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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

司馬遼太郎さんの『歴史と小説』(集英社文庫、1971年)というエッセイ集を読み終えた。収載されている「市民の独語」という一編の中に「だけの人間」と小見出しがついた一節がある。その中で司馬さんはこのように述べておられる。

 

いいサラリーマンが、子供のはなしばかりをしているのは、あまり見よいものではない。われわれが生物である限り、子供は簡単に持つことができる。それ以外の何を生むべきかが、つね日頃の屈託でなければなるまい。(同書p.149)
 

なかなか辛辣な一節である。子供が簡単に持てるものなのかは別にして、この文章を読んでドキッとする人は少なくないのではないだろうか。

 

自分のことを振り返ってみると、大学時代の友人と先日オンラインミーティングをしたとき、仕事や研究の近況の話が多かった。一方で、里帰りや、親戚で集まったときなどは、結婚やら子供の話題が多い。僕の実感としては、結婚や子供の話は疲れるなというか、気持ちが乗ってこないなというところがある。やっぱり、各自が興味や熱意をもって臨んでいる研究や仕事について聞いたり話したりしたときのほうが、刺激を受けるし、ウキウキする。子育てはもちろん大事なことであろう。しかし、大事なことを大事だと言っているだけでは、へそ曲がりの僕は面白くないのである。

 

このエッセイ集の「旅のなかの歴史」という一編では、大砲への防御力を設計上欠いていた五稜郭のもろさ、その五稜郭を頼みにした榎本武揚の軍事能力への否定的評価が指摘されている(同書p.238)。同じ一編のなかには、「発禁本が売ってる町」新宮への追想から、大逆事件で処刑された医師大石誠之助へと話題が進む(同書p.243)。個人的に大石誠之助についてはもうちょっと調べてみたいと思った。

 

どうして久々に司馬さんのエッセイ集を手に取ったのかというと、少し前に、これまでずっと敬遠していた和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫)を読んだら、予想通り嫌な気持ちになったからである。

 

和辻さんはみずからの考察について、『「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない』(同書p.135)と記している。『古寺巡礼』のなかにも、和辻さんんが自らを「フラフラしている」と自嘲しているところとか、叡山に入っていたことのある友人から聞いた修行僧発狂の話とか、僕が個人的に面白く感じる箇所はたくさんある。でも、観音像に感動するくだりは確かに名文だけれどもその感動の猛烈具合に置いて行かれる感じがしてしまうし、像や仏教についての文化的考察ももやもや感が残る箇所が多くて素直に読めないのである。例えば次のようなくだりがある。

 

実をいうとわれわれの内には、西洋の幻想の方がより強いいのちをもって生かされている。ダンテの描いた幻想はわれわれの心をやすやすと彼岸の生活へ引き入れていくが、我々の祖先の描いた弥陀の浄土は、まずわれわれに好奇の心を起こさせるばかりである(同書p。222)。

 

この文章から僕が感じ取るのは、和辻哲郎の感性の源には、西洋への憧憬、伝統的日本への批判があるということである。和辻さんが西洋絵画や来迎図を「幻想」と断言するのは、宗教ではなくて美学の立場から判断しているからだと思う。僕は、弥陀の浄土を幻想としてではなく真実として受け取っていた祖先の心持ちを知りたい、感じ取りたいと思ってしまうタイプの人間である。そういう僕にとって、和辻さんの筆致よりも、美術と宗教が表裏一体になっている柳宗悦の文章のほうが魅力的に映る。宗教を幻想の美として鑑賞する和辻さんの文章に、厚みというのが適切かわからないが、僕に迫ってくるなにかを感じ取れず、なんだか空疎な気持ちになって読むのが嫌になってしまうのである。

 

ついでに、『古寺巡礼』の改版序に次のような文章がある。

 

近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した(同書p.6)。

 

この一節に大正から昭和にかけての教養がもっていた「気分」を僕は感じる。この「気分」はとても情熱的で純粋ではあるが、戦争という歴史的事実の後を生きる僕にとって、その情熱・純粋さは苦々しい。だから、諸手を簡単に挙げない司馬さんのエッセイを読みたくなったのだと思う。苦みと厚みをもった司馬さんの文章に僕は手ごたえを感じる。僕はそういう人間なのだ。

今さら気がついたことがある。

「移動」の間をどうすごすかは、移動する媒体に規定されるということである。

 

電車での移動は、基本的には勝手に運んでくれるから、集中力を要する作業が可能である。

眼を使って本も読めるし、スマホで動画をみたり、いろいろできる。

もちろん、ウォークマン(今この言葉は通じるのか?)とか音楽を聴くこともできる。

とはいえ、電車に分厚くて重たい本は持っていけないので、勢い文庫本が中心になる。

 

一方、自動車での移動は、集中力をクルマの操作に向けなければならない。

文字を追いかけたり、映像を集中してみるのは困難である。

だから、ラジオがメインのメディアになる。

 

インターネットに接続できる媒体や通信量は日進月歩である。

電車での移動、自動車での移動、どちらもスマホがあれば足りるという人もいるだろう。

 

個人的には、電車で文庫本を開き、自動車ではラジオを聴き、家では厚めの本を開きたい。

経験している時間の質にあった過ごし方をしたいと思っているからである。

でも最近、休みの日に、家で厚めの本を開くよりも動画を見てしまうことが多い。

どんどんお手軽な方法にいきやすいのは、かなしいかな人間の常である。

 

便利さや技術の進歩は、空間や時間の経験を均質化していく。

ただ、全体が均質化していく一方で、逆向きの細かい差異を深めていく変化も起こるのが常である。

 

皆が動画を見ているという点では激しく均質化されつつあるが、

どんな動画を見ているかという点では、個々人の趣味や傾向ごとに差異が拡がっていきやすい。

その意味では、形式の同一化、内容の多様化がおきていると、いってよいだろう。

 

この条件下で、人と人との共感・反感はどう変化するのだろうか。

僕には、共感・反感ともに、良くも悪くも極端かつ賞味期限が短くなっているように思われる。

 

オリンピックは連日すごい勝負がつづき、感心しきりであるが、僕の中の複雑な感情は続いている。

この種の複雑さを割り切らないほうがよさそうだ、と僕の直感は告げている。

スポーツの祭典の開会式に関連して、小林賢太郎さんが解任された。だいぶ昔の不謹慎な発言に、クレームがついたとのよし。解任を受けて、小林賢太郎さんが発表したコメントはとても立派なものだった。

 

小林賢太郎さんは素晴らしい才能をもち、努力し続けているコメディアンだと僕は思っている。ついでに僕は、コメディというものは多少なりとも不謹慎さを帯びるものだとも思っている。

 

やり玉に挙げられた小林賢太郎さんのコントでの発言は、「普段全くしゃべらないのっぽさんが、番組の外では不謹慎なことを言っている」という設定のなかででてくる。ホロコーストを話題にしているのはたしかだが、ホロコーストを擁護しているのではなく、複雑ではあるがホロコーストを批判している、と僕は理解した。しかも、20年程前のコメディ作品での発言である。どうして、それが現在、問題になるのだろう。近年、人種差別などについてタブー視する傾向が急速に強まっている。「現在において不適切な表現がありますが、作品発表当時の時代背景と原作者の意図を尊重し、そのまま収録しています」などと但し書きが付く作品が多くなった。でも、そんな但し書きがついたとしても、手塚治虫や寅さん映画が現代の僕にとって大切な作品であることは揺るがない。むろんラーメンズのDVDもである。

 

某組織委員会は炎上している関係者を次々解任しているが、そこまでして潔癖でありたいスポーツの祭典ってなんなのだろうか。そもそも、この感染状況で祭典が開催されることを不快に思う人がたくさんいるであろうから、現時点で潔癖さを追求するのは滑稽にみえる。人間や組織は、しばしば、自らの大きな欠点を目立たなくさせるために小さな欠点を解消することに躍起になる。今回のドタバタもその実例の一つということなのだろうか。

 

ただ、個人的には、小林さんは今回解任されて良かったかもしれないともと思う。解任されないまま、今回の祭典関係者として名前が残った場合、祭典開催後の評価によっては、より大きな不快をより大勢の人に与えてしまう可能性がある。僕にとっては、「困難な状況下でスポーツの祭典を開催した日本」よりも、「小林賢太郎という存在を生み出した日本」のほうが、魅力的に映る。

 

不快だという理由で、なにかを排除しようとする感性にたいして、僕は不快さを覚える。でも、僕は不快に感じるけれど、その感性を排除しようとはしない。不快という感情と、排除という行動は分離できる。「感情と行動のつながりを緩やかにすること」、それだけを僕は心がけてこれまで生きてきたし、これからもそれを続けていくつもりである。

 

なんともすっきりしないスポーツの祭典開催であるが、すっきりしない矛盾を抱え込むのは、「雑種文化」(加藤周一)が得意な日本のお家芸でもある。各国の選手たちがしのぎを削り、感染拡大も許容範囲でおさめられるような、やってもよかった大会になるといいのだが。そのために僕にできることはなんなのだろう。テレビ観戦するぐらいしか僕には思い浮かばないが・・・。

なにやら某国ではこのご時勢に運動の祭典が決行されそうである。勿論、感染対策は十分にという但し書きはあるが。

 

興味深いのは、某国首相の「専門家の意見」への態度である。緊急事態宣言を始めたり延ばしたりするとき、首相は「専門家の意見を尊重する」と度々言っていた。一方で、運動の祭典の開催云々について、首相は「専門家の意見」を押し切って政治的な判断をした。

 

「科学が政治に負けた」という意見もあるようだが、科学が政治に支配されているのはだいぶ前からである。自然科学といえども、実験設備の巨大化、統計学的な優位性を担保するための豊富な実験回数などのハードルをクリアするには国からの膨大な予算が欠かせない。原子力など強力な技術に関係する科学は、実験施設の建設から運営まで政治的な決定を要する。政治の要請で科学者たちが戦争に役立つ技術を開発してきた歴史もある。だから、科学はもうだいぶまえから政治に負けている。

 

「専門家の意見を尊重する」のが某首相のスタンスならば、運動の祭典開催にあたっても同様のスタンスが見られるはずだ。しかし、専門家が開催に向けて慎重な意見を述べると、首相はその意見を尊重しようとしなかった。この首相の態度の変遷をどう理解したらよいのだろう。

 

ひとつの仮説は、「首相の態度は変遷していない。一貫している」というものである。つまり、某首相は「専門家の意見」が自らがあらかじめ出している結論と同じ方向の時だけ尊重し、異なる方向の時は尊重しなかったのではないか。「専門家の意見」がどうあろうと関係なく、某首相はすでに結論を出しており、都合のいいときだけ自分の意見の補強として「専門家の意見」をもってくるというわけである。

 

もう一つの仮説は、「某首相が専門家の意見を聞くべきタイミングを見誤っている」というものである。「専門家の意見」は、大ピンチのときこそ尊重すべきで、小ピンチのときは専門家の意見に頼らず自分で何とかやってみるというのが、一般的な問題解決の常識であろう。首相の言説からみるに、緊急事態宣言を大ピンチ、祭典開催を小ピンチと判断したようだが、僕には、ピンチの見積もり感が逆だと思われる。

 

どっちの仮説が的を得ているのか、両方的外れなのかはよくわからないが、もしも意図的にやっているのであれば、某首相はなかなか手強い。

 

世界的にみれば、日本の感染コントロールはなんだかんだ言って優等生の部類に入る。とはいえ、運動の祭典で人の動きは増える以上、感染リスクが下がることはなく、上昇するのは間違いない。それを分かって祭典を開催するのだから、後々悔やまないように、感染拡大を抑え込む対策の徹底が求められる。祭典を開催後に緊急事態宣言をだすようなことがあれば、某首相にとってはかなり大きな失点になりそうだ。

 

以上の理由により、おそらく政府は感染対策をかなり強化している状態で祭典開催に踏み切ると思われる。だから、僕は祭典開催後の感染症流行をそれほど心配していない。ただ、こういう時勢での開催なので、日本スポーツ界が力を挙げて育成してきたスポーツ選手がたくさん参加し、もし日本が金メダルをたくさんとったとして素直に喜べるだろうか。なんか苦々しい感じがしてしまいそうな気が僕にはするのだ。今回の祭典開催により、祭典自体の純粋な祭り性が損なわれることにならないか、そのことを僕は強く危惧している。

you tubeをみていたら、ものすごく久々にオザケンさんの動画に行き当たった。

僕は継続的にオザケンさんの音楽を聴いている人間ではないのだが、久しぶりに耳にした『ラブリー』の歌詞で心に残ったところがあった。

「lovely lovely days, 完璧な絵に似た」という箇所。

この"完璧な絵に似た"という下りは、「現実が虚構で、その逆もまた然り」というこの不思議な世界の本質的な特徴を、何とも言えない丁度良さで言い表していると思う。

最初に聴いたときは気にならなかったのにと思って調べたら、どうやら途中で新しい歌詞に変わったらしく、びっくりした。

そういう経緯を知ってからもう一度聴いてみると、頭が少し自由になった気がした。気のせいかもしれないが。