小学生の頃、社会の授業で日本の面積を習った。僕は「日本の面積なんか分かるわけがない」と先生にに食いついた。僕の知っている日本は、打ち寄せる波によって、刻々と面積が変わっていた。だから、面積なんか決められるはずがない、そう思っていた。実はいまでも少しそう思っている。その時小学校の先生がどう答えたのか、はっきり覚えていない。でも、父親に尋ねたら簡単に答えてくれた。
「学校で勉強するのは地図としての日本の面積なんだ。本当の日本の面積じゃないんだよ。だって、世界地図には波は書いてないだろう?」
僕は、”本当の日本の面積じゃない”数字を覚えて、テストで点数が付くんだ~と知って、びっくりした。テストで問われていたのは、”本当のこと”ではなくて、”本当ということになっていること”についてだったのだ。
年齢を重ね、自分という存在の不確かさと確かさとでジグザグしていた僕は、ふと波のことを思い出していた。
波は、陸と海の間に存在する。
自分は、外界と内界の間に存在する。
波と自分。どちらも動く境界線だ。
波は、陸でもない海でもない存在として、確かに在る。けれど、波の実体とか本質とか言われると、とたんにきちっと答えられなくなる。僕はいつのころからか、自分とは、内界のことでも外界のことでもなく、境界線のことではないかと感じるようになった。内界を裏、外界を表といってもいいかもしれないが、その場合も、裏と表を区切る境界が自分なのではないか。言い方を変えると、「自分とは形式あるいは枠組みであって、内容ではない」という表現もできる。
僕が新しく歩み直しはじめたのは、内容ではなくて境界線としての自分を見つけた時からだと思う。それ以降、どんな経験をしたか、どんなことを感じたり、考えたりしたか、そういった内容を、僕は夢の延長ようなものと思うようになった。だからこそ、自分自身は夢から醒めつづけることができる。
自分は波のような在り方をしている。そのように思ってみると、自分の行動、感情、思考がどうあろうと、自分が不確かであるということにはならない。波は色んな形をとるけれど、波は波だからだ。どう実践するかで迷うことはあっても、そのように迷っている自分は確かである。そういう自分本位でよいのだ。そう思い付いてから、いいアナロジーだと思って得意気に母親に話していると、「じゃあ津波はどうなるのよ。アンタはどこ行っちゃうわけ?」と返された。横にいた父はクスクスと笑っていた。
僕のアイデアは波のようにサーっと引いていった。
波は儚い。でも、また打ち寄せてきてくれる。