先日の抄読会では、『精神症状の把握と理解』中山書店、2008年で有名な原田憲一先生の雑誌論文を読んでみることにした。
原田憲一,こころの健康について考える,日本精神衛生学会誌20(2),6‐9,2005
この論文で、原田先生は、「こころの健康」を追い求める風潮に警鐘をならされている。論文では三谷隆正、夏目漱石、一遍上人に通底する「健康を否定する」思想にもっと学んでもよいのではないかと述べられていた。僕なりに論文に引用されていた三人の文章を咀嚼してみると、彼らは「単に生きる」のではなく、「ある意味で死ぬというしかたで生きる」ことを志向しているように思えた。「生を否定することが別の仕方の生になる」ということだろうか。
WHOは「すべての人々が可能な最高水準に到達することを」を掲げている。どうやら西洋医学は健康(health)を追い求めようとしているらしい。一方、東洋医学には、古来健康という言葉はなかった。「養生」と表現されるように、それぞれの人が、それぞれの体質に合った仕方で、病いをうまく経過させようとする発想がある。「養生」は追い求める対象ではなく、人ぞれぞれが自らの心と身体で対話する営みである。「養生」の視点から見ると、より良い健康な状態を目指すということが一種の病的さを帯びているという皮肉が明確となる。原田先生の論文の末尾も、「こころの健康」を追い求めることのいびつさが指摘されていた。
そこから、僕が連想するのは次のようなことである。西洋では、心が自由、身体が不自由である。身体が心の重しになっている。一方、東洋では逆に、心が不自由、身体が自由で、心が身体の重しになっている。おそらく、西洋と東洋で、心と身体のどちらを制御しにくく感じるのかが異なっているのだろう。問題(だと僕が思うの)は、心と身体のどちらかを制御しづらいと感じている主体は何かという点である。その主体は、心と身体の制御しにくさを自覚するものであるから、心でも、身体でもないはずだ。いや、この推論は、心と身体を並列に捉えることによる錯覚に根差しているのだろうか。
精神医学Psychiatryといわれるとき、その精神psycheとはなんなのだろう。僕の直感では、精神psycheはどうやら医学の対象になる、つまり病にかかることができるのだから、おそらく心のことを言っているのだろう。そして、「病識」という不思議な言葉でいわれていることは、「心でも身体でもない主体が、心や身体が病いを負っていることに気が付く」ということなのではないだろうか?だから、「心でも身体でもない主体」は、病にかかることがないのであろう。「病にかかることのない、心でも身体でもない主体」とは?それを、霊(プネウマ)だと言っているのがパウロなのかもしれない。
考えてみると昨今のマインドフルネスブームもちょっとヘンテコではある。座禅や瞑想がアメリカから逆輸入されて「マインドフルネス」と呼ばれているが、これは名前のつけかたが真逆である。インド由来の瞑想や座禅が目指しているのは、考えないこと、意識の消去、いわば心の否定である。心を否定することで身体の力を呼び戻そうとするのがもともとの東洋的な瞑想であったと思う。しかし、アメリカでその瞑想はマインドフルネスと呼ばれている。mindfulnessという言葉は、いわば精神集中、精神統一、精神だらけであり、心の消去、身体の力を呼び起こすというニュアンスは含意されていないように思われる。同じ瞑想をしていても、座禅は身体を、マインドフルネスは心を志向している。同じ行為が逆の意味をもつということは、頭の片隅に置いておいてよさそうだ。