Nothingness of Sealed Fibs -22ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

仕事がなかなか終わらない。周りに申し訳ないと思うのだか、終わらない。待たせてしまって怒られることもある。

申し訳ないけれど、全力でこうなのだ。いや、全力を出せてはいないからこうなのかもしれない。

むしろ、全力を尽くそうとしない方がパフォーマンスが良くなるのかもしれない。

そんなことはどうだって良い。

自分なりに納得しながら仕事をしていくということは、結構難しい。相手のある仕事はそこが魅力であり、落とし穴でもある。

溜め息がおおくなってしまう。

「途方にくれても望みを失わない」
(第二コリント4:8)

あらためて、パウロの言葉に思いを馳せる。
正しいからうまくいくとは限らない。
間違っていてもうまくいくことがある。

正しい/間違いの区別は、うまくいく/うまくいかないの区別とちょびっとずれている。

そのずれのせいで、いろいろややこしくなる。

正解を求めすぎると、しばしばうまくいかない。

間違ってもいいやと思ってると、しばしばうまくいく。

いやはや。とかく浮世はままならぬ。

何事かが真実であるためには、自分の関与が必要である。

自分と離れたところに真実は成立しない。

即ち、真実には主体性が含まれる。

遠い銀河系の出来事は事実であっても、真実ではない。

しかし、思い込みは、その人にとっては真実である。

 

何事かが事実であるためには、検証が必要である。

複数の人が納得したことが、事実とされる。

即ち、事実には客観性が含まれる。

一人の思い込みは事実にはならないが、二人の同じ思い込みは事実になる。

 

そのように、僕は真実と事実を使い分けている。

もちろん、他の使い分けもあるかもしれないが、あまり興味をそそられない。

自分勝手は承知である。

 

僕の使い分けでは、意味は真実に、価値は事実に対応している。

真実には意味があり、事実には価値がある。


「他の人と比べて、自分には生きる意味がない」と言っている人がいる。

言葉の使い方が精確でないと思う。

自分の人生と他人の人生は比べられる。

しかし、自分の「生きる」と他人の「生きる」は比べられない。

おそらく、前述のように言っている人は、「他人の人生と比べて、自分の人生には価値がない」といいたいのだろう。

 

自分の人生に価値があるかどうかは、事実の領域の問いである。

一方で、自分の生きる意味は、真実の領域に属している。

たとえ自分の人生に価値がなくても、自分が存在する限り、消え去ることのありえない「生きる意味」が在る。

そのようなことを僕は考え、感じている。

 

人生の価値という事実など僕は欲しない。

生きる意味という真実において、僕はただこれからも歩み続けるだろう。

 

強がりではない。強くも弱くもない、ただの真実である。

少し前に国家公務員定年延長法案の審議が棚上げされたとニュースが流れた。

 

今回、芸能人や著名人がtwitterで法案の改正案審議への疑問をツイートし、その輪が広がった後に、法案の国会審議が棚上げになった。インターネット上の意見の広がりが実際の国会審議、閣議に影響を与えたと思われる。

 

法案審議が棚上げになったことが望ましいことなのかどうかはわからない。しかし、そうなった経緯が望ましいとは僕には思えない。インターネット上の意見が「世論」という力をもって政治への影響を持つのであれば、選挙で国会議員を選ぶこと自体の必要性が問われるようになってきてしまうと僕は思うのだ。

 

そもそも選挙という制度は、地方の意見を中央に届ける方法が他になかった明治時代に構築された。選挙以外の方法で人々の意見が簡単に国政を左右できるようになったとき、果たして人々は選挙という面倒な営みに労力をかけ続けることができるだろうか。

 

国会開設前の明治政府は、新聞や民衆の意見を突っぱね続けた超然政府であった。だからこそ自由民権運動の高まりが起こり、国会開設運動や開設後の国政選挙(選挙権が与えられたのはごく限られた範囲だったが)が非常な熱をもったのである。

 

その後、昭和の時代に入ると、新聞や世論の影響力は強くなり、選挙は形骸化して、ついには翼賛選挙となった。世論やテロの恐怖に振り回された近衛文麿内閣が開戦のお膳立てをした。これまでの選挙とメディアの関係を歴史的に振り返ると、国政に対して、選挙よりもメディアの影響力が上回る時、緊急事態が起こりやすい。

 

メディアやインターネット上の意見を重視する姿勢を政府がみせることは、選挙への国民の関心を下げる。もしも、選挙への関心を薄めるほうが多数の議席を獲得しやすい、ということが与党の狙いなのであれば、深謀遠慮である。

 

選挙はめんどくさい。しかし、そのめんどくささを許容しなければ、また、異なる意見の人々と膝をつき合わせて話していかなければ、「個人の意見」から「国民の意見」は醸成されない。選挙という制度は、個人的意見の内容の妥当性を問うのではなく、集団における合意形成プロセスの妥当性を問うシステムである。

 

そもそも、選挙という制度が、すでに時代にそぐわないという指摘もあるかもしれない。だが、インターネットを通して、果たして「国民の意見」を醸成することは可能なのだろうか。インターネットは、自分の意見を好き放題に言い放つか、周りに受け入れられやすい意見を書くか、この二極に分かれやすい。つまり、もともと合意形成を全く意識していない意見と、合意形成を第一の目的としている意見の両極である。どちらも、意見を交換して互いの考えを彫琢していくという発想を欠いているように僕には思える。もしも、インターネット上で、「異なる意見の人々と膝をつき合わせて話す」というニュアンスが実現できれば、選挙はインターネットで置き換えられるのかもしれない。しかし、仮にインターネットで選挙の代わりができたとしても、他人の意見を操作しようとする勢力の介入に対して、インターネットは選挙よりも脆弱である。そのリスクは考えておかなければならない。

 

日本国憲法が謳っているのは国民主権であって、個人主権ではない。

日本国憲法の掲げる国民主権は、僕の目にはまだ実現していない夢のように見える。

緊急事態宣言が5月末まで延長されたあとに、一部解除された。宣言が発表された時期には、「遅かった」、「規制が緩い」など、色々な批判はあったが、宣言後の感染者数の推移をみると、着実に効果がでたと思われる。日本の実情にあった、適切なタイミング、規制の強さだったと評価していいと考える。
 
注目すべきは、PCR陽性者数が右肩上がりだった時期に、感染者が入院した病院での医療従事者への二次感染が非常に少なかったことである。クルーズ船で、検疫官などに二次感染がおきてしまったという経験がうまく生かされた結果と思われる。ゾーニングなども、各地の病院でされているし、きちんとそれなりの対策をとれば院内感染が防げるという事実と実感は、良いニュースだと思う。一気に患者さんが増えると、その分対策が粗くなる。その意味で、ある程度の数に発症人数が抑え込めていれば、なんとかなったという実績は心強い。
 
緊急事態宣言が遅かったという批判もあるが、それまで宣言なしの「自粛」だけで感染者数増加のタイミングをほかの国にくらべて遅らることができたというのは大きな意味を持った。他国の対策でうまくいった対策、反省すべき点を活用できたからである。
 
緊急事態宣言も、あえていえば「自粛」の延長であり、強制ではない。にもかかわらず、強制に近いレベルの行動規制が実現してしまうところが、日本のすごさであり、恐ろしさである。最近は、マスクをせずに電車にのると、冷たい視線を感じてしまいそうだ。
 
また、テレビのコメンテーターのほとんどが、自粛をより強くする方面の意見しかいわないのには驚いた。自治体の首長の会見も、テレビで取り上げられるのは国の方針よりも強硬な主張をする首長ばかりである。正直こんなに自粛する必要あるの?という意見がだされて、検証がすすめばよかったなと思うのが、素直な感想である。ただ、ほとんどの外国が日本よりも感染コントロールが悪かったので、ほかの国を参考にするとよりビビる方向に意見が向くのは仕方なかったのかもしれない。危機をより大きく見積もる意見は簡単に言えるが、危機を適切な大きさで評価するのは難しい。
 
世界的な潮流となった「医療従事者への感謝」という動きが日本でも見られたのは、不思議だった。欧米や中国は日本とは桁違いの感染者数であり、日本にくらべて圧倒的に医療者への負担が大きかった。日本は首都圏など、感染者数が多かった地域を除けば、全国的に余裕を残した状態で乗り切れていると思われる。それは、もちろん、コロナウイルスを危惧して、病院受診を控えた患者さんが多かったという要因も寄与しているかもしれない。その意味では緊急事態宣言はでたものの、日本の医療は業務の延長でなんとかできており、特別感謝をするほどのことではないのではないかというのが、僕個人の実感である。感謝するならば、医療関係者だけでなく、この大変な時期を乗り切ったすべての人に感謝したら良いと思う。
 
震災とことなり、新型コロナウイルスは日本全体を巻き込んだ災害と(?)となった。震災は、被災地と被災していない地域があるから、援助される側、援助する側という図式が生まれやすい。しかし、感染症はある意味で平等な危機である。感染症の流行に対しては、震災のときに発展したボランティアなど、人が集まって協力するという方法が使えない。社会と個人の力が試されている気がする。