読書記録 2014年後半 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

遅ればせながら2014年後半の読書記録。


■宗教関係
○山形孝夫『黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと』岩波書店、2013年
 東北の大震災を経験した宗教人類学者によるエッセイ集。「悲しみの門から入る」という視点から、「宗教」が問い直されている。「花は咲く」や「千の風になって」を歌う主体は、死者であるという指摘から入り、「哭く」という死者とのコミュニケーションと「聖霊の呻き」をリンクさせる考察、あるいは「死者との絆」の復権、大橋力さんの「ハイパーソニック・エフェクト」論の紹介、「絆」に呪縛という側面があることの指摘、、留学先アメリカでのキリスト教体験、ホスピスでの活動を通して考えた「死者を記憶すること」の意味など、興味深いと感じた論点が多かった。クリスチャンでありながら、キリスト教を押し付けようとせず、宗教臭さがない著者の語り口には好感が持てる。
 一方で少し違和感を感じた個所も散見された。キリスト教の「女性蔑視」や「反ユダヤ主義」への批判的考察部分は、若干、聖書や神学書の引用・解釈が恣意的であるように感じられた。確かに、読み方によっては、山形氏のようにK・バルトを「護教論的神学」として読むことができる。しかし、K・バルトの真の姿は、キリスト教的であるよりも、「事柄に即して」いることに重きが置かれていると僕は理解している。だから、僕としては、山形さんの議論から、真実のもつ凄みみたいなものを感じとれず、少し物足りない。
 最終章では、S・ヴェイユの「存在しない神への祈り」やJ・レノン「イマジン」の共感的な紹介がなされているのだが、若干道徳臭がキツイと感じた。というよりも、ヴェイユもレノンも、思想として表面化する部分が潔癖すぎるのだ(内面がどうかは知らない)。言い方が良くないかもしれないが、根っこが濁っているけれど、花がとてつもなく美しいイメージ。しかし、僕の私淑するK・バルトや滝澤克己といった先達の示した基督教理解は、ヴェイユよりも、J・レノンよりも遥かに老獪である。いや、老獪なのは現実に於いてのみであり、彼らの示す基督教は根底に於いては歯切れよい。それゆえに、ヴェイユやレノンに比べて、バルトや滝沢には、宗教臭さも、道徳臭さもなく、その代わりに明朗さがある。


○山形孝夫『聖書の起源』ちくま学芸文庫
○山形孝夫『治癒神イエスの誕生』ちくま学芸文庫
 上の二著ともに、イエスとその弟子たちの活動を、宗教者としてよりも、病の治癒者として捉えるという視点が提供・展開されている。アスクレピオスら別の治療神たちと確執、「病人=罪人」という構図の転換など、分析の角度は新鮮である。しかし、基督教における「救い」は単純に「治療」なのであろうか。単純にそうだとは言い切れないと感じる僕にとって、この著者の視座は、新鮮ではあるけれど、本質的ではないように写るのだがどうだろうか。とはいえ、癒しを単純に「奇蹟」とする教義的な見方も不十分だと感じるので、この山形さんの研究は、イエスの「医の技術者」という側面をみせてくれたという意味で、面白かった。


○栗栖ひろみ、『医者ルカの物語』ロバ通信社、1990年
 子供向けに書かれた使徒ルカの伝記作品。医者でもあったルカとイエス・キリストの対比を通して、従来の医療を超えるイエスの「癒しの業」の様子が描かれている。山形孝夫さんの本では、「治癒神」であるイエスは、文字通り病気を癒す営みを行っていた。しかし、この栗栖さんの本では、当時の最先端の医学をおさめたルカですら治せない病人を、イエスが癒す姿が描かれている。治すと癒すのこの微妙な差異を、ルカとイエスの対比として描いているこの伝記は、学術的な著作ではないけれど、なにか心に響いてくるものがある。


○寺園喜基訳『カール・バルト=滝沢克己往復書簡』新教出版社、2014年
 タイトルどおりの一冊だが、ほとんどは滝沢からバルト宛の手紙である。西田幾多郎=滝沢克己往復書簡のような短いやり取りとは異なり、かなり神学的に突っ込んだ議論を含む長文が多く、読み応えがある。滝沢のドイツ留学中から戦争を経てバルトの死去まで、激しく移り変わる時代の中で、二人の思想家がうつり変わらない事柄をどのように考えようとしていたかを知る上で非常に貴重な資料である。滝沢が椎名麟三、無教会派の藤井武など、論文では取り上げていない人らへ共感していた事実など、興味深い。バルトがパネンベルグに辛い評価を与えているだろうことは、なんとなく予想できていたのだが、この本でしっかりと文献的に確認できたのも収穫だった。ここ10年ぐらいで滝沢に関する資料はどんどん揃ってきているので、滝沢の思索の内容面についての議論が、これから盛んになることを願いたい。滝沢克己の言葉と、その言葉の指し示す原事実は、いつの時代においても、誰にとっても示唆的であろう。


○椎名麟三『私の聖書物語』中公文庫
 10年ぶりに再読。昔読んだときは、「なんだかうまいことごまかされてしまったな」という読後感だったが、今回読み直してみると、この本にごまかしは全くなかった。むしろ、とても厳密に、でも柔らかく書いてある。「クリスチャンになったからといって、私は幸福になったのではない。クリスチャンになる前と同じくらいに不幸である。ただ、それはほんとうには不幸ではないということを私は知っているのだ」というくだりは、椎名さんならではの表現でとても面白い。


■医学関係
○土居健郎『「甘え」の構造』弘文堂
○土居健郎『方法としての面接 -臨床家のために-』医学書院
○中井久夫『治療文化論』岩波現代文庫
○中井久夫『伝えることと、伝わること』ちくま学芸文庫
○中井久夫『家族の肖像』みすず書房
○木村敏『心の病理を考える』岩波新書
 ここに掲げた先生方の本は内容が濃い。土居先生のさらっと書かれている一文の凝縮力は尋常ではない。ゆえに、土居先生の本を読むときは、頁を前後に何回も行き来しながら、考えながら、染み込むのを待ちながら読むことになる。一方、中井先生の場合は、凝集と拡散が波のように文章のなかに交差して、読む体験が一つの流れのようにすーっと勝手に進んでいく。神社に神道という宗教ではなく、きのこの匂いをかぎ取る中井先生の感性は、日本的霊性のオルタナティブでありうると思う。木村先生の自己論は、医学の立場から望みうる最深部に触れてはいると思うのだが、医学が他者の観察からスタートしている学問である以上、自覚という思考ツールを利用できないというハンディキャップを負うている。だから、木村先生の議論を哲学として読んでしまう僕は、踏み込みがちょっと甘いように思えてしまう。

 個人的には、木村先生の文章が、一番自然なペースで読みながら考えられるという意味で、自分に合っている気がする。土居先生の文章はこちらが追いかけないといけないイメージ、中井先生の文章はこちらが吸い込まれていくイメージ。


○梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫
 古い時代の医学の発想が興味深いのはもちろんだが、丸山真男『日本政治思想史研究』の議論を下敷きとして、「政治がはやる時代と医学が重要視される時代は重なるのではないか」と指摘される梶田さんの勉強ぶりにも頭が下がった。「専門バカ」の対極に位置する医学者の姿が、それだけですでに歴史となってしまった医学の姿を伝えているように感じた。


○小俣和一郎『精神医学とナチズム』、講談社現代新書
 ドイツ精神医学の大物たちとナチの関連が紹介されている。ナチへの態度は、人的な思想うんぬんよりもユダヤ系かどうかの出自の問題により強く規定されているような気もするのだが気のせいだろうか。だから、ナチに迎合したからという理由だけでハイデガーはだめというのは、思想と民族というものの関係をまだ捉えきれていないように思う。


○下田哲也『医者とハサミは使いよう』コモンズ、2002年
 気軽に読めるエッセイだが、陰陽五行説を、「それぞれ他の『生み・生まれ・コントロールし・コンロトールされる』四つの独立した要素と有機的関連をもつ系とすると、その最小要素数は五つになるはず」と解釈するところは、とてもうなずかされた。


○傳田光洋『賢い皮膚 -思考する最大の〈臓器〉』ちくま新書
 皮膚を自律する一つの臓器と見做して、その機能を考えた本。皮膚の電気を通した知覚・免疫の様子を分かりやすく学ぶことができる。皮膚にオキシトシン受容体があるとか、痛みレセプターもあるとか、皮膚の密かなる働きの数々にびっくりさせられた。


■科学の「意味」論
○山鳥重『脳からみた心』NHKブックス、1985年
○多田富雄『免疫の意味論』青土社
 山鳥先生は、意識はひとつ、心は複数の機能(認知、記憶、言語など)の重ね書きと考えておられるようだ。この「機能」を「自律的なシステム」と見做せば、多田先生による「人間は、神経系、内分泌系、消化器系などの自律的な系=システムが重なった超システムである」という複合的人間観になる。いずれにせよ、大森荘蔵の「重ね書ぎ」理論と近いものを僕は感じ取った。


○安保徹『医療が病をつくる 免疫からの警鐘』岩波書店

○安保徹『免疫革命』講談社α文庫
○安保徹『人がガンになるたった二つの理由』講談社α文庫
 免疫というシステムと、気象、老化、がん化など様々な現象の関連が提唱されている。まさにメタ免疫学である。安保先生の議論は自由でおもしろい。


○J・モリス『裸のサル-動物学的人間像-』角川文庫
○B・ホロヴィッツ『人間と動物の病気を一緒にみる』インターシフト、2014年
 前著は、進化生物学の視点から、人間の行為がいかに動物と共通した部分をもっているかを示す。「笑い」や「傷ついた仲間をいたわる」といった行為が動物でも見られるというのは面白い。後著は、人と動物に共通する病気についての事実をたくさん収載。動物版たこつぼ型心筋症など、病気と生命の関係に思いを馳せさせてくれる一冊。


■その他
○長谷川真千子『民主主義とは何なのか』、文春新書
 フランス革命を知れば知るほど、民主主義という名前でどれだけの暴力が肯定されてきたことかと感じる。この本が丁寧に論証しているように、実際、民主主義の歴史は苦々しいものである。しかし、長谷川さんの「民主主義によって理性の働きが抑えられる」という説まではいえるのだろうか。たしかに、戦後、民主主義がその意義を理解されないままに礼賛されていた時期があり、その迎合具合に長谷川さんが反感を持たれているのはもっともであろう。だが僕は、現在の民主主義には「他の人と同じ考えをもつことを好む大衆主義」が入り込んでいるというオルテガの意見のほうに共感する。長谷川さんが嘆く知性の失墜には、民主主義よりも大衆主義のほうが寄与しているとおもうのだが、どうだろうか。むろん、大衆主義と民主主義が相互に育てあっていたということは十分にあり得ると思うのだが。


○三木亘『世界史の第三ラウンドは可能か』河出書房
 「未開・文明・野蛮」という循環史論の立場から、発展段階論にもとづく西洋的歴史学とは一線を画した「歴史生態学」を目指す本。冒頭の、「文明が飽和状態に達すると、文明から野蛮が生じる」、「これほど世界中が戦争でみたされた時代は世界史的には異様としかいいようが無い」という指摘には著者の静かな熱意が感じられる。世界帝国の建設後、遊牧生活に戻り、いまでは社会主義国となっているモンゴルの不思議さの指摘、上原専禄という歴史学者の存在、遊牧民にとって砂漠や草原こそ清浄であり都市は汚濁であるという指摘には、はっとさせられた。「売るために作る」近代資本主義に対し、「人々は自分たち自身が生きてゆくために何かものをつくる。そのものは、土地土地の条件でいろいろ違ったりしている。それを有無相通ずることによってお互い豊かになっていく。この豊かさは量の豊かさではなくて、多様性の豊かさです。それが商業の原点です」(193頁)と批評する一文には、身が引き締まった。


○宗左近『日本美 縄文の系譜』新潮選書
 この本は静かにぶっとんでいる。「土器や土偶や勾玉は、文字をもたない縄文の流通する宗教言語なのである」(53頁)というしびれる一文のほか、東北と熊野を縄文の地とし、夢幻能を縄文の名残とし、芭蕉、聖徳太子、信長らを縄文と結びつけて論じる宗さんの文章は力強い。「人間が生きてゆくとは、まず人間を超えた存在に取り憑かれること、次に、人間を超えた存在となって、新たな人間に取り憑くことである。そして、それが、歴史である。鎮魂の連続でない時間の継起は、歴史ではない」(262頁)。自分を徹底的に見つめるということは、おとなしくなるということではなく、自分の内なる生命のエネルギーの横溢に到達することである。その意味で、自覚とは、孤独であるかのようでいて、もっと社会的な営みなのである。
 
○司馬遼太郎『春灯雑記』朝日文庫
 司馬さんのやや硬めの日本論5本を集めた一冊。冒頭の「心と形」は司馬さんの宗教論のなかでも、かなりつっこんだ内容になっている。ただ、「歴史的変遷としてのキリスト教がすぐれているのは、絶対という大ウソを、神に対してしか捧げなかったことでしょう。この大ウソ以外は、ひたすらに認識的で論理的で、ひたすらに正直で、虚偽を忌んできました」(44頁)という司馬さんの評価には素直にはうなずけない。嘘と本当は、互いに互いを規定しているところがある。司馬さんが、キリスト教の神の絶対を大ウソと言えているということは、そのようにウソだと断罪している司馬さん自身の立場を本当としているということなのだ。僕に言わせれば、キリスト教が神以外のことがらに論理的だったのは、神が本当を生みだす源泉であって、神以外の事柄はどんなにまことしやかであろうとウソにすぎないと思っていたからではないだろうか。ウソを忌み嫌っていたから論理的になったのではなく、ウソしかあり得ない領域だからせめて論理的でなければならないと思っていたのではないか。


○福澤諭吉『福翁自伝』岩波文庫
 福沢さんの勉強時代と僕の学生時代を比較すると、福沢さんほどには勉強していないし、福沢さんほどにはお酒を飲んでいたわけではなかった。そんなやぼな読者であるぼくからすると、どこまでも誠実な吉田松陰よりも、武士らしくもなく武士らしくもあった福沢さんのほうが面白い。