憲法論の神学論争化について | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

憲法記念日に憲法について感じたことを考え直してみる。

まずは現状確認から。

 

■1.「憲法解釈」という言葉の不思議さ

「憲法解釈」という言葉がとても不思議な使い方をされている。僕はそう思う。テレビニュースを見る限り、「憲法条文と現状のズレをどのように理屈づけるか」という文脈で、「憲法解釈」、「解釈改憲」という言葉は使われている。

 

しかし、W・ディルタイが提唱した「解釈学」は、テキストの真意をつかむため方法論として出発した学問だ。ディルタイの意図を引き継ぐならば、「憲法解釈」とは本来、憲法が条文を通して表現しようとしていた本質的な事柄はなんなのかを考えることである。別言すれば、憲法条文を1つの結果と見なし、条文の奥にある原因を探ろうとする事だ。

 

本質的な事柄 → 憲法条文 ← 現実

 

上のような図式を書いてみると分かりやすいかもしれない。もちろん、左の→がディルタイの解釈学、右の←が今の日本の憲法解釈となるだろう。なぜディルタイ的な意味での「憲法解釈」が話題にすらならないのか、僕は不思議に思う。

 

■2.ズレの解消方法

「70年前の憲法は、現状とズレている。だから憲法を変えるべき」という人がいる。たしかにズレはあるのかもしれない。また、そのようなズレは解消したほうがよいのかもしれない。

 

だが仮にそうだとしても、”どちらか一方だけを変えることでズレを解消すればよい”ということには、単純にはならない。「現状に合わせて憲法を変えること」と「憲法に合わせて現状を変えること」はどちらも憲法と現状のズレを解消する手段になりうる。でもなぜか、テレビでは前者の意見しか聴かれない。不思議なことだ。

 

■3.憲法議論が神学化している

次に、憲法の議論が活発化している(らしい)にもかかわらず、意見の乱立だけ起こって、議論が平行線のままなのかということを考えてみたい。

 

いや、考えるまでもない。議論が平行線をたどっているのは、対立している人々の間で「現状の認識」、もっと正確にいえば「現状に対する直感的な判断」が異なるからだ。そして、議論が「憲法条文」と「直感的に把握された現状」のズレに着目するからだ。

 

外国から侵略の危険があると思う人がいて、そんなに危険はないと思う人がいる。直感的な現状認識は人それぞれ異なる。しかも、やっかいなことに、それぞれの人は、その直感を自明だと考えている。どちらの直感が正しいかを”論理的に”決めることは非常に難しい。もともと難しいことを試みているから、混乱し、収拾がつかなくなる。かつての神学論争と同じだ。

 

キリスト教の歴史では、一時期、「聖書が何を言わんとしているか」という探究がおろそかになり、「自分の主張を聖書を使っていかに正当化するか」という方向に傾いたことがあった。キリスト教が広まり、各地に様々な教会ができるなかで、儀式のやり方とか、偶像についての取り扱いなど、細かい違いがでてくる。それぞれの教会がそれぞれの現実を根拠づけようと聖書を読みだしたことが、煩雑で空疎な神学論争として結実した。

 

煩瑣な神学論争に疲れ果て、教団が分裂するたびごとに、キリスト教は聖書本文へと原点回帰することで、幾度となく活力を取り戻してきた。今の日本の憲法議論も、過去のキリスト教神学とよくにた顛末をたどりつつある。僕にはそう思える。

 

解決策は簡単。平行線をたどる憲法議論を、疲れ果てるまで続けることである。みんながヘトヘトになって嫌気がさしたとき、「そもそも憲法って何を言おうとしてるの」という点への回帰が起こってくるように思う。憲法と現状のズレではなく、憲法の条文そのものに焦点が移った時、ディルタイが言った意味での、「本来の憲法解釈」の議論がスタートするはずだ。

 

たくさんの人が、色々な意見をもつこと。その状態が望ましいのは、人権的観点からとか、寛容の精神とか、そんな倫理的な要請によってではない。人間という生き物は、お互いに異なる意見を持つということによってしか、「意見の異なりを感知できる共通基盤をお互いが共有していること」を知ることができない。歩み寄るまでもなく、人間には深い共通の基盤がある。その基盤への信頼こそが、日本国憲法の条文の奥にある本質なのだと僕は密かに思っている。


5月の連休には、密かに何かを思わせる作用があるようだ。

 

【2016年5月5日追記】

巷には、「憲法条文にこだわりすぎて、現実の国際情勢をちゃんとみないから、憲法議論が神学論争化している」と憲法学者たちを非難する意見が多くあるようだ。しかし、それは端的に言って誤解だ。むしろ、そのような「現実の国際情勢をちゃんと見よ」という政治家やその周りの人たちの主張のほうが、神学論争化をまねいている。ちなみに「神学論争」と「机上の空論」は違うのだが、その違いがあまりにも理解されていない。

 

【2017年3月15日追記】

「神学論争」と「机上の空論」について補足しておく。言わずもがなだが、前者は現実をみすぎることに、後者は現実をみなさすぎることに根差している。僕は、憲法についての神学論争は勘弁だが、「机上の空論」は歓迎したいと思う。なぜなら、「憲法=Constitution」は「法律」ではなくて、国家の「設立趣意書」であるからだ(学校でいうなら「校則」ではなくて「建学の精神」である)。設立趣意書にはある種の「願い」が込められる。「願い」は「願い」なのであるから、必然的に現実と乖離した「机上の空論」という側面を持つ。その意味で、僕は今の憲法議論に一番期待したいのは、日本国憲法に込められた「願い」をきっちりと読み取り、理解するという「机上の空論」である。「空論」部分がしっかりとしなければ、「願い」と現実にズレはあるのか、あるとしたらどういう意味におけるズレなのか、そのズレにどのように対処していけばよいのかという点についての議論はブレざるを得ない。

僕なりの「空論」の結果は以下の通り。国会で議論になっていた「他国の示威行動」は、日本国憲法に込められた「願い」(と僕が読み取ったもの)からすれば、「何らかの対抗処置を必要とする脅威」ではなく、「国同士のコミュニケーション不足の顕れ」に過ぎない。僕の常識はそのように告げている。