないと技がバレる、という意味もある(と思う)
そんな技を、どうやって練習するのか。
まさか、練習の度に人を殺すわけにも行かない。
そこで、個々の技と、流派毎の理合を、一人で練習可能なように、一連の動作にまとめた。
危険な技を、「安全に」習得できるように考案されたシステム。
それが、型である。
型であれば、一人で練習できる。
流派の理合の体現であるから、見る人が見れば練習の成果が一目でわかる。
ひいては、他流派の型であっても、その動きを見れば相手の実力をある程度推測できるのだ。
これで、技を比べる際に、いちいち人が死んだり、怪我をしたりしなくてすむ。
ところが。
型を見せ合う、そしてそれに優劣をつける、ということになると、若干話が変わってくる。
客観的な指標に基づいて、優劣を判定する。公平を期すため、審判が必要になってくる。
そう、「観客」が存在するようになるのだ。審判も、ある意味”観客”である。
判定を、「観客」にも納得させなればならない。自然、採点基準もより”わかりやすいもの”へと変化していく。
表面的な力強さ、すばやさ、大きな動作、高い跳躍・・・・・・・・時には、採点基準に合わせて型を改変することさえある。
採点基準・・・ルールが、型を作る。それは、スポーツの発想である。
師匠は、そうした、表演についてのあれこれをよく知っているからこそ、表演について公の場で口にしないのだと、私は個人的に解釈していた。
その師匠が、表演について語る・・・・最初は不思議だった。
でも、指導にかけては無駄なことは言わない(冗談は満載なのだが・・・・)師匠のこと、ちゃんと目的があってのことだった・・・・・・。
腕立て・・・伏せない
自宅にて練習。
元来、うちの師匠は家での練習は「やりすぎるな」といいます。
中国武術の場合、フォームによって大きな力が出せるようになっています。
(他を知らないので、こういう表現になってしまいます・・・)
その分、姿勢、動作の軌道、タイミング・・・・全てが恐ろしく厳格なんです。
よって、理解の浅いうちにやりこみすぎると、余計な”クセ”がついて、かえって良くない・・・・
そう言われます。
師匠の動きを見て、直にチェックが入る環境下・・・つまり、練習会でやるようにした方がよい、と。
モチロン、順番を忘れない為、程度の練習すら否定している訳ではないですが。
当然、本やビデオでの「独習」は論外、が師匠の持論です。
(最近、その辺はようやく分かってきました・・・・^^;)
で、今日のメニューは
腕立て
・・・・伏せません。
ただ、開始姿勢のまま、じっとしているだけ。5分ほど。
これが、結構キツイ。
いや、単に私がへタレなだけかも知れませんが・・・・よかったら、お試しあれ。
この間、師匠に教わったこと。
人間、余裕がなくなると、周りが見えなくなる、と言います。
気持ち的な問題でそうなる、ってばかりでなく、ホントに見えなくなるんです。
普通、人間は、たとえば会話をしているときなんかでも、眼球が絶えず動いています。
それが、気持ちに余裕の無くなった人は、眼球の動きが極端に少なくなるそうです。
だからと言って、一点を注視している訳ではなくて、いわゆる”ボーっと”見てるんだそう。
そうやって、脳に入ってくる情報を無意識にシャットアウトするんですね。
そうなると、脳の情報処理の量が減るので、最終的に「考えなく」なるんですって。
私が、ごく個人的なゴタゴタで師匠に相談に伺ったとき、そういわれました。
そのときに教わった、訓練法を紹介しますね。
1.両手を、視界の両端にそれぞれ入るように広げます。手は開いて、指も、お互い離します。
2.頭を動かさずに、目だけで、五本の指を、右親指→左親指→右人差し指・・・・・と言うように
交互に見ていきます。
3.小指まで行ったら、逆の順序で親指まで見ていきます。
慣れてきたら、たとえば左手側は親指に固定して、右手を親指~小指まで、とか、色々バリエー
ションを加えてやってみるのもよいとか。
とにかく、左右交互に見ることで、目の筋肉を動かす癖をつける。
私は、最初にやってみた時、指を個別に見ることが出来ませんでしたorz
おまけに、やった後猛烈に眠気が・・・・(^^;
でも、風呂に入った時なんかにやってみると、目の疲れがとれる気がします。
一度、試してみては如何・・・・・?
頑張れ・・・って
私の師匠は、会員から月謝を受け取る時、いつも
「頑張ってね♪」
と声をかけています。
先日、新入会員から最初に月謝を受け取る時、同じように「頑張ってね♪」と声をかけ、
その後、続けて
「頑張ってね♪ って言うのは、頑張って来てねって言う意味だからね。
練習は、楽しんでってくれればいいから。練習、頑張ると続かないからね~」
と言ってるのが聞こえました。
何事も、楽しむ。
人間の幅を広げる。
それらが、武術の上達にも結びつく。そう、師匠は教えてくれます。