白熊猫武館 -2ページ目

武術は・・・

入れ込み過ぎるな、とよく言われます。

師匠は、そんな時、風呂に例えます。


 熱すぎると、入れない。


 ぬるすぎると、やっぱり入れない。


ちょうど「いい加減」のところがよいのだ、と。

物凄く熱心に、それこそ全身全霊をかけて稽古していた人が、急にふっと来なくなることがよく有るそうです。

それよりは、程よく、長く続けていってほしいと、そのほうがよい、と。


だから師匠は”拳法バカ”があまり好きでは有りません。

趣味の中軸に置くのはいい、でも”それ”が無くなったら何にも無い、という人間になるな、と言ってます。



人生も同じかもしれませんね。




乱戦(過去の記事⑧)

1対多数。

複数対複数。


どちらも、武道・格闘技の世界であまりお目に掛かることはないシチュエーションではないだろうか。
1部の武道などで「多人数取り」を行うことはあるが、今回師匠が教えてくれた事は、もう少し広い状況設定がなされた。

もともと、複数の攻撃を捌く・捌きながら崩す・攻撃する等の練習は日常的に行ってはきている。
大体2人~4人を相手に、攻防を行う。
攻めるほう(人数の多いほう)は、攻撃のスピードこそ1/2程度に落とすものの、背後からの攻撃もアリ、同時攻撃もアリ、という条件である。
やってみると分かるが、1対1とはかなり違ったノウハウが必要になる。



今回違った点は、”複数対複数”つまり、「自分にも味方がいる」点。


・・・説明しにくいが、近いシチュエーションとしては

6畳位のスペースで5組一斉に自由組手

かな。
隣の人にぶつかったらスミマセン、ではなくて、ぶつからないようにやる。
または、ぶつかってくる人に攻撃しても可(^^)

・・・・実際には、もっと条件は限定されてるし、攻撃のスピードも半分くらいに落とすのは前述と同じ。
攻守共、”力任せ”は厳禁である。


師匠が、いろいろな条件を指示。
・全員が1点に向かっていく(各自、すり抜けて反対側へ)
・5対5で、決められた陣地を守る/突破する
・周りを囲んでフクロ

等。


どの条件下でも、彼我の人数は同数なのであるが、必ずしも「1対1×5」にはならないのだ。
あるときは一人に2~3人つく場合もあり、逆にあぶれる人も出たりする。
ここでも、また”1対多数”とも違ったノウハウがあるようである。

最初は戸惑うものの、皆それなりに慣れていくのが面白かった。




ビデオ撮影②(過去の記事⑦)

自分の動きをビデオで見る・・・・・。
いやー。あんなにイメージと違うとは思わなかった(^^;


まず、開始姿勢。


ただ立つだけなのに、なぜか格好が悪い。
師匠の動きは見てる。その通りにやってるつもりなのに・・・・なぜだ?



うちでは、套路はゆっくり練る。その分、動作のアラが良く判るのだ。

一つ一つの動作。どこか違う。
もちろん、明確に、ここが違う、 といえる部分もたくさんある。しかし・・・・・
バラバラなのだ。足・腰・胴・腕・・・・各部が、一致して動いていない。だから、格好が悪い。
巧い人が型を練る時、やはりその型は美しい。機能美、というべきか、とにかく格好良いのだ。

ひとつの技から次の技に移るとき(過渡式という)、技の終わりには身体の全ての部分の動作が完了していなくてはならない。
ところが、動作の協調が間に合わず、遅れてついてくる部分がある。
または、動作の最中にそのタイムラグに気付き、無意識に動作のタイミングを調整していたり・・・・
以前、私が型を練っているときに「手探りでやっているように見える」といわれたことがある。

そうか、こういうことか・・・・。

確かに、武術の体系には内観とか、内功とか、自分の内面に注目した訓練法もあるにはある。
しかし、そういうことは、型の要求をあるレベルまで満たした上で意識すべきことと思っている。
だから、師匠の動きをトレースする段階で、そういった意識は上達を阻害するものといえる。



そんなことより・・・・・・・・



見ているうちに、気がついた。
ある種の、緊張感・・・・・なにか、目的を持って型をやるといった意識。
師匠のは型を”練る”と言うのにふさわしい感じなのに対し、自分のは”ただ動いているだけ”だな。


そう感じたとき、師匠に言われた。


「もう少し・・・そうだな、何のために型をやるか、という・・・目的意識みたいなもんが、ないとな・・・・」


そうか、そこが根本的に違うのか。
その辺を意識してやろう。 ヘコみはしたが、収穫もあった。がんばろう。




ビデオ撮影(過去の記事⑥)

型を練習していて、本当に自分の動きがあっているのか? といった疑問が生じることは誰しも経験することと思います。
普通、自分の動きをチェックする必要が生じたとき、まず初めに、鏡の前で動いてみることになります。


ところが、どうも良く判らない。


自分の姿を目で追いながら動作をすることは、とても違和感があり、普段の動きと同じようには思えませんでした。
定式の部分では無意識の内に姿勢を直すことが多々あるし、何より、定式から次の姿勢に移る際の動作(実は、ここが一番気になるところ)は一切見ることが出来ないということが解っていたので、鏡でのチェックはあきらめていたのです。


ビデオがあるじゃないか。



そうです。ビデオなら、自分があたかもコーチのような視点で自分の動きを見ることが出来ます。
自分がコーチになって、選手の動作をチェックするが如く、冷静に、正確に、厳しく、厳しく、厳しく・・・・・・・。


・・・・・・そこです、問題は(^^;

師匠の動作を日常、目の当たりにしている自分は、目「だけ」は肥えているのです。そんな目に、自分の動作が良く映るなんて、どう考えても思えません。
事実、過去、何人かの学生が、自分の型をビデオに撮り、それを見て凹んでしまっている姿を見ていたので、必要性はうすうす感じながらも怖くて今までできませんでした。


「まあ、出来てない事はわかってるんだし・・・・ね」



そう思ってましたよ。ええ。
それでも、練習するに従って「どこが出来てないんだろう?」という思いが強くなり、思い切って撮ってみることにしたのでした。
先日、後輩の学生に頼んで、カメラを持ってきてもらい、撮影開始。
撮った映像を、早速再生。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



なんじゃこらー!!!!


ありえない・・・・・・・・正直、もう少しましかと思っていたのに・・・・・(T T)
撮影の様子を見ていた師匠が「よし、俺がやって見せてやろう」と、同じ型を表演。

「勉強しろ」


と、一言。両者を見比べて2重にショックを受けた日でした。




技について(過去の記事⑤)

武術の技は、敵がいるから成り立つ。




非常に当たり前のことだが、相手がいなくては技は発揮しようがないのである。
極論を言えば、世界に人間が自分ひとりなら、武技は必要がない。


軍隊なんかはこのことを良く知っているので、常に「仮想敵国」をでっち上げて日夜訓練にいそしむのである。






型武道をやっていると、このことがおろそかになることがある。





先人から伝わった型を練る。これは素晴らしい事だが、その目的が曖昧になってしまうのだ。
体操として伝えていくならそれもいいかもしれないが、武術としての価値を見出すためにはやはり「使える」ことは前提条件として持っておきたい。


では、自分はどうか・・・・?






はっきり言って苦手です、型(^^;
含まれてる要求をひとつでも多く満たそうとすると、この上なく厳しいものになっていく。
長年やってもちっとも楽にならないし。

でも、それだけ負荷のかかる練習方法、ってことは、それだけ鍛えられるってこと。また、鍛える余地があるってこと。
そう、前向きに考えることにしてます。



型稽古を・・・・(過去の記事④)

必要か不必要か、といった論議がなされることがある。

たとえば
①ボクシングは強い
②ボクシングに型はない
③よって、型はいらない

といった3段論法で、型を不要、と決め付ける人もいる。
個人の意見は自由であるし、実際その人が強ければ反論の余地はないのである。


が、しかし・・・。



型を稽古する側から、ちょっとだけ意見することにする。

私は、以前は型を持たない流派の拳法を練習していた。
最初に、基本となる構え、攻撃、防御を教わると、後は対人練習の繰り返しであった。
もちろん、師範は強く、対人練習の際に的確なアドバイスもいただき、そこそこ打ち合える様にはなった。


・・・・が、そこまでであった。


初めは動きの手掛かりになるものがなく、相手と対峙したときに何をしていいかがわからなかった。
慣れてきてからは、自分の得意なパターンが一旦できると、ついそのパターンに頼るようになり、その動きが通用しなくなるまで気付く事はなかった。

もっとも、一流と呼ばれる人と比べるべくもない練習量のため、どれだけ参考になるかは判らないが、基準となる動きが無い環境は、初心者には要求が高過ぎ、熟練者には要求が緩過ぎるのである。




ところで。


じゃあ、型が万能か、というとそうでもない。
型が使えるようになるためには、ちゃんとした型を、使えるように学び、使えるように練習しなくてはいけない。
幸い、私は師匠に、ちゃんとした型を、使えるように学んでいる。あとは・・・・・・。



今日の稽古(過去の記事③)

今日は練習日。

待ちに待った練習日・・・のはずが、いまいち気乗りがしなかった。
昼間に、個人的なゴタゴタで気が滅入っていたからである。


そうは言っても、行けば何か得られる。こう言い聞かせて、とにかく練習場へ。
10分ほど遅れて到着する。あわてて体をほぐし、練習開始。

私の所属する会では、練習会では対人練習がメインとなっている。
勿論、套路(型)もあり、その有効性・・”使い方としての技(分解・用法)は教えるが、型を練らないと使えない”と師匠は言い切る。
しかし同時に”一人でやれることは家でやれ”とも説いており、練習会中は、型は動作のチェックと新しい動作を教える、といった点に留めている。


対人練習では、「相手に触れる/触れられる」部分に重点を置いた指導がなされた。



中国武術において、相手との関係の上で「橋を架ける」と言う表現がなされることがままある。
これは、例えば相手が突いてきた場合に前手で捌いた状態、つまり相手と自分が触れた状態について言及したもので、この場合、伸びた相手の腕を辿っていけば的・・つまり打撃部位が存在する、と言う意味である。
ちょっと技術的に言うと、前出のシチュエーションにおいて、相手の右突きを左手で巻き取るように捌き、その勢いで相手の顔面を打つ、といったことになる。


???ちょっとまてよ???

相手のパンチが速かったらどうするの?とか、左クロスと一緒じゃないの?と思うかもしれない。
この、「橋を渡る」部分が、従来、修行者の勘と経験で処理された部分であると師匠は言っていた。
現代格闘技的な動きと比べて、一風変わった動きであることは見れば分かるのだが、極論すれば”適当に”やっているのである。

この、従来”適当に”処理していた部分をより明確に方法論として取り出し、学生に習得させる、という試みを、師匠は行っている。
常に「相手をコントロールする」ことに主眼を置いて指導され、自ら示すその動作は、初見ではやらせとしか思えないほど見事に相手をコントロールしているのだ。


とはいえ。



何事も練習あるのみである。
師匠がいくら見事でも、自分が出来なければ意味は無い。
多くのヒントを貰って、今日のところはこの辺にしておくのである(って言うか、時間切れ)(^^;





中国武術って・・・・(過去の記事②)

どういうものですか? なんて聞かれることがある。
A「カラテみたいなものですか?」
私「投げもあります。」
A「柔道みたいな?カラテでも投げがあるところ、ありますね。」
私「・・・ちょっと違うかな・・・・武器とか使うし・・・」
A「古武道?」
私「・・・・・・・・」

なんてマヌケな問答をすることになる。勿論、マヌケは私のほうだ。
スパーリングをしても(強い弱いは別として)違いを理解してもらえたか、については”?”である。

本来、武術は、生活全般において自分を害するすべてのものから自身を護る知識体系である。
「危ないところに近寄らない」といった護身術の心得までも総括されており、相手に対して技を駆使することは最後の手段とされている。(もっとも、普段の練習で行うのは、その、最後の手段の部分であるが・・・)


相手との技の応酬が本分である格闘技とは、マッチングする部分が極めて少ない。

理屈の上ではそういうことになるが、かといって技術論を対等に交わせない訳ではなく、応敵技術についても広く、深い体系を持っている。実際、私の師匠の技術は高く、理論は明快かつ高度である。

要するに、私が下手なだけである。



中国武術は、他と比べて、力の出し方が違う、体の使い方が違う、間合いの取り方が違う・・・・・・・・





どのように?


・・・・・・・説明できないのは、理解が足りないから。
師匠の受け売りをいくら述べても相手が理解しないのは当たり前。
それを知ってて、あえて分からせようと努力する、だから私がマヌケなのだ。分かってもらうには、見せるしかないのに。



中国武術と言うものを、しっかり説明できるようになりたい。
そうなれた時は、武術を理解できた時だと思うから。

型にはめる(過去の記事①)

拳法の練習法に、型稽古、がある。

中国武術では、一部の流派を除いて、様々な型が用意されており、これを練ることで、流派独特の体の動かし方を学んでいくことになる。


この「型」、中国武術的には”套路”と呼ばれることになるが、私の師匠は好んで「型」と呼んでいる。師匠の師も「型」と呼んでいたから、師匠の系統ではこう呼ぶのだろう。
その昔、私がイッパシの武術オタクだった頃、今の師匠とのファーストコンタクトがあったわけだが、彼が「型」と呼ぶのを聞いて、正直、”何で日本的に呼ぶんだ? 套路だろー!!”と、多少なりと違和感を覚えたものであった。


今、色んな流派をかじった挙句、今の師匠に就くことになって、何故わざわざ「型」と呼ぶのか理解できた。

型稽古の目的、それは、自分を「型にはめる」ことにある。
師匠の動くとおり、自分の体を使って、なぞる。姿勢、目線はもとより、動作を行うタイミングに至るまで、寸分違わずトレースすることを要求される。

だから、型。自分の体を鋳型にはめて、違う機能を持つものに作り変える作業である。
今まで経験してきた流派にも型はあったし、練習もした。でも、ここまでの精度を要求されたことは無かった。


しかし、本来、型はそれほどの厳密さを以って稽古すべきだとも分かってきた。

それが証拠に、以前居た流派では、型の巧い人が組手で強いとは限らなかった。
が、ここでは型の巧い人は組手も強いのだ。


自分もそうなりたい。




はじめまして

中華三昧と申します。


中国武術を練習しています。

日頃の練習で気づいたこと、感じたこと、習ったことなど書いていきます。

よろしくお願いします。

*フルーツブログから引っ越してきました。むこうで書いた事も、こっちに持って来ようかと思っています。