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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

患者さんと話していたら、急にこんなことを言われた。

「先生が担当になって治らなかったけど、先生は勇敢だと思う」

よく分からないのだが、不思議な言葉が心に残り続けている。

そのとき僕は、とっさに「ごめんなさいね」としか言えなかった。

なんかとてつもない宿題をもらった気がする。
最近外来で気づいたことがある。

決まりやすいこと 病気 戦争 間違い
決まりにくいこと 健康 平和 正解

中井久夫先生によれば、前者は変化の多い過程。
後者は変化の少ない状態である。

精神科の患者さんは追い込まれると正解を探してもがき、
しばしばさらに追い込まれてしまう。

間違いをそうと知るのはたやすいが、正解をそうと知るのは大変である。

「なにが正しいかわからない」という患者さんに対し、
とっさに僕は 「正解は探すものではなく、増やすものですよ」と
つぶやいていた。

患者さんがキョトンとされていたのはいうまでもない。
先日「根も葉もないこと」の断捨離具合について相方さんと話していたら、ふと思い付いた。

「身も蓋もないこと」の方が、過激だ。

一般的には「根も葉もない」は、根拠が乏しいということだし、「身も蓋もない」は露骨という全く別の意味の慣用句である。

しかし、前者は何かが残っていそうな字面で、実際は内容が乏しいニュアンスをもつが、後者は何も残されていない字面で、実際にはどーんとそのものが存在している感じがある。

言葉の見た目と運ばれる意味のズレは、なんだか面白い。
相方さんと皿洗いをしながら何気なく話していたら、「また根も葉もないことばっかり言って」とたしなめられた。

普段はぐぅの音もでないところだが、今日はとっさに「根も葉もないとすると、何があるの?」と言い返すことができた。

「何にもないわよ。何も伝わって来てないわね」と相方さん。

どうやら僕は、何かを伝える言葉をうまく使えていないようだ。

個人的には、根も葉も花もないとして、種ぐらいはあって欲しいのだが。

加藤清先生の『この世とあの世の風通し』(春秋社、1998年)という本を読んだ。

『あらゆる「やまい」は、イニシエーションである』という加藤先生の定式は、金閣寺炎上にも適用される。金閣寺は燃やされることによって、火を放った一人の若い僧の魂を浄化した。そう、加藤先生は述べておられる。


僕がはじめて金閣寺を見たのは、中学生の修学旅行だった。飛鳥からスタートして、談山神社、法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、九体寺を見たあとに訪れた金閣寺。奈良の寺院に慣れた感覚から眺めると、京都の寺院は、敷地が狭く、それでいて外界と隔絶されている感じか強かった。そのせいか、京都の寺院ってかなり人工的だなと感じたのを覚えている。特に金閣寺は不思議だった。本物なのに偽物みたいな感じがしたのである。

加藤先生の意見を読んで僕なりに思うのは、金閣寺を燃やしたくなる感覚はなんとなく想像できるのだが、例えば法隆寺に放火したくなる感覚は想像しにくいということだ。おそらく、法隆寺と金閣寺では、見る人を落ち着かせる作用の種類と強さに、決定的な違いがあるのだろう。その違いは僕の中でうまく言葉になってくれない。今のところは、ぼーっと留まり続けられるのは法隆寺だが、なにかに挑みたくなるのが金閣寺とでも言っておこうか。

 

奈良の古寺は宗教施設というよりも一種の大学であり、京都の古寺は宗教施設というよりもある種の私邸だった。そのような事情も法隆寺と金閣寺の違いに影響を与えているのかもしれない。