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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ワクチン、緊急事態宣言、オリンピック。判断の難しい問題が続き、刺々しい言葉が飛び交うようになってきた。

難しさの背景に、色々な温度差があるように思われる。

緊急事態宣言が出たこともなく、オリンピック開催地からも遠い地方在住の僕にとって、緊急事態宣言やオリンピック開催は、なんとも煮え切らない問題である。

するにしてもしないにしてもダメージを食らう訳だから、どちらが良いかという話ではなくて、悪いなりにどちらがよりダメージを減らせるかという話ではないか、と僕には思える。

しかし、茅の外の僕はそう気楽に言えるけれど、現地東京の人たちからすると、生活、収入などに直結する問題である。ダメージを受ける側の人の意見こそ、重視されてしかるべきであろう。

僕自身は、困難なときにこそダメージは社会的弱者ではなくて、社会的に安定した立場の人々に負ってもらうべきと普段から考えている。ヨーロッパでいうノブレス・オブリージュというやつである。しかし、僕自身が当事者ならそう思うだろうなというだけであって、感染流行している渦中の人々に向かってそう言えるかというと、言えない。という訳で、言葉は濁る。

感染症流行だけを問題にするなら、緊急事態宣言を出して、オリンピックは止めたらよい。これは分かりやすい。経済を問題にするなら緊急事態宣言を止めて、オリンピックを開催すればよい。これも分かりやすい。

今のところ政府は、緊急事態宣言を出して、オリンピックをやりたいのだと思う。そして報道を見る限り、東京の世論は緊急事態宣言に疲れてきて、オリンピックやりたくない雰囲気が広がっていそうである。

さらにややこしいのは、若者、壮年、老人で温度差があるであろうことだ。一般に老人ほど感染症対策重視に傾くだろうし、若者ほど経済対策に傾くだろう。

ヒントになりそうなのは、緊急事態宣言は「普段していることをしない」ということであり、オリンピックは「普段していないことをする」ということだ。

日常と非日常のどちらを重視するのか。一地方の問題なのか、日本全体の問題なのか。社会階層や年齢層の問題なのか。あらためて現実の重層性に思いを馳せる。

映画館でエヴァンゲリヲン新劇場版の完結編をみた。

見終わってすぐ思ったのが、人間讃歌だなということ。大掛かりな神頼みではなく、ささやかな「挨拶=おまじない」に支えられて生活すること。いわば、危機に対して日々で戦うことの復権が描かれていると僕は理解した。

「明日はどうなるか分からないが、今日と同じ日であってほしい」という委員長のセリフは、世界が壊滅的になった後であるからこそ、強い人間讃歌として響く。

僕が受けた印象は、あくまでこの多面的で多層的な映画作品の一部に対する印象にすぎない。そのことが明確に分かるぐらい、圧倒的な厚みを持った作品だったと思う。この厚みの背景には、準備にかかった時間、技術、様々な人のアイデアの重なりがあるに違いない。この重なりがある限り、映画というメディアは残り続けると思う。

ただ、実写映画でここまでの厚みがつくれるかという点は怪しい。アニメーション映画が一人勝ちしている現状は、実写映画製作に妥協が増えていることを示唆していないだろうか。

最後の方で絵コンテで構成されるシーンがでてくる。そこには庵野監督の指示コメントも書かれていて、アニメーションの虚構世界と作り手の現実世界がつながる。その前は碇親子の戦闘が記憶からつくられたセットのなかで繰り広げられ、記憶の虚構性がこれでもかと強調されていた。

多分この作品は、虚構と現実の往来、虚構と現実の入れ替わりなど、「作品が作品であることを超えようとした表現」として記憶されるのではないだろうか。

去年のGWはマスクをつけていた。今年のGWもマスクをしている。去年、マスク着用は大騒ぎの部類に属していたが、今は当たり前になってしまった。「当たり前」や「普通」は変わるのだ。

 

結局、新型コロナや変異株の検査陽性者数は、増えたり減ったりを繰り返しながら一年が過ぎた。その間に日本政府は、マスクやお金を配布し、緊急事態宣言なるものを数回発令し、外国で治験・開発されたワクチンを大量購入した。日本政府がこの1年間していたことは、本質的な対策ではなくて、いわば対症療法(=場当たり的な対策)である。

 

むろん、「ウイルス感染症の本質的な治療が何か」という問いは難しい。ましてや「感染症流行への本質的な対策が何か」という問いも難しい。

 

しかし、本質的な対策を取らず、対症療法を続ける状態が長く続くことは望ましくない。なぜか。怪我をしたら手当てすべきだ。しかし、手当てしたそばからすぐに怪我する人がいたら、手当てと同時に、怪我しやすくなっている理由を考えて、怪我を防ぐ手段を講じなければならない。一番怖いのは、手当てをしていることでアリバイ的に責任を果たした気持ちになることだ。高血圧に降圧薬を出すのに似ている。

 

問題が難しく見えるときは、絡んでる要因が多すぎて、糸がほどけないことが多い。難しい問題はそのままでは難しいから解けない。難しい問題を解くには、乱暴だけれど、難しく見えている要因を探って、シンプルな問題にしていく必要がある。でてくる答えが「非現実的」であろうと、一度は問題を乱暴に整理して答えをだしてみることも役立つ。


検査陽性者数をゼロにしたければ話は簡単。世界で感染流行が収まるまで、鎖国して、引きこもってみんなが沈黙して過ごせばよい。人と会った時も大きな声で話さなければよい。一人一人が無人島にいるように孤独にすごせばよい。

 

ワクチンの優先順位ももう一度考え直してもよい。ワクチンは本来、個人の感染重症化リスクを減らすためではなく、集団レベルで感染症流行を抑える目的で使うものである。医療者やハイリスクの高齢者への優先摂取は、その目的に適っていない。むしろ、移動し、たくさんの人と話す若い現役世代や学生さんに優先的に摂取すべきである。高齢者はそんなに移動もしないし、ただでさえ普段から自粛的に生活されている人が多い。医療者も医療機関のクラスター発生頻度から考えると、院内の感染対策があれば、ワクチン接種せずに戦えることは十分に示されていると考える。もしも、重症病床逼迫という病院行政の事情で高齢者・基礎疾患の人にワクチン優先されたのであれば、その意思決定は、今後真摯に再検証されるべきだ。

 

以上が、僕が現時点で出している乱暴な答えである。人は、集まり、話し、買って、売って、働く。言葉と物のやりとりでなりたつのが生活だ。その前提から考えると、僕の乱暴な答えは、非現実的に思える。しかし、現実は変わる。変えられる。

 

僕個人ができることといえば、職場で感染対策に配慮し、プライベートでは静かに暮らし、話すときも大声を控えることぐらいだ。このまえ読んだ八木重吉さんの短い詩は、今、僕の中で静かな力になっている。

川喜田愛郎先生の『生命・医学・信仰』をポツリポツリ読んでいる。カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・兆候』、中井久夫『徴候・記憶・外傷』に連なる三連タイトルの作品である。三人の著者は卓越した歴史家であるという点で共通している。

例によってあとがきから読むと、川喜田先生が八木重吉の詩を引用されていた。


ちんもくを/つらぬいてみよう/いいにんげんになれるかもしれぬ


じんわりと涙がこみ上げてきた。宗派は違うが「いつも静かに笑っている」宮沢賢治にと似た感覚を感じる。八木重吉のほうがちょびっとだけ能動的だろうか。歴史を「鏡」と表現する鎌倉時代の感覚にも通じるかもしれない。

言葉は、言葉の後ろの無言の支えを伝える。沈黙を伝える饒舌がありうるのではないか。八木重吉の「ちんもく」には、その意味での饒舌も含まれている気がする。

相方さんを職場に送った帰りに、ゆっくりドライブしていた。

信号待ちでふと目を横に向けると、民家の二階で老女が涙を浮かべ、手を合わせて何度も、頭を下げている姿が目に入った。

信号が青になって、車を進めると、老女の目の前に仏壇があるのが見えた。

老女が強く祈っている姿をみて、僕に峻厳とした気配のようなものが湧き上がってきた。身震いというやつか?

今年の桜も、生命の連続と断絶を、力強く、もろく、ありのままに見せてくれている。

あと2週間で祖父の遺骨はお墓に入ろうとしている。