読書記録2023年 その4 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

2024年も約半分すぎているのだが、ようやく2023年の読書記録最終版である。

 

■ハンス・ジンサー,橋本雅一訳『ネズミ・シラミ・文明』みすず書房,1966年
原著は1935年。邦訳には「伝染病の歴史的伝記」と副題がついており、著作の意図を的確に示唆してくれる。本書の主題は発疹チフスではあるが、その親類として日本洪水熱(ツツガムシ病)も紹介されていて、洪水が感染流行の契機として認識されていたことがうかがえる。また数々の戦争が兵士たちの間で流行した感染症によって終結した事例も紹介されている(巻末の感染症年表は保存版である)。戦場でブドウ酒が欠乏し、水を飲み始めてから伝染病が流行ったという記録もあるそうだ(本書345頁)。アルコールは酔って楽しむ以前に、安心して飲用できる水分なのである。個人的にジンサー博士がすごいと感じたのは、ヒトで激烈な症状をおこすウイルスが、他の種(ウサギやウシなど)に感染するとヒトへの病原性が減少し、ヒトの神経組織に対する親和性を獲得する(ただし、免疫が弱い個体では脳炎を引き起こしうるようにもなる)傾向があるという点を指摘している点だ(本書74頁)。ウイルスが向神経性を獲得するメカニズムとその意味は、最新の感染症学ではどのように考えられているのか気になった。


■姜在彦『朝鮮半島史』角川ソフィア文庫,2021年
司馬遼太郎さんのエッセイや対談で、古代朝鮮から日本列島にわたってきた渡来人、帰化人がたくさんいたことを知った。そうなると朝鮮の歴史について基本知識がないことに思い至り、手にとった入門的な一冊。読了して思ったのは、苛烈な三国時代(高句麗、新羅、百済)の後に、統一新羅を経て、中国王朝ですらなしえなかった400年近く続く王朝(高麗・李氏朝鮮)が出現した意味をもう少し理解したいということだった。個人的には、高句麗・新羅・百済それぞれから渡来人・帰化人が日本列島にやってきたのだろうが、どうやって争いなく過ごしていたのかが気になった。本国での争いが、日本にやってきて以降つづいたのか、つづかなかったのか、宿題が増えた読書になった。

■M・ワット,三木亘訳『地中海のイスラーム世界』ちくま学芸文庫,2008年
三木亘さんの本を読む中で手に取った一冊。イタリアのシチリア島が中世から近代にかけてイスラム化されていたことをこの本で知った。十字軍が、イスラム側からは関心の低い些細な周辺地域問題とみなされていたこと(同書160頁)、トマス・アクィナスがイスラム教は軍事力で広まったと誤解していたこと(149頁)などが興味深かった。

■宮崎市定『アジア史概説』中公文庫,1987年
この本にはトルコ、ペルシャ、インド、中国、日本と広大な範囲を「アジア史」として通観するという力業が収録されている。古代日本を扱う章で、「大陸の政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本に渡来した」(同書415頁)という一文があり、その主張の論拠は示されていなかったが、なぜだかものすごく腑に落ちた。この本を読み終わってから中国史、朝鮮史、儒教、道教、マニ教、ゾロアスター教の文献を手にとるようになった。もしかすると大陸から日本に文化が伝わるときに、様々な宗教が混淆して受容されたのではないかと、想像は膨らむ。

 

■宮崎一定『中国史(上)(下)』岩波文庫,2015年
宮崎先生の本は、読みやすい文章ながら、はっとさせられる指摘も多く、楽しんでよめる。中国の通史としては抜群の読みやすさで、いわゆる景気史観(資質に優れた人物が名君になるのではなく、経済活動が盛んで人々の生活が豊かな時代の君主が名君とされる)は、とても説得力がある。宮崎先生は「外国にはないと思われる景気という言葉」を「通貨流通量が多く、容易に入手出来、しかも通貨に対する信用度が高い時が最も好景気の時代と言える」と説明している(『中国史(下)』360頁)。王陽明の学説が「でなければならぬ」という命令の形で組み立てられているのが特徴であるという指摘も、王陽明に影響を受けたとされる西田哲学のことが連想されて興味深かった(『中国史(下)』209頁)。

■酒井シヅ『病が語る日本史』講談社学術文庫,2008年

縄文時代から明治時代に至る医学的話題を紹介した本。縄文人は骨折しながらも歩き続けていたらしいこと、日本で牛痘種痘法が実施される1849年よりも50年以上前に秋月藩の緒方春朔によって安全性の高められた人痘種痘法が研究・実施されていたこと、この2点が特に印象深かった。

■阿満利麿『歎異抄講義』ちくま学芸文庫,2022年

歎異抄を解説する本で、結文の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」を正面から取り扱わない本はあまり読む意味がないと個人的におもっている。滝沢克己先生の『歎異抄と現代』然り。阿満さんのこの講義もきちんと結文を取り扱っているので好感が持てる。一番ハッとしたのは、「『称名』の『称』は、重さを比べるはかりの意味です。誓願の力と自分の力とでは、阿弥陀仏の力のほうが圧倒的に重いのだ、ということを示すのが称名の『称』の解釈なのです」(同書408頁)という箇所だった。この指摘を読んでから「称名」への理解がいままでよりも深まったように思われる。

 

■鈴木大拙、曽我量深、金子大栄、西谷啓治『親鸞の世界』法蔵館文庫、2011年

1961年に比叡山で行われた巨頭対談と講演を収録した本の文庫版。太平洋戦争を経て日本が失った自信をとりもどしつつあった時期に、鈴木大拙91歳、曽我量深86歳、金子大栄80歳、西谷啓治61歳が集って縦横無尽に話した貴重な記録である。91歳の鈴木大拙が「教行信証」の英訳をしていたという話から対談がスタートする。曽我・金子両氏の話は浄土真宗について知識がないと分かりにくいが、時折はさまれる鈴木大拙の発言は、仏教という枠を超えて笑いに達していて面白い。対談の最終盤で、西谷氏が「真宗とキリスト教がいかに似ているといっても、根本は違うと思うんです。だからそれを知らせることは、やはり非常に意味があると思うんです」と述べたあとに、鈴木氏が「仏教は大いに奮起せんならん。君らはまだ若い、これからなんだから」といって、西谷氏が「え?」と応答しているところが一番笑えた(同書339‐340p頁)。そのすぐあとに、鈴木氏がトインビーの宗教観を紹介し、インドの仏像の優れた点として座禅や涅槃の姿を像にしていると指摘する下りも印象深かった。笑いの後にサラッと重要ポイントをいうあたり、達人である。

■ダン・ショート他,浅田仁子訳『ミルトン・エリクソン心理療法 〈レジリエンス〉を育てる』春秋社,2014年

心理療法で達人と言えばエリクソンである。催眠療法が有名だが、晩年には簡潔な一言でクライエントを好循環に導く手法に移っていったことで、現代のブリーフセラピーの源流にもなっている。この本でエリクソンがポリオの後遺症で下肢不全麻痺を患っていたことをはじめてしった。自分の身体が思うようにならないときに、それでもある程度身体をあやつるためにエリクソンが工夫した個人的な技法が彼の臨床に生かされているようだ。エリクソンの言葉には、手法というひとことで片付けられない智慧があるように感じられた。

■坂口ふみ『〈個〉の誕生 キリスト教理をつくった人びと』岩波現代文庫,2023年
キリスト教を考えるときにキリスト両性論、三一論の理解は外せない。坂口先生の本はエッセイ風の筆致で、ギリシャ哲学とラテン教父神学の交流過程で、ヒュポスタシス=ペルソナという図式が成立した歴史を描いている。この本でもテルトゥリアヌスの先見性が幾度か指摘されている。やはりいつかは「不合理ゆえに吾信ず」に挑戦せねばなるまい。

 

■大塚節治『キリスト教要義』日本基督教団出版局,1971年

坂口先生の本だとキリスト論、三一論は「思想の歴史」として説明されているが、「信仰の歴史」として説明しているのが大塚先生の本。古い本だが、明快にきっちりと書かれている。大塚先生は、執筆時点で調べきれなかった点、調べたけれどわからなかった点について、その旨を明記されていて、非常に良心的である。教義学について確認したいことがあるたびに開くことになりそうだ。個人的に不思議だったのは、一見とっつきやすいエッセー風の坂口さんの本よりも、一見真面目で硬い感じの大塚先生の本のほうが親しみやすく感じたことである。印象の違いはどこからくるのか、僕はまだ自分の言葉で説明できないでいる。

 

■並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』河出新書,2022年
旧約学の泰斗並木先生と、その教え子の作家奥泉さんの対談をとおして旧約聖書の概要を学ぼうという一冊。丸山眞男の「自己内対話」から神の複数性を考えたり、イヴの想像力から大江健三郎に言及したり、さらっとレヴィ=ストロースの『野生の思考』が引かれたりと、並木先生の旧約学以外の学識に目を見張ることがおおかった。専門分野以外のことをどれだけ勉強しているのだろうか、この人は。奥泉さんのツッコミ力にもハッとさせられる。旧約聖書のテキストは、一文ごとに彫琢されてきたものであり、細かくつっこみながら読むとものすごい豊かな内容をもっているということが伝わる対談だった。並木先生の発言でハッとさせられたところを記しておく。「ユダヤ教を離れても信仰は個々人の責任だから処罰なんかない。そこがイスラムとの違いです。イスラムは原則として棄教できない」(76頁)。「幻想を抱かない人間が理想主義者になる。(中略)理想主義者は理想に到達できないのだということを覚悟する」(本書195頁)。

■阿部謹也、網野善彦、石井進、樺山紘一『中世の世界(上)(下)』中公新書、1981年

西洋中世史と日本中世史から2人ずつの気鋭の学者があつまり、対談した本。冒頭の「海・山・川」の章から飛ばしている。井上鋭夫さんの『一向一揆の研究』を参照しつつ、ワタリ(舟をあやつって交易や物資の運搬に従事する人)・タイシ(聖徳太子信仰をもち、箕作りや筏流しを業としていた)という非農業民が紹介されているのがおもしろかった。タイシの人々は、もともとは仏像や寺院の建造に携わる技術者であり、聖徳太子信仰をもっていたが、材料となる鉱山や山林と材料を運ぶ河川のそばに住むうちに山の民から川の民と変化していったと説明されている。個人的には聖徳太子創建と伝わる古寺は多すぎるぐらいあるのだが、そのなかにタイシの人々が作ったお寺も含まれているのだろうと想像した。ほかの章も興味深い問題提起がおおかったが、書ききれない。また折をみて読み返そうと思う。

 

■直木公彦『白隠禅師 ー健康法と逸話』日本教文社、昭和30年

江戸時代に独自の養生法、治療法を提唱したことで名高い白隠禅師の著作がコンパクトに紹介されている本。白隠禅師が京都の白幽仙人から教えをうけたという「軟酥(なんそ)の法」は、そのままでマインドフルネスとして通用しそうな内容をもっていた。個人的には、白隠禅師が地獄と極楽について教えてほしいと訪ねてきた武士に応対したときの逸話が面白かった。白隠禅師のおられた松蔭寺に一度は行ってみたいと思う。

 

■シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』みすず書房、1966年

旧約聖書を読むにはイスラエルの歴史をおおまかに知っていたほうがよいと思い手に入れた一冊。フランス革命がユダヤ人にもたらした解放感と、ナポレオン失脚後にユダヤ人が直面した迫害の対比につい言葉を失ってしまった。しかし、この本を読んでいると、近代の西洋が文明の優越を誇っていたとき、その文明を牽引したのがユダヤ系のキリスト教徒だったということがよくわかった。