5月3日に詩人・長田弘さんが亡くなったというニュースが流れた。
僕は長田さんの詩・文章を、ことあるごとに読み返してきた。
新たな道を歩み始める友人に長田さんの本を贈ったりもしている。
長田弘さんの名前を知ったのは、映画『深呼吸の必要』を観たときだった。
当時僕は、一つ目の大学を留年し、鬱屈とした5回生を過ごしていた。
留年する言い訳として親に宣言していた公務員試験にあっけなく滑り、
大学院に進んで思想を研究する知識や能力が自分にあるとは到底思えず、
6月になってもまだハッキリとした就職活動をするわけでもなく、つまるところ、
ひたすら迷い続ける日々をおくっていた。
そんなとき、ふと立ち読みした雑誌で『深呼吸の必要』という映画を知った。
たぶん、途中で切れているような不思議なタイトルに惹かれたのだ。
挫折した若者たちが、沖縄のサトウキビ畑で短期アルバイトをしながら、
少しずつ前向きな気持ちを取り戻していくというストーリーもよかったが、
My Little Loverによる主題歌も、優しさと暖かさの溢れ出す名曲だった。
『深呼吸の必要』の鑑賞後、勢い余って購入したパンフレットを読みながら、
僕は、この映画のタイトルが長田弘さんの作品からとられていることを知った。
それから『一人称で語る権利』、『映画で読むニ十世紀』、『長田弘詩集』を
僕はむさぼるように読んだ。しなやかさと力強さをもった長田さんの文体、
五感を研ぎ澄ませて「生活」や「歴史」を捉えなおし続ける長田さんの思考は、
僕にとって、小栗康平監督の『哀切と痛切』と共に、一つの指針となった。
長田さんの文章に、難解な言葉はほとんど出てこない。だが、その思索は、
僕がそれまでに読んでいたいくつかの哲学書よりも衝撃的であった。
物事をかんがえるために、学問的な知識に精通することは必須ではない。
自分の手持ちの言葉を頼りに考えるだけでも、できることはたくさんある。
学問的知識は、自分の中から出てきた言葉をさらに磨くために使えばよい。
そんなエールを長田弘さんから、僕は「勝手に」受け取ったのである。
そのときから、僕は、「理論的な理解」以外にも、「馴染んでくる」とでもいうしか
ないような理解の仕方がありうるということを、信じるようになった気がする。
それからも、仕事や勉強に疲れたとき、僕は長田さんの本を手に取った。
『詩人であること』、『なつかしい時間』はポツリポツリと時間をかけて読んだし、
ふと手にした岩波文庫『中井正一評論集』で偶然にも長田さんの解説文を
見つけたときはなんだか嬉しかった。
「言葉は言葉をつつんでいる沈黙をさそいだすことができるのでなければならない。
言葉は、言葉の限界にゆきつく努力によって言葉になるので、言葉を読むとは、
言葉の限界を確かめ確かめしながら読んでゆくということだ。」
(『詩人であること』、岩波書店、1997年、p.47)
長田さんの言葉は、思索、観察、体験が分かちがたく結びついたところから
紡ぎだされているように僕は思う。だからだろうか、僕は、自分がいろんな情報に
振り回されているかもしれないと感じるたびに、長田さんの文章を読み返す。
「復興とは我々がそこになつかしさをおぼえる新しいものでなければならない」
これは、2014年2月19日に長田さんが日本記者クラブで語った言葉である。
長田さんには珍しく、早口で熱のこもった語り口だった。おそらく、長田さんなりの
「言わずにはいられないこと」があったのだと思われる。
長田さんは、言葉を操ろうとする様々な営みに対し、言葉を耕すことによって、
無言の批判を続けた人だったのではないだろうか。
僕も、言葉を耕す側の戦力とならんことを、密かに願い、目指している。