『ジュピター』 ‐もはや宇宙にスペースは無い‐ | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ウォシャウスキー監督の久々の作品『ジュピター』を拝見した。


鑑賞後の感触は・・・「こ、こ、これは、SFではないぞ。」

かの迷作『砂の惑星』に似ていると表現するのが映画ファンの方には

分かりやすいだろうか。

区分けとしては、数年後にはC級スペースオペラ映画として、カルト的に

ファンに語り継がれるタイプの作品だろうな・・・と思ってしまった。


そういえばマトリックスシリーズも、2・3作目になると、いつのまにか

スペース・オペラ化し、1作目のような鋭いSFさが無くなっていたような・・・


最も印象に残ったのは、「宇宙がごちゃごちゃしている」という感覚だった。
星があって、宇宙船があって、星間の移動はすべてワープ。

星の表面は配管だらけの工場みたいなメタリックな建造物で覆われる。

『ジュピター』の「宇宙」は、どこもかしこも、「もの」に溢れていた。

逆の言い方をすると、『ジュピター』の「宇宙」にはスペースがない。


かつて映画において、「宇宙」は、「無」の表象ではなかったか。

本当の宇宙の大半は真空でできているのではなかったか。

人が素手では生きていけない世界こそが、宇宙ではなかったか。


はじめて僕が『2001年宇宙の旅』を見たときに感じた、「宇宙の怖さ」

みたいなものは、『ジュピター』の宇宙には感じられない。


むしろ、ごちゃごちゃとものが溢れる『ジュピター』の宇宙をみて、

別の意味での「なんともいえない無」を僕は感じ取った。


もしかすると、観客の心に空虚さをつくりだすという意味では、

この作品は、抜群に優れているのかもしれない。


さらにひねくれて考えるならば、人間の劣化が映画の成長を生み、

映画の劣化が人間の成長を促す、そのような皮肉な逆説こそが、

この映画の隠されたテーマなのかもしれない。


今の僕には「○○かもしれない」といういい方でしか、この作品について

何事かを語ることはできない。


やれやれ。