年頭所感2016 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

新しい年が明けた。

引っ越しして、はじめての年明けである。試験勉強があるので、実家には帰らず。

相方さんと二人、近隣の神社の太鼓、お寺の鐘の音に包まれての年越しとなった。

12月末には再試験に回ったことで、一時危ぶまれていた大学卒業判定が無事クリア。

いよいよ国家試験にむけて踏ん張りどきである。


去年は、なんだかきな臭い一年だった。

国際ニュースでは、テロや各地の戦闘、難民の話が飛び交っていたし、

日本の中では、沖縄、集団的自衛権、軽減税率など、政局問題がにぎわっていた。


思想関係では、長田弘さん、鶴見俊輔さんが相次いで亡くなり、いよいよ世代交代である。

一方で、一読してたいしたことないなと思われる言論人の本が結構売れたりして、

このレベルで本を出してよい時代になったのかと思うと、やはりさびしくなる。


個人的には、NHKドラマ『ボクの妻と結婚して下さい』に好感を持てたのと、

『ブラタモリ』シリーズ、小栗康平監督の『FOUJITA』と『じっとしている唄』がアタリだった。

ウッちゃんとマッキーの組み合わせに、それだけでちょっと涙腺がゆるんでしまう。

NHKのBS『英雄たちの選択』もできるだけ見るようにしている。最近、歴史が気になる。


元いた大学院のゼミにはしばらく顔を出していなかったのだが、9月からの秋学期に

ひょこりと参加してみた。やはり、思想の根幹は、自分で考えぬくことが大切である。

沢山の人が集まっていろいろ議論して、みんなの共通合意を出そうとすると、

みんなが共有できるような論点しか論じることができない。そこがちょっと辛かった。


おそらくなのだが、僕にとって本当に大切な問いとは、僕にとってのみ、

その大切さが切実に感じ取れるような、そんなたぐいの問いなのではないか。

少なくとも、僕にとって興味があるのはそういう問いである。

みんなが話し合って、納得する解を探せるような問題は、僕にはグッとこない。

「有識者会議」などという言葉に、どうしても距離を保っておきたい自分がいる。


哲学であろうと、神学であろうと、僕は、僕自身の根底にたどり着くために、そして、

その根底に湧出する「精神のエネルギー」(ベルグソン)に触れるために勝手気ままに

学んでいるにすぎない。誰々の思想の「正確な」理解など、率直にどうだってよい。

それよりも、誰々の思想を僕なりに考え直してみて、それが自分にとって本当かどうか、

経験と照らし合わせながら確かめていく作業のほうが、僕には興味がある。


思想系のアカデミズムでも、なぜだか議論の根拠が文献におかれることが多いのだが、

僕はやはり、学問の厳密さを担保するのは「誰かは○○と書いている」ではなくて、

「この文章は、客観的な事実(あるいはその主観的な経験)に即している」ことだと思う。

その点で、自然科学の悪名高きエビデンス主義に、文系が学んで良いのではないか。


たとえ、カントやヘーゲルの浩瀚な著作に挑むのであっても、探究の対象となるべきは、

彼らの文章というよりも、彼らの文章が言表しようとしている「事実」であろう。

そんなことを久々のゼミにでながら考え込んだ。数年前にも全く同じことを感じた気がする。


根源的な思想というものは、それを実生活に活かそうとしてはいけない、と僕は思う。

もし実生活に活かせる思想があるとすれば、それは根源的ではない。

根源的な思想とは、日々の生活の前提とはなっても、生活の内容には影響を与えない。

そんな風に「根源的」という言葉を用いたいと僕は考える。


今年から、僕はいよいよ医学の長い長い道を歩き始める(はずである)。

僕にとっての医学は、生活の知恵の延長にあり、その意味で根源的な思想ではない。

しかし、不思議なことに、根源的な思想は自分自身の根底にしかたどり着けないのに、

生活の知恵の延長である医学は、自分ではない他者に届く(らしい)。そこが興味深い。


先人達の気の遠くなるような医学探究の蓄積に、敬意と若干のうらめしさを抱きつつ、

急ぐのは苦手な僕ではあるが、なんとか取り残されずにやっていけたらと思う。