『ベイマックス』 ‐たぶんアメリカ版トトロ‐ | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

『ベイマックス』を相方さんと拝見。


随所にちりばめられた日本への憧憬がくすぐったいだけでなく、

ユーモアとアクション満載の楽しい作品になっている。


ベイマックスというロボットは、たぶんトトロがモチーフになっている。


(似ているところ)

・体型

・お腹がプニプニとやわらかいところ

・上半身を動かさない歩き方。足がひょこひょこ。

・道具をつかって飛べる(コマとパワーアップスーツの違いはあるが)

・裏表がない


これだけ似ていれば、ベイマックスはトトロをモチーフにしている、

ということでよいのではないか。暴論ですか?


そのうえで、トトロとベイマックスの違いについて考えてみる。


(違っているところ トトロ/ベイマックスの順)

・得体のしれないもの/人間がつくりだしたもの

・きまぐれ/人の指示に従う

・生き物(?)/ロボット

・見える人にしか見えない/誰もが見える


ここまで書きだせば、トトロとベイマックスの対比はある程度可能だろう。


上に挙げたトトロとベイマックスの相違点は、まさに日本とアメリカの

考え方の方向性の違いを反映しているようにみえるから面白い。


たとえば、この映画で最も倫理的にふるまったのはベイマックスだった。

感情を持たないロボットであるベイマックスが、合理的な計算の果てに

導き出した答えがもっとも献身的な行為となる。


一方、トトロはまったくもって、倫理的ではない。

人間の側からすれば、トトロは、いつ出現するかもわからないし、

いつ助けてくれるかもわからない。かなり気まぐれな存在である。

でも、本当に困っているときにトトロは助けてくれる。


こうしてみてくると、アメリカ映画は、「得体のしれない良いやつ」を

失って久しいのではないかと思えてくる。

「得体のしれない悪いやつ」はたくさん見かけるのに。

単に、アメリカがマイナス志向で、日本が能天気なのかもしれないが。


西田幾多郎の「物となって生きる」という倫理論を思い出しながらも、

倫理的な行為を最初からロボットという「物」に押し付けていく

『ベイマックス』の感覚には、ちょっとした居心地の悪さがあった。


でもたぶん、人の献身的な振舞いのほうが、それはそれで嫌味に

見えてしまうのだろう。どうやら僕は、素直さを失って久しいようだ。

しかし、素直に見るだけでは、どうにもならない時代のような気もする。


やれやれ。


↑は『ベイマックス』に対してではなく、時代、あるいは自分に向けた

ため息である。念のため。

『ベイマックス』はとってもリラックスして観られた久々の作品である。