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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

古本屋さんで司馬遼太郎『歳月』をみつけた。文庫本だと600ページを超える大作。江藤新平という人について知りたいと思い早速購入。ポツポツと読み進めていたが、後半は、征韓論論争、佐賀の乱、逃亡、判決、処刑と山場続きで一気に読み終わった。

江藤新平は、初めて国策操作によって非合法的に葬られた思想犯だったという気がする。

秦の商鞅は自ら作った法律で裁かれた。一方、江藤新平は、自ら整備した警察組織に捕縛されたが、法律的にはメチャクチャな判決によって命を奪われている。ルールを曲げてまで江藤が極刑となった背景には、大久保利通の政治的な判断があった、と司馬さんは描いている。


明治となってまもない時期、明治新政府はあやふやな基盤しかもたず、このまま新政府が継続するのか、別の新勢力が台頭してくるのか不透明な状況だっただろう。参議、司法卿をつとめた重要人物の武装蜂起を軽々しく取り扱えないという大久保利通の政治的判断も分からなくはない。しかし、大久保が、江藤の量刑を「そのときまでに揃っていた日本の法律」に基づいて慎重に決めていたら、明治、大正、昭和は違った展開になっていたかもしれない。

いわゆる東京裁判について、当時の国際法よりも連合国側の政治的判断が優先されたのではないか、という批判がなされる場合がある。佐賀の乱と第二次世界大戦を比べるのは無茶かもしれないが、すくなくとも東京裁判では年単位の被告側答弁がなされている。江藤新平に与えられた答弁の時間はほんの数日だった。シニカルに見れば、東京裁判は、日本が治安維持法の名のもとに国内の思想犯に対してしていたことを、より丁寧な仕方で連合国が日本に対してやっただけのことなのかもしれない。

江藤新平を捕縛した警官たちが厚遇したのに対し、大久保利通が派遣した裁判官・役人たちは彼を冷遇した。その点が妙に心に残った。中途半端に高い地位は人を愚かにしてしまうのだろうか。

江藤新平と西郷隆盛の対比も興味深い。江藤は武装蜂起が頓挫したあとも東京で自らの意見を表明しようと逃亡したが、西郷は鹿児島で自ら命を絶ってしまう。そのためか、江藤新平は思想家という感じがするのだが、西郷隆盛は宗教家という感じがする。この二人の違いが、佐賀から逃亡した江藤が西郷を訪ねるシーンでくっきりと描かれていて心を打たれた。もしも江藤新平が先に蜂起していなかったら、もしも江藤新平が丁寧な手続きで審判を受けていたら、西南戦争が起きたのか、起きても違うニュアンスになっていたのではないか?そんな連想をかきたてられた。

江藤新平が今の日本を見たら何を話してくれるだろうか?聞いてみたい気がする。

某俳優の麻薬問題で、たくさんの番組が撮り直しになったり放送できなくなったりした。

忖度発言で辞任した副大臣がいたが、その大臣が関係した予算はそのまま執行されるという。

なんだか釣り合わない。前者は厳しすぎるし、後者は緩すぎると僕には思われる。

俳優も副大臣も公人として扱われるからこそ、責任を問われるのであろう。であるならば、問われる度合いも同じ程度であってよいはすだ。しかし、俳優は数億円の違約金を請求され、副大臣は辞任だけでほぼチャラである。

俳優の違約金は契約の問題だから請求されて当然といわれそうだが、国会議員にだって公約という不思議な約束がある。残念ながら、公約は、「契約」や「約束」にくらべてかなり緩い概念らしい。

 

なんだかなと思う。

 

 

とある児童精神科医の先輩が「児童・思春期やってみない?」と誘ってくださった。
その先輩がおっしゃるには、「まっさらな雪原に足跡を残すような魅力があるよ」とのこと。

僕は小心者なので、患者さんの心に自分の足跡を残すなんて、できたらしたくないし、そもそもそういうことができるのか疑問に思う。だから、児童・思春期にはむいていないと思った。
向いてないのは残念だけれど、医療である以上、自分の不得手に踏み込まないつつしみは重要だと思う。

ヴァルター・シュルテ先生の言葉だったか。「身体的・器質性疾患にもっと精神療法を、精神疾患にもっと身体診察を」というスタンスを僕は好きである。

患者さんの自尊心を大切にするということは、医者の提案を受け入れる、拒むの自由をできるだけ担保するということである。仮に限られた選択肢であっても、患者さんに自分で選んでもらうことの意義は大きい。


患者さんの話を聴かせてもらう、それだけで僕は少し畏れる。

気分が悪いのであまり書きたくはないのだが、某副大臣の「忖度」発言には、本当にびっくりした。

しかし、もっとびっくりしたのは、「忖度」発言のあとに集会参加者と思われる人々の笑い声がきこえていることである。

国会や報道は躍起になって某副大臣を責めているが、彼の発言が笑いを引き出せたのは、彼の発言を理解し受容する聴衆がいたからである。

某副大臣は「事実と異なる発言だったので撤回します」と神妙な態度で弁明した。

僕は某副大臣の「忖度」発言よりも、彼の論点不明な弁明を聴いたときのほうが笑えた。僕の感覚では後者のほうが政治的ユーモアとして上出来なのだが、一般的にはどうなのだろう?

ひどい話である。
いや、話ではなく、現実である。

当直を先輩が代わって下さり、久々にゆっくりした週末になった。

土屋賢二先生の『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』(文藝春秋、2011年)を読んでいると面白いことわざが出てきた。p.163の七時限目。

色んな主張に単純化が隠されているという講義で出てくるのがタイトルのことわざ。

日々患者さんと接していると、自分の健康な面ではなくて調子の悪い側面に眼を向けがちな患者さんが多い。

どうやら、人間には追い詰められる程、危機を知らせる情報に敏感になったり、周りからの不確かな情報に振り回されやすくなったりする傾向がありそうだ。

その傾向があることは普通のことなのだろうが、精神科の病気の時にその傾向にとらわれてしまうと、自分で自分の足を引っ張ってしまい、なかなか悪循環がほどけない。

臨床の場では、時々ことわざを呟くことが患者さんの思わぬ力を呼び起こすことがある。

この虫歯のことわざを呟くことで、患者さんに何かを考えてもらえそうな気がするのだが、どうだろうか?